あの7人目は
「六時五十七分。そろそろ時間だな。今日は覚悟しとけよ!恐怖で寝れなくしてやるからな!」
私は古びた駅の時計を見て一人ニヤニヤして呟き、皆の到着を今や遅しと待っていた。そう今日は、待ちに待った、というか、今回の私の名誉挽回になるはずのオカルト研究会恒例になった年一回の百物語パーティーだ。
大体、私がこのオカルト研究会に入ったのは、元々怪談話が好きであった事は間違いないのだが、それにも増して、私を勧誘した高山先輩がいたからだ。あの美貌で、『君、一回生?良かったらうちのオカルト研究会に入らない?』なんて手を握られながら声を掛けられたおかげで、つい、私も頭がボーとして、よくわからないまま返事で『ハイッ!』と答えてしまった。これが、私の大学生活における悲劇の始まりだった。この研究会のおかげで、バイトをする時間はない、試験時間はない、パシリのように扱われる等、散々だった。しかも、今から考えると当時は変な先輩が沢山いた。本当に取り憑かれているのでは、と思うような先輩までもいた。私は入部して直ぐに後悔した。何度も退部しようと思ったが、どういう訳か、その度に高山先輩が『頑張って一緒にこの研究会を盛り上げて行きましょうね』と私を励ましに来た。私も止せば良いのに、また『ハイッ!頑張りますっ!』といつもニッコリと答えてしまった。不思議だった。何故か、あの先輩の笑顔を見ていると嫌と言えないのだ。この事の方が、私にとっては、はるかにオカルト現象だ。
こうやって私はズルズルと三年も在籍してしまった。しかし、その憧れの高山先輩も卒業した。今となっては、この研究会に残る意味も無いように思えたが、折角、ここまで我慢したし、後はあの嫌味な山口先輩が今年卒業すれば、この研究会は三回生ただ一人の私が部長に就任する事になる。そうなれば、いつも私の怪談話を山口先輩と一緒になって、面白くない、とか、怖くないと言って来た二回生の二人と今年入部した一回生二人の、私の見方が変わって来るに違いない!その為にも、是非とも三回生が幹事となる、この百物語パーティーは成功させなければならない!
私は、この今日という一日の為に大学生活の全てを賭けたつもりだ。それに、空を見上げれば、いつ雨が降ってもおかしくない雲行きだ。雰囲気も完璧だ。天も私を応援している!今日は私こそが主役だ!
胸を躍らせていると、ちょうど電車も入って来た。私はワクワクする気持ちを押え、改札に走った。五人がブツブツ言いながら電車から降りて来た。そして、改札で私を発見するや否や、山口先輩が、
「オイ!谷田!何で、こんな遠い所を会場に選ぶんだよ!」
早速、不満を口にした。いつものように、それにつられて二回生の岡崎と葉山も、
「そうですよ、先輩。幾らなんでも遠過ぎますよ」
二人で顔を合わせて頷いていた。
「何を言ってるんだよ、お前ら。何事も金と時間を賭けなきゃ、良い物は手に入らないよ」
私は余裕の表情で答えてやった。
「ところで、岡崎。部費は持って来ただろうな」
「はい。先輩から見積りを貰ったので、それプラス幾らか多く持って来ました。でも、少し高いですね」
岡崎は会場となる旅館の料金に不満を持っているようだった。
「まあ、あの旅館の雰囲気を見れば納得するよ」
とは言ったものの、正直、私もあの金額には驚いた。しかし、あの気味の悪さは金ではかえないと会計の岡崎を説得したのだった。
「ところで、谷田先輩」
今度は一回生の中山が、何か言いたそうに周りをキョロキョロしながら尋ねて来た。
「本当に、こんな田舎町に旅館なんてあるんですか?」
それは不満とも単なる質問とも分からない言い方だった。何れにしても、大学から二時間半も電車に揺らされていたのだから、きっと、電車の中では不平不満が爆発していたに違いない。しかし、私は中山の先輩だ。その辺があって、どちらとも言えない言い方になったのだろう。
「勿論だ!バッチリの所だぜ!」
意味有り気に笑って見せた。中山は、滅多に笑わない私の笑みがよほど気持ち悪かったのか、顔を引き攣らせて、一度だけ頷くと何も言わなくなった。
「谷田。その旅館は何処にあるんだ?」
山口先輩も中山同様、辺りを見回して肝心の旅館を探していた。
「ここからは見えませんよ。あと二十分位歩きますから」
私が何気なく答えると、
「ええっ!二十分も歩くの!」
一斉に反発の声があがり、全員、私を睨むように見つめた。
「えっ、あ、ああ、そうだ。しゃべりながら歩いたら直ぐだから、さあ、行こう!」
私は全員の視線に耐えられなくなり、すぐさま先頭を切ってしゃべること無く歩き始めた。時々、後ろからブツブツ言う声が聞こえて来たが、気付かない振りをした。
私たちは、まるで、時代劇の背景に出てきそうな、畦道をひたすら歩いた。天気が良ければ、まだこの時間は明るいだろうが、曇り空の今日は、もうかなり暗くなりかけていた。田んぼからは、雨を待っているのか、蛙が五月蝿いほど鳴いている。
最初はブツブツ言っていた後ろの連中も、この薄暗い畦道を、どんな所へ連れて行かれるのか分からないまま歩いていると、不安を感じ始めたのだろう。急に静かになって来た。前を黙々と歩く私には、全員の表情が手に取るように分かるようで可笑しかった。私が、一人ほくそ笑んでいると、後ろから、不意に、
「あ、あのう、谷田先輩」
一回生で、わが研究会、紅一点の由利ちゃんが声を震わせながら尋ねて来た。
「時間の方は大丈夫なんでしょうか?」
「ああ。七時半から九時二〇分まで予約してあるから、時間はタップリあるよ」
「い、いや、そういう事では無くて、帰りの時間の事なんです」
「え?帰りの時間?」
「はい。駅の時刻表を見ると、九時台以降は二本しかなかったので、それで、大丈夫かなあ、と思いまして……」
私は由利ちゃんの質問に内心ガッカリした。てっきり、この雰囲気を怖がっている物とばかり考えていたからだ。
確かに、一時間に二本しかない電車に乗り遅れると大変な時間のロスになる。門限のある、女の子特有の不安だな。そう思うと心配になるのも分かるような気がした。
「ちゃんと、電車に間に合うように終わるよ」
優しく答えると、私は先を急いだ。想像以上に早く周りが暗くなって来たのだ。あの旅館に行くには、この畦道から曲がって細い山道を上らなくてはならない。直ぐ傍に人家も無く、外灯も無い、この道で真っ暗になると、私自身、道が判らなくなってしまう。私は表情にこそ出さなかったが、かなり焦っていた。目だけをキョロキョロさせて注意深く道を探していると、ようやく山道の上がり口を見つけた。私は何も言わず、スッと暗い山道へと入って行った。
「オイ……こんな所……行くのか?」
山口先輩の不安そうな声がしたが、敢えて何も答えなかった。これも不安を駆り立てるという私の心理作戦の一つだ。暫く上ると、小さな明かりが一つ、ボツンと点いていた。ようやく目的地の旅館が見えた。
林に囲まれた、山の斜面に建つ、この旅館は創業二百年という由緒正しき物だそうだ。だが、私には、単に古い農家を改造した物にしか見えない。その価値は私には良く分からないが、この古さが無気味さの源になっている事は間違いない。
私は、ようやく到着した事で、やれやれと思い、額から流れる汗を拭いて後ろを振り返った。すると、皆、立ち止まって、この旅館を何も言わず見つめていた。きっと、彼らには、この旅館が新しいとか古いとかも判らず、単に不気味な黒い大きな塊にしか見えていない筈だ。その証拠に、私が近づき、声を掛けると、皆、ビクッとした表情をしていた。
「着きましたよ。ここです」
わざと、声を殺し、静かにそう告げると、
「あ、ああ。分かった」
山口先輩は何度も唇を舐めて頷いた。その様子から、私は七割方、自分のペースに引き込めたと確信した。これからですよ、怖いのは!私は心の中で呟くと、一人でサッサと玄関へ向かった。皆、急いで、私の後ろに着いたのが、その足音で分かった。
「すみませーん!」
大きな声で叫ぶと、奥から女将が出て来た。
「予約を入れた、谷田です」
そう告げると、私たち全員を一通りチラッと見たかと思うと、
「どうぞっ」
相変わらず無愛想な表情で私たちを案内した。
と言うのも、実は私は既に二時間前に、ここに来て女将と顔を会わせているのだ。その時、無愛想だった人が、今更、愛想良くなる訳はない。最初見た時、良くこんな態度で客商売が勤まるな、と思っていたが、注意深く周りを見てみると、客は私たちだけである。建物全体も妙に埃っぽい。人が長い間、訪れていない証拠だ。やはり、この女将には客商売は向いていないのだ。
しかし、考えようによっては、私はこの女将に助けられたのかもしれない。もし、この女将が愛想の良い人だったら、私が二時間前に、部屋で皆を驚かす仕掛けを施していた事などを話されていたかもしれない。そう思うと、私はラッキーだ。一人、玄関でニタニタしていると皆、女将に着いて長い廊下を歩いていた。今度は、私が急いで、後に着いた。
私が会場に選んだのは、この旅館唯一の、一番奥にある離れの和室だ。部屋に挟まれた、薄暗い裸電球が点在する長い廊下を、ただ、黙々と歩いた。前を歩く皆の顔がやたらキョロキョロとしている。私は皆、不気味さを堪能してくれていると思った。本館を出て、小さな渡り廊下を渡ると、そこが会場となる和室の部屋だ。女将は、襖を開け、電気を点けると、何も言わず、ぶっきらぼうに手でここだ、と言わんばかりに案内した。
「食事を持って来ます」
女将はたった一言、そう言うと襖をバタンと閉め、サッサと出て行った。女将が出て行った事を確認すると、岡崎が二十畳ほどある、この部屋をグルっと見回して、
「確かに、先輩の言う通り、気味の悪い感じがする部屋ですよね……なんだかうす暗くて」
しみじみと言うと、皆、一様に頷いていた。
埃こそは無いが、かび臭さが残っている。もう何年も人を入れた事がない、いわば、開かずの部屋だったに違いない。
さっき、部屋にはいって仕掛けをしていた時は、まだ、明るかったから気にはならなかったが、陽が完全に落ちて、周りが真っ暗になってみると、確かに、自分で言うのも何だが、気味が悪かった。
「さ、さあ、座りましょう」
私が声を掛けると、顔を強張らせていた由利ちゃんが、突然、
「この部屋……何か感じます……」
そう皆に聞こえるように呟いた。皆、一斉に由利ちゃんを振り向いた。
この由利ちゃんというのは、自称ではあるが、霊能者だそうだ。もっとも、私はそんな物を全く信じていない。私が怪談話を好きなのは、そんな事があれば面白いという理由だからだ。だから、霊が見えるとか、声が聞こえるとかは、単なる妄想だろう程度しか思っていない。しかし、今の由利ちゃんの言葉を利用しない手は無い。私は咄嗟に判断すると、
「もしかして、女性の霊じゃ……ないかな?」
私は由利ちゃんの顔を覗き込み、そう答えを誘導した。
「はい。たぶん……そんな気がします」
「……そうか……やっぱりな」
わざと意味有り気な顔をして頷いて見せた。
「オ、オイ、谷田。どういう事だよ!」
案の定、山口先輩は少し怯えた表情で私に尋ねて来た。
「実は、私がここを会場に選んだ理由は……あっ、いや、今はやめましょう。私の番の時にお話ししますよ」
私は少しニヤッとして、話を終わらせた。もちろん、皆、不満そうだったが、私は素知らぬ顔をして自分の席に座った。
「まあ、皆、座ってくれ。それと、この紙に名前が書いてあるから」
ポケットから大方決めていた座席表を取り出し皆に見せた。
「本当だ。一応席が決まっているんだ」
口々に言いながら席に着いた。
この部屋の形は、唯一の出入り口となる襖を開けると、正面に窓、左手には押入れがある。そして、全員の配置は、襖を背にして、嫌な山口先輩、生意気な二回生の岡崎と葉山。その向かい側、つまり、窓を背にして、私、一回生の由利ちゃんと中山。と、二列に分かれて座らせた。
この位置が大切になる!最大の仕掛けが窓の外で起こるからだ!この窓を見せる為に、あの三人を窓の正面に座らせたのだ!そうとも知らない可哀想な三人。今日は、タップリ怖がらせてやる!私は顔が綻んでいくのを必死で堪えていた。
その時、何の前触れも無く襖がガラッと開いた。これには、私を含め、全員が驚いた。見ると、廊下の薄明かりの中、女将が立っていた。
「食事を持って来ました」
「ビックリしたな、もう」
小声で囁き合っていたが、女将と分かると一様にホッとした表情を浮かべた。こんな調子で接客されれば、客は嫌がるだろう。せめて声を掛けたあと襖を開ければいいと思うが。やはり私自身、二度と来るものかと思った。しかし、料理の方は意外と豪華な物だった。山菜やら川魚やらと彩り豊かな物が御膳を埋め尽くした。皆、この旅館の気味悪い雰囲気も忘れて、暫し、料理に舌鼓を打っていた。酒も少し入り、頃合も良くなって来た。私はふと時計に目をやると、もう八時になっていた。さあ、始めるぞ!私は意気込んで立ち上がった。
「宴も酣ですが、そろそろ恒例の百物語を始めたいと思います。まあ、一回生の二人は雰囲気だけでも掴んでおいて下さい」
私は持って来た一本の太い蝋燭を取り出し、火を点け、私たちの中心に置くと電気を消した。途端に、揺らめく炎が各々の影を壁に映し出した。今までの和やかな雰囲気とは変わって、グッと緊張が走った。
電気では、うす暗いながらも部屋の隅々まで一応明かりが行き届くが、蝋燭だと部屋の四隅までは明かりが届かない。暗い箇所が部屋に出現するのだ。元々、視覚によって多くの情報を得る人間にとって、暗いというのは間違いなく恐怖だ。それにも増して、この旅館が持つ不気味な雰囲気。相乗効果は抜群だ!私は今日の成功を確信した!
まさか、最後にあんな恐ろしい事が実際に起きるとも知らずに……。
「さあ、一番手は、一回生の中山からだ」
私が中山を紹介すると、かなり緊張している様子が容易に窺えた。軽く、咳払いをすると少しうわずった声で、
「はい。それではお話します。皆さん、犬山峠にあるトンネルの……」
唇を何度も舐めながら話を続けていた。
百物語と言っても実際に百話の話を六人でする訳ではない。一人、一話。つまり、今日は六人だから、合計六話の話をする事になる。私の計算では一人、約一〇分だ。ここまでは何もかもが計算通りだ。私は自分の番が待ち遠し過ぎて、中山の話をあまり聞いていなかった。何だか周りが異様に静かなのに気が付いて顔を上げると、皆、私を見つめていた。
「オイ!進行役!何、ニヤニヤしてるんだよ!もう、中山の話は終わったぞ!」
山口先輩が私を睨んでいた。
「す、すみません。え~と、次は……由利ちゃん、お願いします」
すっかり自分の事に気を取られて周りの事を完全に忘れていたのだ。折角、ここまで順調に行っているのに蹴躓いている場合ではない。自分の番が来るまでは、進行役としての役目を果たさなければならない!
「これは、私が実際に体験した話なんですけど……」
由利ちゃんは、こう前置きすると俯き加減で話を始めた。さすがに自称、霊能者。確かに単なる話ではなく、実体験に基づくという点では恐怖を身近に感じる事が出来る。しかし、残念ながら緊張の為、早口だ。これでは、聞き取れない所が出て来て、真の恐怖は伝わらない。来年に期待だな。由利ちゃんの話を聞き終わり、そう結論付けた。
今日の成功を確信した私の気分は、既に指導者としての部長感覚だった。
「次は葉山」
「はい。僕の話は……」
私は、葉山、続けて岡崎の話を真剣に聞いてみた。確かに二回生だけあって、一回生の二人よりマシではあるが、それでも恐怖は感じられない。いつも私の話を怖くないというが、この二人も大した事は無い。
二人のネタは最近流行の都市伝説というヤツだったが、話の中盤でどうも結論が判ってしまう。これでは折角のネタも先読みされて結論に達すると、『ほら、やっぱり!』で終わってしまう。彼らには、結論がバレない工夫をして貰う必要があるな。この二人には六〇点だな。そう結論付けた。
そもそも、恐怖を伝えるには巧みな話術が必要だ。元々、あり得ない話をするのだから、如何に現実的かを伝えなければ恐怖は起こり得ない!今までの四人は恐怖を『話した』に過ぎず、恐怖を『感じて』いない!同じネタであっても、この技法を持つ者と持たない者とでは雲泥の差がつく。
私自身もこの技法をまだ完全に体得していない。だが、我がオカルト研究会に、ただ一人、この技法を持った人間がいる!それは、現・部長である、私の嫌いな山口先輩だ!この人の怪談話は正直言って怖くて、あとに残る!怪談好きの私でも、あまり聞きたくないと感じるほどだ。この人は話術が巧みなのは言うまでも無いが、同時に場の空気を読むのも相当上手く、演技力もある。そして、その場所にある物でさえ、上手く利用して話に組み込んで行く技術も持っている。去年の時は、話していたかと思うと急にピタッと止め、そして、薄暗い所を少し怯えた表情でジッと見つめる。当然、私たちはその方向に顔を向け、何かあるのかと質問すると、『い、いや、何でもない』と、また、話を続けるのである。私たちは知らず知らずに、この人の術中に嵌っていたのだ。この技法だけは、次期部長の私としては何とか盗みたい所だった。
次は、その山口先輩の番だ。いや、怪談話にかけては、尊敬の念を込め、山口部長と呼ぶべきか。出来れば、こんな不気味な場所で、この人の話は聞きたくないが、止むを得ない。私は嫌々ながらコールした。
「次は、山口部長の番です」
「よし!お前ら、こんな話を聞いた事あるか?実はな……」
勢い良く話が始まると私は耳を塞ぎたい気がしたが、そうも出来ない。暫くして、皆を見てみると、蝋燭の明かりで、その顔が歪んでいるのが判る。早速、山口先輩のペースに嵌っているのだ。さすが、と思う間もなく、次々と恐怖が襲って来る。もう、止めてくれ!と叫びたくなる一歩手前で、ようやく話が終わった。私が肩を撫で下ろすと、周りから小さな溜息が聞こえて来た。皆、恐怖を感じていた証拠だ。話し終わった山口先輩をチラッと見ると、まるで、勝ち誇ったような顔で各々の顔を覗き込むように見ては頷いていた。皆の恐怖に気を良くしたのか、上機嫌に、
「さあ、次は殿の幹事さんだな」
余裕の笑みを浮かべながら私を振り向いた。
「谷田先輩!最後はビシッと決めて下さいよ」
葉山が茶化すように私に声を掛けた。内心、その物の言い方にムッとしたが、『まあ、いい。あとで吠え面かくなよ!』心で呟き、怒りを静めた。
さっきも言ったが、私には山口先輩のような完璧な技法は持ち合わせていない。しかし、その技法は全て感覚に訴える物だ。私は、少々卑怯ではあるが、敢えて感覚ではなく、視覚に訴える作戦を選んだ。それが、この部屋に施してある仕掛けだ。要は、相手を怖がらせれば、それで勝利なのだ。
それを実行する、待ちに待った私の番が来たのだ!話が終わった時、皆の私を見る目が変わっているに違いない。私の仕掛けにミスはない!葉山、岡崎そして山口先輩!次期部長の恐怖、とくと御賞味あれ!
「では、何故、ここを会場に選んだか、という事からお話します」
今まで、ニヤニヤしていた葉山と岡崎の顔付きが変わった。
「インターネットで会場を探していた時、偶然に、ある怪奇サイトを開けてしまったんです。そこに、この旅館の事が載ってたんです」
「ある怪奇サイト?」
山口先輩が怪訝そうに口を挟んで来た。普通は、人が話し始めると横から口を挟まない。そんな事は百も承知の山口先輩が横から口を挟んだ。つまり、私が撒いた餌に早速喰い付いた証拠だ!いける!そう確信すると、山口先輩の目をジッと見つめ、小さく黙って頷いてやった。
「ええ。そこには、こんな話が載ってました。今から百年程前にこの旅館の離れ、つまりこの部屋です。当時はここを寝室として使っていたそうですが、そこに強盗が押し入り、この部屋で寝ていた女将を惨殺し……」
私はわざと眉間にしわを寄せ、声を殺し、一人一人の顔を見つめながら語って行った。
「それ以来、この旅館は閉鎖となりました。しかし、何十年か前に、そんな事情も知らない人が、ここを買い、そしてまた旅館を始めた。それが今の女将かどうかは判りません」
皆、微動だにせず、私の話に聞き入っていた。入部以来、三年。こんなに私の話に聞き入ってくれた事はない。私は注目される快感を覚えた。気を良くした私は更に話を続けた。
「また、ある時、大学生六人が」
暗に、今の私たちと全く同じ人数ですよ、と言わんばかりに話を設定した。
「この離れに泊まったそうです。その中の一人が夜中に奇妙な呻き声を聞き目を覚ました。すると、居る筈もない、七人目の女性がすっと近づき耳元で延々とその怨みを訴えた。金縛りにあった状態で、その声を耳元でずっと聞いていた大学生は頭が変になり翌朝、病院へ。その後、行方不明になった、という事です」
私は嘘を並べた。本当の所は、インターネットで『こんな旅館泊まりたくない!』というサイトを面白半分に開けただけだ。そこにこの旅館が名指しで載っていた。理由は簡単だ。女将が無愛想で、建物が古くカビ臭い。そして、周りに田んぼと林以外何も無い、という物だ。私はこれらの事を逆手に取って上手く利用しようと思った。山口先輩のように、雰囲気を話に組み込む手法だ。しかし、もし、私の話が女将に聴かれれば、業務妨害あるいは名誉毀損で訴えられるかもしれない。声を顰めたのは、恐怖を煽る目的の他に、万が一、声が外に漏れないようにという計算のもとだった。私の思惑は見事に当たっているようだった。皆、神妙な顔付きで、揺らめく蝋燭を黙って見つめている。だが、この話には、まだ続きがある。そう簡単には終わらせない!その話をする為に、私はある言葉を待っていた。それを受けて、先ず第一の仕掛けを使うのだ。そう思っていると、
「う、嘘だ……そんな話は嘘でしょう?谷田先輩が今作った話でしょう?」
待ってましたっ!岡崎が突然、沈黙を破ったのだ。私はこの言葉を待っていたのだ!岡崎か葉山、どちらかが、この言葉を言うに違いないと確信していたからだ!私は自分のシナリオどおり、事が運ぶのが面白くて仕方なかった。しかし、ここで微笑んではいけない!私は険しい顔付きをして答えた。
「いや!本当の事だ!そのサイトには、窓を写真に撮ると、たまに、その殺された女将の顔が写る、とも書き込まれていたな」
私はそう言うと、徐にリックからチェキを取り出した。
「お前、そんな物も持って来たのか?」
山口先輩は驚いた様子で私のチェキを見つめた。
「当然ですよ!万が一、写ったら凄いじゃないですか!」
私は強気で言い返した。通常ならスマホで撮るが、あえてチェキを使った。紙に印画した方がインパクトがあると思ったからだ。
第一の仕掛けは、この窓に施してある!私は誰にシャッターを切らせるか、人選を始めた。そして、私の予想通りの質問をくれた岡崎と目が合った。
「オイ、岡崎。お前、シャッターを押してみろ」
私はチェキを手渡した。一瞬、岡崎は驚いた顔をしたが、すぐさま、
「分かりました。どうせ、何も写りませんよ!」
そう平静を装って、震える手でチェキを構えた。
「ちょうど、私の後ろの窓らしいぞ」
何気なく窓を指定した。この窓を撮ってくれないと、こっちが困るからだ!
「いきますよー」
パシャという音と共に部屋が真っ白になった。岡崎は出て来たフィルムを振らなくていいのに一生懸命振って、早く画像を出そうとしていた。焦っている証拠だと思った。皆、そのフィルムを凝視した。さあ、驚けよ!写ってるぞ!私は心の中で囁いた。
「うわっ!う、写ってるっ!人の顔だ!」
突然、岡崎が叫んだ。私は可笑しくて腸がよじれそうになった。写って当然だ!この窓には、事前に私が手垢で顔に見えるよう細工をしてあったのだ!その手垢がフラッシュの光に反射して白く顔に見えてるだけなのだ!しかし、ここからが私の演技力を問われる所だ。私は驚いた振りをして、すかさず立ち上がると、皆が写真に集中している隙に、ソッとポケットからハンカチを取り出し手垢を消し去った。そして、
「まさか……本当に写るとは……な」
迫真の演技で天井を見上げ呟くと、続けて、
「由利ちゃん。さっき、感じると言ってたのは……この霊の事じゃない?」
駄目押しするように誘導尋問を仕掛けた。由利ちゃんは、その写真に手を翳して目を閉じると、
「……たぶん……そうだと思います」
皆に聞こえるよう呟いた。周りから一斉にどよめきが起こった。自称とはいえ、一応霊能者を自負する、由利ちゃんが言ったのだ。皆も頷かざるを得ない筈だ!将に偽写真が本物の心霊写真に変わった瞬間だ。スマホではなくチェキの勝ちだ!こうなると完全に私のペースだ。私は手を緩める事無く、次の仕掛けに突っ走った。
「山口先輩。やっぱ、この部屋、ヤバイですね。どうしますか?私の話、続きがあるんですけど……」
あえて、顔を顰めて写真を見つめている山口先輩に尋ねた。もちろん、この先輩がどう答えるかも想定済みだ。私は伊達に、この嫌な先輩を三年間も見て来た訳じゃない!
「こんな写真は偶然だ!霊なんか居る訳がない!続けろ、谷田!」
これまた、シナリオ通りの回答だった。
そもそも、この先輩が嫌味なのは、プライドが高く、とにかく何でも自分が一番じゃないと気が済まないからだ。まして、自分より後輩の、しかもいつも怖くないと断言して来た私の話に恐怖を感じたなど許せないのだろう。だから、この先輩がこう答える事は容易に推測出来ていた。しかし、他の者はこの先輩ほどプライドは高くない。素直に恐怖を認めていた。もはや、この先輩以外は私の手に落ちたも同然だった。
今日以降、私の話は、この研究会の伝説に変わるのだ!私は心の中で高笑いをした。
「部長、やっぱり、谷田先輩の言う通り、止めた方が……」
葉山がソッと囁くと、
「お前ら、何をビビッてるんだよ!カメラを貸してみろ!あれは、外の木の葉とかが偶然そう見えたに決まってる!同じアングルで撮れば同じ写真が取れる筈だ!」
そう言うや否や、岡崎からチェキを奪い取ると、さっきと同じ様に構えシャッターを切った。再び、部屋が真っ白になった。山口先輩は必死になって岡崎と同じように振らなくていいのにフィルムを振っていた。何度やっても無駄ですよ。もう手垢は拭き取ったんですから!そう心の中で呟くと、皆と一緒に写真を不安そうな顔で見つめた。
「……ない!写ってない!」
山口先輩は唇を震わせながら写真を握り締めた。私は、この先輩の気が変わらないうちにと、間髪入れずに話を始めた。
「もう一つ、この部屋にまつわる話があるんです。ある時、六人の家族連れがこの部屋に泊まったらしいんです。どういう訳か大家族の六人なんですけど……」
私は勢いに任せて適当に話を作った。とにかく私たちと同じ人数を示す事でリアルさを増そうと考えたのだ。
「雨降る夜の事でした。奥さんが押入れの中から、女のすすり泣く声を聞いたらしいんです」
ここまで話すと、グットタイミングで空がゴロゴロ鳴り始めた。雷の音だった。私は天をも味方につけていた。益々調子付いた私は、顔を歪めて聞いている全員をジロジロ見ながら話を続けた。
「そうすると……」
私は声を荒げ、蝋燭の炎にグッと俯き加減で顔を近づけた。葉山は途端に顔を背けた。今だっ!私は胸のポケットに隠した、スマホを触った。すると、押入れの中から、『パシッ!パシッ!』と生木が裂けるような音、つまり、ラップ音という奴が二回聞こえた。押入れの中にはブルートゥースで繋がった小型のスピーカーを隠して置いたのだ。もちろん、音量も調整済みだ。この音は、押入れに一番近い山口先輩と私が辛うじて聞こえる位にしてある。当然、山口先輩には聞こえた筈だ。私は注意深く山口先輩を見ていた。すると、計算通り、急に押入れの方を、目をムキながら見つめ始めた。私は、わざとらしく尋ねた。
「どうしたんですか?部長?」
「……い、いや、何か今、押入れの中からラップ音がしたような気がして……」
こんなに怯えた山口先輩の顔を見たのは初めてだった。ヤッターッ!ザマアミロ!私は必死に笑いをこらえたが、それでも頬がヒクヒク動いているのが分かった。
「……谷田、お前……聞こえなかったか?」
「いえ、私は全然。ただ……」
「ただ、何だよ」
「惨殺された女将の死体が発見されたのが、その……押入れらしいんですよ」
私は手を震わせて、押入れを指差して見せた。再び、周りがどよめいた。
「う、嘘だろ……そんな話」
山口先輩の額には、蝋燭の明かりで照らされたキラキラ光る物が浮かんでいた。
「嘘とも言えないんです。というのは、私がこの離れを貸してくれと頼んだ時、きっぱり断わられたんです。それでも、何とか言って、ようやく貸して貰ったんですよ。だからあんなに無愛想なんですよ。女将は知ってるんですよ。ここは……出るって事を……」
私は腕を組み、大きく頷いて見せた。元々無愛想な女将の態度も上手く話に組み込んだ。その時、空が白く光ったかと思うと、ドーンという凄まじい音がした。部屋全体がビリビリ音を立てた。落雷だ。雨もポツポツ落ちて来たようだ。この音には私も驚いた。私が驚いた位だから、他の者は更に驚いたに違いない。見ると、皆、口をポカンと開け、固まっていた。私は、窓越しから空を見上げ、『やり過ぎですよ』そう心の中で天に呟いた。すると、またタイミング良く、押入れから、
「う、ううっ……」
うめくような声が聞こえた。もちろん、これも私のスマホから、サイトから見つけた恐ろしい女の声だった。この声は全員に聞こえるように設定してあった。
「い、今、人の声がしたぞっ!」
葉山が血相を変えて言った。皆、それに黙って頷いた。
「部長!今日は、もうこのへんで終わりましょうよ!」
中山が哀願するように山口先輩を見詰めた。
一瞬、山口先輩の顔が困惑したように見えた。私も、もう許してやっても良いかな、と考え始めていた。それには二つの理由があった。
一つは、皆が、私の想像以上に怯え始めていた事だ。それと、もう一つは、あまりにも私の計算通り事が運び過ぎて、自分自身、本当に怖くなって来た事だ。
私は、山口先輩の怯えた顔を見て、もう懲りただろう、と思い、終わらせるつもりだった。ところが、
「ま、まだ、ダメだ!今、聞こえた声は風が吹き込む音に違いない!窓の外を見ろ!木々が大きく揺れている!この建物は古いから、どこからか隙間風が入って来て声のように聞こえただけだ!谷田!続きがあるなら、話してみろ!」
強がって、私に言い放った。あれほどの恐怖を感じながらも、まだ、無謀にも私に挑戦して来たのだ!ならば、トコトン怖がらせてやる!他の者には申し訳ない、と思いながらも、私は意地になってしまった。私は、山口先輩だけを見詰めて話を再開した。
「一つ言い忘れてましたけど、この話が終わると、何処からともなく、あの殺された女将が七人目の訪問者として現れ、怨み言を延々と続けるそうです。そして、その話を聞いた者は頭が……変になるそうです……」
私は静かに最終警告のつもりで話した。
「谷田先輩!もう、止めて下さいッ!」
岡崎が声を上げた。しかし、私が聞きたいのは、山口先輩の言葉だ!
「い、いいから、続けろ!」
私の祈りは届かなかったようだ。残念だが、最後の仕掛けを使う時が来た!私は、静かに、大きく頷くと意を決して話を続けた。
「その奥さんが恐る恐る押入れを開けた。しかし、そこには何もない!何だ、気の迷いか、と安心して振り返り、窓を見ると、そこには……」
私は、この部分を強調する為、声を張り上げた。山口先輩の顔が歪み、後ろにのけぞった。一回生の中山と由利ちゃんは、私の話を聞くまいと耳を塞いでいた。私は、まるで、何かに取り憑かれたように話を続けた。
「そこには……雨に濡れた女が、あの殺された女将が恨めしそうに部屋の中をジッと見ている、そうさっき写った窓に顔があった。絶叫した奥さんは、いつ、電気が消えたのか分からない廊下へ飛び出た。すると、ヒタヒタと、誰かが……」
私は、そろそろ最後の仕掛けを使おうかと考えていた。
その最後の仕掛けとは、部屋にあったシーツを細長く丸めて、その上部を離れのすぐ傍にある木の枝に紐でくくりつけ、逆にシーツの下部を糸に屋根の庇にくくり付け固定した物だった。そして、糸を切って振り子のように動かして地面に落とすという、極めて幼稚な物であった。しかし、この極限状態の中で、もはや、これが作り物だと見破れる者はいない筈だ!私には自信があった。あとは僅かに開けた窓の隙間から通した、この糸を切るタイミングだ。よく見てろよ、山口先輩!いや、山口部長!これで最後だっ!
私が糸を引きちぎろうとしたその時、山口先輩の視線が、私から私の後ろ、つまり、窓の方に急に目が釘付けになった事が分かった。しかも、その顔はひどく怯えているように見えた。『ん?どうしたんだろう?仕掛けは、まだ、なんですけど……』私は心の中で呟いたが、聞こえる筈もなかった。次の瞬間、山口先輩が恐ろしい事を口走った!
「ま、窓の外に……だ、誰か、女が、い、いる……」
震える手で、窓を指差した。私たちの向かい側に座っている、葉山と岡崎にも、それが見えているのか、山口先輩と同じリアクションを取った。『バ、バカな!私はまだ、仕掛けを動かしていない!こんな、雨の降る晩に誰が居るというのか!』そう思いながらも背中に冷たい物が走った。
山口先輩の言葉を受けて、直ぐに由利ちゃんと中山も窓を振り向いた。二人とも目を大きく開け、何も言わずに体を震わせ、ただ、窓を見つめていた。私は、その様子にただならぬ恐怖を感じた。今までの恐怖は全て私が作り上げた物だ。しかし、今、皆が感じている恐怖は私が作り上げた物ではない!と、すると、今、皆が見つめている、恐怖の原因となっている物とは……一体、何だ?私は恐怖で体が硬直し、おまけに全身からドッと汗が噴出したのを感じた。すると、『トントン……トントン……』窓ガラスをノックする音が聞こえた。
「うわーっ!」
「きゃーっ!」
一斉に叫ぶや、自称、霊能者の由利ちゃんが一番に立ち上がり、いきなり走り出して部屋を出て行った。こうなると、もう誰にも止められない!全員の自己防衛反応が一斉に作動し、一つしかない出口に殺到した。
「俺が先だ!俺が先だ!」
という声を微かに聞きながら、あっという間に皆、私を残して部屋から退避してしまった。いつの間にか電気の消えた廊下をドタドタとけたたましい音がしたかと思うと、やがて、恐ろしいほどの静けさが代わりに訪れた。しかも、皆が一斉に動き回ったせいで、唯一の明かりであった、蝋燭の火までもが消えてしまったのだ。もちろん、私にも自己防衛反応というプログラムは備わっている。ところが、そのプログラム通りに作動するハードが壊れてしまっていた。つまり、腰が抜けて立ち上がれないのだ!それでも何とか、私もこの部屋から退避しようと必死で畳の上を這いずり、出口に向かった。すると、真っ暗な廊下から、ヒタヒタと濡れた素足で歩く、足音が聞こえて来た。私は恐怖で、今度は逆に急いで出口から這いずりながら離れた。私の体は、いつ、口から心臓が飛び出てもおかしくない状態になっていた。真っ暗な廊下を見つめ、肩で息をしながら、ふと、自分の怪談話を思い出した。怪談と全く同じ現象が起きている!何故だ!あれは全て、私が作った話なのに……。
私は今更ながら、幾ら怖がらせる為とはいえ、遊び半分で怪談をした事を後悔した。私は、思い付く限りの許しの言葉を片っ端から呟いた。しかし、足音は止まらなかった。着実にこの部屋に向かっている!もう、霊の怒りを静める事は出来ない!そう感じた時、出口に黒い人影のような物がヌッと現れた。私は咄嗟に、
「すみませんでしたっ!もう、二度としませんっ!」
そう叫ぶと、額を畳に擦り付けた。私は全身全霊、謝罪した!
「ちょっと、お客さん!今更、謝られても困りますっ!」
聞き覚えのある声だった。
「えっ?」
私は恐る恐る顔を上げると、その時、ちょうど廊下の電気が仄かに点いた。
「あっ、復旧したわ」
そう言うとズカズカと入って来て、部屋の電気を点けた。部屋がパッと明るくなった。うす暗いはずの電気だが、今は眩し過ぎる程に感じた。そして、そこには、まぎれも無く、本物の女将が立っていた。私は、ホッとして全身の力が抜けるようだった。あまりの嬉しさに、女将の顔を見上げると、どういう訳か、その顔は般若の面のように目が吊り上がっていた。そして、徐に、
「さっきの落雷で停電した事を伝えようと、こちらに来たら、窓の外に白い物が見えるじゃない!見に行ってビックリしたわ!これ、うちのシーツでしょッ!」
女将は、ムッとした様子で細長く丸めたシーツを私の前に突き出した。
「あっ!そ、それは……」
私は一瞬、驚きのあまり口篭ってしまった。ようやく現実が理解できて来た。女将は間違いなく怒っているのだ、と。
「どうしてくれるのよ、こんなにボトボトに濡らして!弁償して貰いますよ!それに、部屋を覗いて更にビックリしたわ!」
女将はそう言うと、足元の蝋燭に目をやった。
「部屋の中で蝋燭なんて使って!火事でもいったらどうするのよっ!ちょうど、時間だし、お金払って帰って頂戴っ!シーツ代は五千円よっ!」
刺々しい言葉が、私の胸に何本も突き刺さった。
「……は、はい……」
私が蚊の鳴くような声で返事をすると、女将は請求書をぶっきらぼうに突き出して来た。
私は、それを申し訳なく受取ると、思わず溜息が漏れた。
「はあ……七万五千円とシーツ代の五千円。合わせて八万円……か」
呟くと財布に手をかけた。『ん?』私はハッとした。『違う!会計は岡崎だ!あいつが部費を持っているんだっ!』途端に血の気がサッと引いた。私は、非常にマズイ事になったと、女将の顔をソッと見上げると、女将は仁王立ちし上から私を睨んでいた。
「あ、あのう、女将さん。ここに居た連中は……どうしました?」
「えっ、ああ、あの子らね!ほんと、失礼な子らよ!廊下で私にぶつかっておいて、逆に叫び声を上げて出て行ったんだから!近頃の若い子はしょうがないわね!それより、早く、お金払って下さいっ!」
女将の言葉に絶望した。今の私が八万円もの大金を持っている訳がない!どうしたものかと困っていると、
「どうしたんですか!早く、お金を払って……あっ!もしかして、あなた!」
女将も私の不審な態度に何か気付いたらしく、私の顔に近づきジロジロ見詰め始めた。
「もしかして、お金、持ってない、なんて言うんじゃないでしょうねっ!」
吊り上がった目が一層吊り上がり、頬もヒクヒクしていた。私は、その迫力に圧倒され、後退りした。股間が少しだけ、温かくなった。
「い、いや、そ、そういう訳では……」
段々と語尾が小さくなってしまった。
「だったら、早く!」
目を突かれるのではないか、と思うほどの勢いで、女将は掌を私の目の前に突き出した。
「い、いや、その、あの……」
女将の顔は、もはや、この世の物とは思えぬほど形相が変わっていた。私は再び腰を抜かしていた。
「……なるほどねえ。そういう事なのね」
女将が仁王立ちのまま、不気味に何度も頷き始めた。
「最初から、お金払う気なんか無かったのね!もういいわっ!警察行きましょ。警察へ!」
女将は物凄い力で、腰が抜けて立ち上がれない私の腕を引っ張り出した。私は警察と聞き、焦りだした。
「そうじゃないんです。そうじゃ……」
「まあ!この子は、まだ座り込んで反抗する気なのねっ!大体、あなたたちは……」
私は、女将の長々と続く叱責を受けながら、また、思い出したくも無い怪談の結末を思い出してしまった。『七人目の訪問者、つまり女将が長々と怨み言を……』私も、あまりの女将の恐ろしさに、頭が……ああっ!やめてくれっ!変になりそうだ!
完