勇者
「勇者」の名はカイト・エドガウだと思い出した。
ナタリが彼と会ったのは半年ほど前、自身の暮らすブレアの町でのことだった。
「勇者」の呼び名を得るカイトは、王命を受け各地の魔族を征伐するためにアルテラ中を転戦していた。次の戦場となるラサへ向かうための船を探すため、港町であるブレアに来たという。
そこで修復術師の存在を聞いた彼が、図書館に入り浸っているナタリに声をかけてきた。
それが大陸中に名の轟く英雄だと知って、あらゆる驚きのためにナタリは棚を登ろうと足をかけた梯子から落ちそうになった。
「ぶ、武器の修理を?」
「いや。俺の剣はベズルーの加護を受けてる。修理の必要はない」
「風の神ベズルーの加護を受けた剣」と聞いて、ナタリは真っ先に「ワの国」の国宝メルギドを思い出した。もちろん本で得た知識だった。そう思うと、目の前の「勇者」が腰に帯びている剣こそ、魔族に滅ぼされた亡国が神話の時代から伝える宝なのではと、興奮を抑えきれなかった。
「直してほしいのはこれなんだ」
羽織った外套の下から、カイトは欠けたペンダントを取り出した。
「……親父の形見でな。前の戦いで矢を受けた時、こいつが代わりに受け止めてくれた。できそうか?」
お安い御用、とナタリは彼からそれを受け取って、その場で自身の信仰を頼った。小さなペンダントくらいならそれほど魔力は要さない。呪文を唱えず、ただ見つめて願うだけなので、カイトの目にはナタリの掌そのものが魔術を発揮したように映った。
「どうぞ」
ナタリが返したペンダントは、カイトの記憶にある通りの、かつての姿を取り戻していた。
「すごいな……カンディドの術を使う人間に会ったこと自体が少ないが、それも魔導書なしで信仰だけなんて」
魔術はその神への信仰と、代償として捧げる魔力がなければ発動できない。しかし神へその魔術の使用を請う文句が唱えられれば、信仰心がなくとも必要な魔力だけで済む。そのための呪文を綴ったのが「魔導書」という扱いだった。
しかし呪文を一字一句間違いなく、時間をかけて詠唱しなければならない点において、信仰心があれば願うだけで同じ魔術を発動できる「信徒」の方が、速攻力において圧倒的な優位に立つ。
しかし神話上の存在を「実在する」ものとして、その価値観の根底に置くことは、彼らの世界においても容易ではなかった。だからこそ開発されたのが魔導書であり、神話が数千年も前となった彼らの時代において、信仰心を持つ魔術師は稀有な例だった。
そして魔術を使うために必要な魔力の量には個人差があり、それも生まれつきのもので度合いが増減することはほぼないとされている。他者からの供給を受ければ別だが、大掛かりな魔術を使うのに逐一そうするのは現実的でない。仮に敬虔な「信徒」であっても、優れた魔術師となる限りではなかった。
「亡くなった父が同じ仕事をしていて……僕もそれが当たり前で育ったし、こうして願えば使えるわけだから、実際カンディドには僕の声が聞こえているんだと思うんです」
「味方にいてくれたら、すごく助かるな。武器や鎧の心配をしなくていいわけだから」
「はは……でも僕はそんなに大掛かりな魔術は使えなくて。それに戦いどころか、魔族を見たことすらないから、無理ですよ」
そうか、と仕方なさそうに肩をすくめるカイト。それからペンダントの修理代を懐から取り出した。ナタリは恐れ多さを思い出して、それを制そうとした。
「い、いいですよ。こうして勇者様のお手伝いができただけでも……」
「そういうわけにはいかない。『勇者』と呼ばれて飯がタダになるわけじゃないんだ。特別扱いしなくていい」
「でも……」
「それに『勇者様』だなんて。名前で呼んでくれ。お互い歳も変わらないだろ、そんなに」
奢らず気さくな彼の姿から、ナタリは彼が「勇者」と崇められる所以を見た気がした。浮かべていた涼し気な微笑は、戦場で敵と対する時に激変するとは思えないほど不変のものにさえ思えた。
間もなく、カイトの仲間が迎えに来た。その輪の中に混ざって彼は去っていく。ナタリがやり取りしたのはほんの十数分のことに過ぎない。
将来、彼の伝記や冒険譚が書かれるのなら、自分とのやり取りなど一行の文章にさえならないだろう、些細な出来事に違いないとナタリは思った。それでも、歴史が作られる瞬間を垣間見た気がして、一行を見送るその顔は感激に緩んでいた。




