斧
「何か」もまた彼らと同等の速度を発揮して走っていた。人間である彼らと違うのは、その足取りに一切のぶれがなく、疲弊とも無縁であることだった。
どれだけ走ったのか、ナタリはすでに息が上がっていた。もともと体力に自信のある方ではない。振り返る余裕もなかったために、「何か」に追いすがられていることよりも、前を走る二人との距離が開くことに焦りを募らせていた。それも乱立する木々に阻まれて彼女たちの姿は彼の視界から途絶えつつある。
自身の腰ほどの高さのある木の根を乗り越えたところで、意を決してナタリはその根を生やしている大木の影に飛び込んだ。三人が手をつないでも囲いきれない太さの幹に背をつけ、動悸を鎮め気配を殺すことに努める。
かと思えば、右手からハーリンが彼にぶつかるようにして飛び込んできた。思わず上げそうになった声をナタリは必死に押しとどめるが、ハーリンは元より声を押し殺す気もないとばかりに急き立てた。
「ば、バカ! 別のところに行って!」
「そんなっ! 僕が先なのに……!」
「あ、あんたが武器を壊してくれたせいで戦えないんじゃない! さっきの魔術であの武器壊せたりしないの!?」
「魔力のほとんど使っ……」
ナタリの台詞は、神経を逆なでするような切断音によってかき消された。その音は二人のすぐ後ろから、けたたましく鳴り響いている。木の幹の内側から、徐々に迫ってくる。
二人一緒に幹から背を離し振り向くと、つい今まで自分たちのよりかかっていた箇所がひび割れ、丸鋸の音にも負けない轟音を立ててひしゃげ出した。切断された木が二人めがけ倒れ込んでくる。とっさにナタリは左へ、ハーリンは右へと逃れた。木が地を叩いた振動に、足の疲労が限界に達していたナタリはよろめき、今日何度目かの尻餅をついてしまう。
倒れた木を乗り越え、丸鋸を掲げた「何か」が迫ってきた。立ち上がろうとする間にもその凶器は自分の体に到達してしまうと悟った時、ナタリの足は全てを諦めて動かなくなった。
逃げられない。
死ぬ。
あっという間に、あっけなく。
脳裏には、胴の分かれた死体やこぼれたはらわたの光景が一面を占めていた。自分もそのひとつとして加わろうとしている。
死にたくない。
信ずる神に訴える間もなく、ただ生存本能に従ってそう願った。その願いの閃きの瞬間、左から斧が宙を裂いて飛んできた。目前に迫っていた丸鋸、それを据え付けた「何か」の腕に衝突音と火花が走った。
思わず目をつむり腕で顔を覆ったナタリだったが、一向に切り刻まれる気配はない。再び瞼を開けると、右腕を叩き折られた「何か」が、斧をぶつけられた衝撃でよろめいていた。
続けてフィオーレが飛び込んできた。「何か」から切り離され地に落ちた腕を拾う。その先には丸鋸が未だ高速回転を続けている。「何か」が態勢を立て直すよりも早く、彼女は刃をその胴体へと叩きつけた。
衝突音はせず、フィオーレは叩きつけたそのままの勢いで丸鋸を振り抜いた。空ぶったのではなく、丸鋸が容易く「何か」の胴体を切り裂いたためだった。二つに分かれた「何か」は倒れ伏し、そのまま動くことはなくなった。
後にはナタリとフィオーレの荒い息、彼女の手にした丸鋸が徐々に回転数を落としていく音ばかりが響いている。
「あ、ありが、とう……」
息切れと未だ立ち去ろうとしない恐怖から震える声で、それでもナタリは安堵を取り戻しつつ言った。だがフィオーレは強張った表情のまま、手にした丸鋸の腕を離そうとしない。
「斧は私じゃない」
「え……」
「ほかにも誰かいるな」
「そういうことだ」
声がしたのは、斧の飛んできた方からだった。男が一人、悠然と歩いてくる。二人の前を素通りし、「何か」の腕を叩き折った斧を拾い上げる。三人をまとめて放り投げられそうなほどの、屈強な腕をしていた。
男の歳は五十にかかるだろうか、自分の父親が生きていればこのくらいの年なのだろうとナタリは思った。精悍な顔立ちに紛れている歪な皮膚の色は古傷らしい。一目で武人であることがわかったが、その身なりは国に仕える軍人というよりも傭兵や、もっというと賊のような泥臭さだった。
「今のところ女子供の死体は見ずに済んできた。これからもそうでありたいものだね」
安心をもたらそうという笑みでもって男は振り向いた。その奥で倒れた木の上に、恐る恐るハーリンが顔を出して様子を窺っている。




