森
気が付くと、彼は森の中にいた。
どこの森なのかは定かでない。自分がいつからここにいるのか、なぜここにいたのか、覚えてもいなければ、皆目見当もつかなかった。
考えようと頭を働かせても、手がかりや閃きを得ることはできなかった。埒が明かないので彼はどこへともなく歩いた。天を突くように高く伸びた木々が重なり合って空を隠していたので、森の中は薄暗いし、昼か夜かも判然としない。方角などわかりもしないし、同じような風景の連続に彼は自分の足への自信を失いつつある。
深緑のこすれ合う音のほかに、ささやかな水音が聞こえた時、彼ははっとした。止まっていた時が動き出したかのような感覚さえ覚えた。不変の景色に出現した小川の流れに彼は飛びつき、岸から顔を突っ込んだ。
顔に張り付いていた汗と体温を水流がこそぎ落とし、皮膚に冷たい快感を残していく。勢いよく水音を立てて顔を上げると、喉が猛烈に渇いていることに気付いた。今度は口だけを沈めて、水流を喉の奥へ導いていく。食道を快楽が駆け下りる。
「ぷはっ」
息の続く限りまで沈めていた口を水面から離した。ふと見ると、そこに自分の顔が映っている。十代を折り返したかどうかという少年のものだったが、あどけなさのみならず華奢さをたたえたそれは、見る人が見れば少女とも取れたかもしれない。
そしてもう一人、こちらは確かに少女と呼べる誰かの顔が映っていた。彼の肩の後ろから、水面に揺れている彼の顔を覗き込んでいる。かと思えば、少女は口を開く。
「飲むなら、もう少し上流のがいいと思うぞ」
「うわっ!?」
耳元で囁く、やや鼻のかかった低い声に心臓を鷲掴みにされたかのような驚きをもって彼は振り返った。
自分と同じ年頃の少女がそこにいた。美しくもあり不気味とも取れた白い肌。背中までかかる髪は毛並みこそ整っていたが、この森の薄暗さを吸い込んだかのような灰色をしている。黒を基調とした服装は地味にして質素で、あまり裕福とは言えない暮らしをしているように思えた。
「そんなに驚くなよ」
「い、いや、だって……」
「ここでほかの誰かに会ったのは初めてか?」
彼は素直に頷く。目の前の彼女に得体の知れない恐れを少しと、この不可解な状況への道標を示してくれるのではないかという大きな期待を抱いている。
「私も、生きてるやつに会ったのはお前が初めてだ」
その期待を見透かしたように肩をすくめた少女は、言いながら川の上流を指さした。鎧をまとった男がうつ伏せで上半身を川に沈めている。身動き一つしない。体液が染み出して水に混ざり、彼が先まで飲んでいたところまで流れてくる。
「う、うぇっ……」
「手足がついてるぶん、まだきれいな死に方だぞ」
何でもないように少女は言った。ほかに手足のない、四肢断裂した死体がそこかしこに転がっているかと思うと彼は戦慄した。救いを求めるように彼女に問いかけた。
「こ、ここは一体……図書館にいたはずなのに、気が付いたら……」
「図書館……その出で立ちからするに、魔術師らしいな」
少女ほどではないにせよ、彼の身なりもまた地味なローブだった。それは彼らの世界における一般的な「魔術師」のそれである。
「まあ一応……図書館って言っても、町のだけどね。王立図書館に出入りできるようなお金も身分もないし」
「信仰は?」
「カンディド。町では武器とか家具の修復をやってた」
彼らの世界での「魔術」は、それぞれの「神」への信仰によって発揮される。ここでいう信仰とは「信奉」というよりも、神話上の存在であるそれを「受容」することを指していた。自身の信ずる神が現実に存在するものとして、価値観の根底に据えることを意味する。
彼が信じるカンディドとは、彼らの世界における「時の神」である。その存在を受容する者は、時間を操る魔術を扱うことができる。
ふとして、彼は奇妙な心持ちを抱かされた。互いの名前も知らないのに、信仰の告白が先立つことが何だかおかしかった。少女に驚いて地についたままだった腰を上げ、彼はぎこちなく切り出した。
「……ぼ、僕はナタリ。君は?」
「んー……フィオーレ」
直前の間があからさまなことにナタリは引っかかったが、考えすぎだと思って続けた。
「……君も、気が付いたらここに?」
「そんなところかな」
「ここに来る前は、何を?」
「何も」
「何もって……」
「どこかどこだったか、名前もないか忘れられた村で、ただ生きてただけ。ほかに取り立て言うこともないよ」
投げやりとも言える返答に彼はさらなる疑念を募らせたが、フィオーレ自身は至極どうでもいいといった素振りで、ナタリの困惑を受け付けようとしていなかった。この不可解な現状に比べれば、自分の正体の穿鑿など危急を要することでもないだろうと、開き直ってはねのけるようだった。
その不可解さが極まって、彼女自身がこの状況の中心にいるのではないかという想像さえ浮かんでしまったが、きりのない思考だとナタリは声に出したい言葉の数々を飲み込んだ。
「納得してくれる?」
「……うん」
それに少なくとも、彼女は自分を襲おうとはしない。
それなら何者であれ、今は協力し合うべきだという発想を、彼は受け容れた。




