絆 「それを望む者たち」
きずな 「人と魔物のあいだの細くて強い糸」
ミゼンの住まう、石造りのこじんまりした庵のある敷地を区切る、鳥居のような背の高い門の内側の『ミゼンの庭』。王の住まう城の中に存在するにはあまりにも不釣り合いな、雑草だらけの何の変哲もないただの庭。
しかしその雑木林のような荒れ放題の庭の本当の姿は、時間と空間の『狭間』に通じる小さいけれど広大な、強固な安全対策の施された恐ろしい罠の庭だ。
シズルはそこで『狭間』へ入る準備をしていた。
シルベスタとテッセラは、シズルにいわれて城中の銀糸をかき集めていた。
真新しいもの使いかけのもの、長いもの短いもの、糸巻きに巻かれているものそうでないもの。あらゆる長さの銀糸が一箇所に集められて、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
シズル曰く、これを命綱代わりに使うらしい。
「こんなものでか?」
銀糸のそのあまりの細さにシルベスタが不安を口にした。
「丈夫で長持ち、ちょっとやそっとじゃ千切れない、魔導士御用達のありがたーい魔法印の銀糸ですよ。心配ないです。ね、テッセラ君」
「う。確かにそうだけど、その言い方なんかやだ」
怪しい製品を売りつける時の、怪しい宣伝文句のようなシズルの言い方に、テッセラが口を尖らせ抗議した。
「この端を持って私が『狭間』に入ります。ザカリはこっちの糸巻きを持っててね。糸がなくなりそうだったら繋げて追加してください。何しろ中の空間の広さがわからないので」
「何故ザカリに持たせるんだ?」
「この庭では魔術は使えなくても魔力はあるんでしたよね? これならザカリが混ざってる私は直接銀糸で彼と魔力が繋がることになるので、『狭間』越しでもザカリには感じ取れるでしょう。もし何かあった時は銀糸で繋がるザカリの魔力が頼りになります」
シルベスタはシズルの不穏な言葉にぎくりとした。
「シズル? 何かあった時ってなんだ」
「心配性ですねシルは。もしもの話ですよ。何があるかわからない未知の場所なんですから、心構えの問題です。ほら、『備えあれば憂いなし』とかいうじゃないですか」
不安が隠せないシルベスタとは対照的に、シズルはただの例え話だと平気な顔で言った。
「それにザカリの魔力を感じられる銀糸は、『狭間』で迷子にならないためにも必要です。まさしくアリアドネーの糸ですね、残念ながら王女アリアドネーはザカリですけど」
シズルは元の世界の神話の中で、王女が渡した糸玉を使って魔物のいる迷宮から脱出したという勇者の話をした。
「へー。面白い話だね。でもシズルは勇者テーセウスっていうより迷宮の主の怪物のほ、いひゃいひょしるる、やめへひょ」
「本当に君は学習しないね、テッセラ君?」
シズルはまたしても笑顔でテッセラの頬を抓った。シズルに手を離されたあと、頬を撫でているテッセラをザカリが哀れみを湛えた緋色の瞳で見ている。
テッセラから向き直って、シズルが自分の命を預けるザカリに頼んだ。
「だからしっかり持っててねザカリ」
「がう!」
ザカリはシズルに頼まれて糸巻きを前足でしっかりと抱え込んだ。
三人はしゃがみ込んで、それぞれがいろいろなことを話しながら、短い銀糸を繋ぎ合わせ引っ張り、結び目が解けないか確認していた。
「おい」
三人と一頭の側にデュオがやってきた。
これから時間と空間の『狭間』という、誰も見たことも行ったこともない未知の世界に飛び込み、しかも戻ってこれるかどうかわからないというのに、危機感のまるで感じられない呑気な会話をしている三人に、デュオは苛立ちと焦燥感を感じていた。
こいつらは世にも稀な複雑怪奇な生態の、目の前のこの『混ざりもの』の価値がわかっていない。
「本当にやるのか」
「あなたも相当しつこいですね」
「お前のことを心配してるから言ってんじゃねぇか」
「本当にシズルのことを心配しているのか?」
シルベスタが銀糸の確認をしながら硬い声でデュオに言った。
普段は人と話をする時にはきちんと相手の顔を見る、礼儀正しいシルベスタが今はデュオを見向きもしない。
「・・・どういう意味ですかね?」
本当に、とはどういうことだ。
今、この場でデュオほどシズルのことを心配しているものがどこにいるというのだ。
「そのままの意味だ。お前が気にしているのは『シズル』じゃない」
デュオは首を傾げたくなった。
何を訳のわからないことをいっているんだこいつは。『狭間』に入るシズル以外の、何を気にするというんだ。
長く一緒に生活していても、所詮ジークハルトとシルベスタは貴族だ。いくら力があろうとも貴族が本気で平民の心配などするはずもない。こいつの価値がわからない貴族は、平民ひとり消えてしまおうがなんとも思わないのだ。だからこんなにも平然としていられるんだ。
「あんたこそへらへらと、こいつのことが心配じゃないのか?」
デュオの言葉にシルベスタの作業の手がぴたりと止まった。
その時いきなり、ぱん! と手を打ち鳴らす乾いた音が響いた。
「はいそこ! 喧嘩しない。今から大変な旅路に出ようとする人間を放ったらかして何してんですか。喧嘩なら私が瑠花ちゃんを無事釣り上げてからにしてください」
嫌な空気が漂い始めたシルベスタとデュオの間に割って入ったシズルは、『人間を釣り上げる』などどなんとも不謹慎なことを言い出した。シルベスタはシズルのその言葉に毒気を抜かれて呆れた声を出した。
「釣るって、シズルお前・・・」
「シル」
シズルがその緋色の瞳で正面からシルベスタを見つめて、安心させるように言い聞かせるようにゆっくり語りかけた。
「大丈夫、ちゃんとわかってますから。それにいつも心配ばかりかけてごめんなさい。でも私は魔物になってもちゃんと『こちら側』に帰ってきたでしょう? 今回だって同じことですよ」
いつも悪戯をして叱ったり、心配することが殆どのシズルに逆に窘められたシルベスタが苦笑した。
そんなシルベスタを見て、笑って肩を竦めたシズルはミゼンに向き直った。
「さて行きますか。ではミゼンさん、私を貴方の来訪者名簿から除外してください。そうすれば私は『招かれざる客』として、この庵の凶悪セキュリティーによって『狭間』に追い払われるはずです」
「了解した」
「シズル」
『狭間』へ向かう準備をしているシルベスタたちを、黙って見守っていたジークハルトが強い声色でシズルに命じた。
「ルカ殿を連れて必ず帰ってこい」
「もちろんです! ちゃんとでかいの釣り上げて帰ってきますよ!」
そういうと子供のように笑って、びしっと親指を立てた拳をジークハルトに勢いよく突き出した。
そうしてゆらりと陽炎のようにどこかに消えてしまった。
「魚を釣りに行くんじゃあるまいに、でかいのとは何だ。全くあいつは、緊張感のかけらもないな」
「でもシズルらしいですよ」
ジークハルトとシルベスタの主従がふたり揃って苦笑した。
何もない空間にただただ銀糸が吸い込まれていく。
ジークハルトとシルベスタには、この細いたった一本の銀の糸が、シズルと自分たちを繋ぐ絆のように思えた。
そしてその糸が、細くても生半なことでは切れない強靭なものであって欲しいと心の底から願っていた。
何もない。
朝でも夜でもない、薄明るい空間が拡がっている。足元もなんだか覚束なく、立っているのか浮かんでいるのか定かではない。
そりゃそうか、とシズルは思った。
ここは時間の流れもなにもない、無い無い尽くしの『狭間』で、シズルの概念の外の、異世界でもない全く知らない世界なのだ。
さし当たって危険なものは見当たらないが、この『狭間』そのものが危険だ。
真っ暗闇でなかったのは幸いだったが、外部刺激が全くないところでは、人間は長く正気を保つことが難しい。時間の流れのないこの空間ではどうなのか全くわからないが、外の通常空間では少なくともルカがいなくなって丸一日が経っている。
早く見つけ出さないと肉体は無事でも精神が壊れてしまう。
ジークハルトに向かって景気良く親指を立てて『狭間』に飛び込んだものの、早速シズルは躓いていた。周囲を見回して、ルカにどうやってこちらの存在を知らせようかと思案していた。
「おーい、瑠花ちゃーんやーい。おおーい」
取り敢えず呼んでみる。
声はどこかに吸い込まれるように遠くまで一直線に飛んで行った、ような気がした。物理法則無視なのはお約束としても、音が跳ね返るようなものが存在しないせいで、反響もしないしこだまのように返ってくることもない。
自分の声も聞こえるし、声も出せてその音も遠くまで届いているようだが、問題はこの『狭間』の広さだ。何かこちらの居場所を知らせられる、狼煙のようなものをあげられないものだろうか。
しかしもし狼煙をあげられたとしても、恐らく恐怖と混乱と疑心暗鬼の中にあるだろうルカは、相手が確実に自分の味方とわからないと姿を現さない可能性も捨てきれない。
というか、そういう警戒心を抱いていて欲しい、とシズルは願った。
何もない空間とはいえ、例えばルカやシズルのように、何かが入り込んでいる可能性がないわけではないのだ。
何かルカが確実に『自分と同じ』だとわかるもの。遠くからでもわかって、姿が確認できなくても間違えようもないもの。
「うーんこれしかなさそうだけど、やだなあやりたくないなあ」
ぶつくさ言いながらもシズルは、デカイ獲物を釣るためだと覚悟を決めた。




