刻印 「最高位魔導士ミゼン」
こく−いん 「刻印 と 理」
ジークハルトがミゼンに連れられ移動したのは、扉を一枚隔てただけの王の寝所のすぐ隣の小部屋だった。
ここは従者が不寝番をするための部屋で、普段は机と椅子が一対あるだけだったが、バシレウスが病に倒れてからはミゼンがここを使っているらしかった。簡素な寝台と書き物机を持ち込んでいる上に、魔導書が床に所狭しと積み上げられていて雑然としていた。
ミゼンは銀の髪、海の青と森の緑の、左右の色の異なる瞳を持つ痩躯の男で、青年にも老成円熟した者にも見える姿をしていた。
魔導士の最高位に与えられる『0』の出自は謎に包まれている。
番号を与えられる高位の魔術師たちは揃って以前の名を捨てるが、代々王の側付きとなるミゼンは別格だった。
ミゼンは世代交代時に自ら告知をするが、次のミゼンを誰がどうやって選ぶのかは分からなかった。告知のなされた数日後、魔導士の中から突然次代のミゼンが現れるのだ。
ミゼンとなると名前だけでなく、その姿も捨て去ることになる。つまり0の姿に成るのだ。
次代のミゼンが現れ、継承の儀が終わると先代のミゼンはそのまま命数を終えると伝えられていた。ミゼンと成ったものは、その姿かたちと同時に膨大な知識も受け継ぐことになるが、ミゼンそのものになるわけではなく人格までが引き継がれるわけでなかったので、その時々によって受ける印象は様々だった。
今代のミゼンはその瞳以外はあまり印象の残らない、影のような控えめで静かな男だった。
「狭くて申し訳ない、フロトポロス伯。陛下は今は調子が良さそうだが、あまり側から離れられないのだ。ここで我慢して頂きたい」
「それは構わないが、陛下はそれほどにお悪いのか?」
「これも何かの必然と思いお話しするが、他言は無用に願いたい」
ミゼンはジークハルトに椅子を勧め、自らはベッドに座った。
平素は泰然としているミゼンの顔には、よく見ると疲労の色が見てとれた。
「表向きには物病みが長引いているとされているが、陛下は今、体内の魔素が枯渇状態にあるのだ。私が魔素の補充を補佐しているが、未だ最盛期の三分の一にも満たない。今のままでは政務に復帰どころか魔法治療もままならず、僅かなことも致命的なことになりかねないのだ」
初めて聞く事実にジークハルトは絶句した。
魔素がなくなれば魔力も使えなくなる。それはつまり一国の王が只人に堕ちるということだった。
バシレウスは確かに賢王だが、ただ賢いだけで国を治めているわけではない。彼はその人柄で大多数の国民の支持を得ており、また彼が持つ強大な魔力が、国の内外の不穏分子を牽制する役目も果たしているのだ。
宰相ら国の重鎮たちが実務を担い、ルーデリックが名代を務めているとはいえ、エデル国にはまだバシレウスは必要だ。
「最初は本当にただの物病みだったのだが、ルーデリック殿下が召喚術を発動したのを前後して、今のような状態になられた。私はこの世に偶然はないと考えている」
ミゼンは黙って話を聞くジークハルトに、姉と同じことを言った。
「卵が先か鶏が先かの問答ではないが、陛下の危機のために召喚が為されたのか、召喚が為されたために陛下に危機が訪れたのかそれを調べる必要がある。そう理解していて何事が起きているのか調べようにも、私はここから動けない、が、しかしこうしてフロトポロス伯、貴殿がここに訪れた」
これも物事には偶然はないということの証だろう、とミゼンは目を閉じた。
「さて、フロトポロス伯、こちらの話ばかりでなく、私に何か相談がおありになるご様子。お伺いしよう」
ミゼンが目を開け、真っ直ぐジークハルトに視線を合わせた。
ジークハルトはシズルと出会ってからの事を、できるだけ主観を交える事なく、事実だけを端的にミゼンに話した。
召喚後、城から自領へ飛ばされてきたこと。魔力を持たない只人とされること。本人が申告するこの世界での身体能力の向上。呪文を使わない力の発現。魔物自らが主従契約を持ちかけてきたこと。そしてその魔物による刻印のこと。
ミゼンはジークハルトの話を噛みしめるように、暫く熟考していた。
「・・・今我々の使う魔術は本来の形ではない。呪文や魔法陣を使う今のやり方は、魔力を持つ万人が魔術を使えるように、魔素の性質や扱い方を、分かりやすく言語化したものなのだ。太古、真に力あるものは、己の思うがままにその力を自在に操ることができた。但し、その力の方向性は多分に扱うものの感情に左右され、暴走しやすいものでもあった。故に『原初の0』が、呪文や魔法陣を使わねば魔術が発動しないように理を創ったのだ」
「理を創った?」
「さよう、『原初の0』は自らの血肉を捨て去りこの世界の一部、理そのものになったといわれている」
人間が世界の一部になるなど、一部の宗教家が語る『人は死後、魔素に還る』という講話のようで、ジークハルトには俄かには信じられない話だった。
「太古の、『原初の0』と呼ばれるものの本当の名前は分からない。今我々が代々名乗っている『ミゼン』の名と姿は、『原初の0』のその自己犠牲の行為に敬畏を込め、その姿形を模したものなのだ。故に『原初の0』の理の後から積み重ねられた知識や、ミゼンの姿態は受け継ぐが、理が創られる以前のことは分からない」
ミゼンの話は続く。
「今貴殿の元にいる、その異世界からの招聘者はかなり胆力が強く、思考も柔軟なのだろう。この世界の理の外にある存在だが、おそらく元は人だった『原初の0』の魔素に感化され力が発現したのだと思う。使い魔に関しては、魔物はこの世界のものだが『原初の0』の創った人の理からは外れるものだ。だから我らよりはその招聘者に近しいものを感じるのであろう。刻印は獲物の印というよりは魔物の仲間の証のようなものだろう」
「魔物の仲間? シズルが?」
「厳密にはその招聘者は魔物ではない、異世界人だが人間ではある。だが、この世界の者ではない以上、魔物が仲間と認めたことを楽観視も出来ない。そこでフロトポロス伯、頼みがある。貴殿には荷が重かろうが、せめて陛下が寛解されるまで、手元にいる招聘者だけでも見極めてはくれまいか」
「見極める、とは?」
「この世界に仇為す存在になるのであれば、対処できるうちに処分をせねばならない」
ミゼンはジークハルトも考えていたことを口にした。
「本来ならばこれは我らの役目だ。しかし困ったことに高位の魔導士たちは、魔道の探求に熱心なあまり個人主義が嵩じて一枚岩ではない。一番目以下の数名の魔導士めらはここ数百年の平穏ですっかり己の欲に目が曇ってしまっていて、このような時に役に立たない。城にいるもうひとりの招聘者の見極めについては、城から離れている二番目に繋ぎをとった。フロトポロス伯、頼む」
確かにミゼンの言うことは正しい。ジークハルトも同じことを考えていた。あの時は。
ジークハルトは即座に返答できなかった。
ジークハルトは鬱々とした気持ちのまま、薄暗い雑然とした部屋から出て王の寝所に戻った。
オルタンシアは寝台の側に椅子を持ち出し、そこに腰掛けバシレウスの手を取って談笑していた。
小部屋から戻ったのに気づくとふたりは笑顔で迎えた。
「話は済んだかいジーク」
「はい」
何とか返事はできたが、ジークハルトの顔はまだ険しいままだった。バシレウスは苦笑して、ジークハルトとミゼンふたりに語りかけるように言った。
「ふたりとも暗すぎる、病人の私より鬱陶しいぞ。悩んだところで、物事はなるようにしかならないものだよ」
「陛下、貴方は楽観的すぎる」
ミゼンの声には珍しくバシレウスを批難する響きがあった。それを気にした風もなくバシレウスは続けて語った。
「異端なものや、異質なものを恐れるのはお互い様だ。それを解消する一番手っ取り早い方法は、相手にこちらを好きになってもらうことだよ。この世界に好きなもの、興味を引くものがたくさん増えれば、わざわざ壊そうなどと思わなくなるものじゃないかな。異質なものを排除するのではなく、いっそ取り込んで日常に組み込んでしまうくらいの強かさがなければ、国なんぞ動かしてはいけないさ」
そう言って賢王は笑った。
まるでミゼンとジークハルトの、会話の内容を知っているような発言だった。




