医師 「魔法治療をする人、せんせい」
い−し 「アフセン老医伯。好々爺。伯爵位を持つ魔法医」
血相を変えたシルベスタが、シズルを半ば抱えるようにして医務室に飛び込んできた。事情を聞くと、魔狼に噛まれたという。
邸の老医伯アフセンは、大したことはないと言い張るシズルの右の掌を診察して言った。
「まあ確かに縫うほどではないようじゃの」
アフセンが笑顔で発した言葉に、シルベスタはひと安心したようだった。が、しかしアフセン自身も表面には出さないが、シルベスタ同様ほっとしていた。
主従関係を結び使い魔となる以前、アウレーの森でもシズルから離れなかったという魔狼だったが、シズルに医務室への入室を禁止され、今は開け放たれた扉の向こうに座り、恨めしそうな視線を寄越していた。
「しかしお前さんも変わったものに好かれたもんじゃな」
傷薬を塗り、包帯を巻きながらシズルとザカリを交互に見て、アフセンはしみじみと言った。
アフセンは、白髪白髭で大魔法使いの風情の好々爺で、人の体内にある魔素を使う魔法による治療を行う。だが薬草や外科的なことにも精通していて、伯爵位も持つ一風変わった魔法医だった。
「まあなりゆきで。それよりアフセン医伯、魔狼って何を食べるんでしょう? やっぱり肉食ですよね。あんな大きなコを養えるほど、高給取りじゃないんですけど私」
「さあのう。儂は人間専門じゃからわからんわい。ただ、最初から魔物だったものは後から魔物に変じた獣と違って、魔素で生きとると聞いたことがあるぞ」
「えっ、なにそれ。じゃあもしかしてザカリはご飯要らず?! それが本当ならなんてエコなの素晴らしい!」
「エコって何だよ」
「エコロジーです、環境に優しいってことです。ついでにザカリはお財布にも優しいもふもふってことです」
そう言って喜ぶシズルはどう見ても、環境よりは財布に優しいというところを重要視ししているようだったが、シルベスタはそれよりももっと基本的なことのほうが気になった。
「そもそも生き物が、食事も摂らずどうやって生きるんだよ?」
「そうですよねぇ。それじゃあ霞を食べて生きてるっていう、不老不死の仙人と一緒ですもんね」
シルベスタの疑問に答える形で、シズルがまた突拍子のない事を言い出した。
「不老不死? センニン? シズルの世界には、そんなとんでもない人間がいるのか?」
「仙人っていうのは、修行ののち神様に近い存在になった人たちのことです。実在するかどうかはともかく、修行を極めればそういう存在になれますよ、だから禁欲的で真面目な修行をしましょうねってお話ですよ。シルも極めてみます?」
「何が楽しいんだそんなの。嫌なこった」
生真面目でとても享楽的な人間には見えないシルベスタだったが、シズルの提案はきっぱりと断った。
「ええー? 霞が駄目でももしかしたら魔素ならいけるんじゃないですか、仙人。シル、試してみてくださいよ」
どうせ女っ気ないんだし、とシズルに言われてシルベスタはむっつりと黙り込んだ。
「異世界人は面白ことを考えるのう」
黙ってふたりの話を聞いていたアフセンはからからと笑った。
アフセンはその立場から、シズルの出自をジークハルトから知らされていた。
この世界の人間であれば、体内にある魔素に働きかければある程度の治療効果があらわれるが、シズルのような只人しかも異世界人となれば、外部からの魔法による治療方法が効かない可能性があったからだ。
実際アフセンは、先ほどのシズルの診察時に魔法治療を試みてみた。しかしこの世界の人間ならば、一瞬で治癒する程度の傷だったにも関わらず、やはり魔力を持たないシズルの傷はそのままだった。
「まあ縫うほどじゃなかったが、その手じゃ当分人は殴れんじゃろうて。二、三日したらまた診せに来なさい」
「そんなに頻繁に人を殴ったりしてませんよ」
「お前さんの被害者を何人も診察たことがあるからのう」
シズルは珍しく子供のように口を尖らせて抗議したが、アフセンは可笑しそうに笑いながら白い髭を撫でた。その笑顔を見てシズルは再び拗ねたように抗議した。
「センセイ酷い」
「ガウ」
仲の良さそうなやりとりを見せられて待ちきれなくなったのか、廊下でザカリが一声吠えて立ち上がり、シズルに医務室からの退室を催促した。
シズルが医務室から出て廊下を歩くと、海の水を割って歩いたどこかの聖人のように、すれ違う邸の住人たちが廊下の両端にへばりついた。遠くからいち早くザカリの姿を認めたものは、近づく前にさっと姿を消してしまう。
「困りましたね、みんなザカリが怖いみたいです」
「まあ普通はそうだよな」
ザカリはシズル以外には触らせないが、ほかの人間がシズルに触るのも嫌がる。今もシルベスタをシズルに近づけないためにふたりの間を歩いているが、シルベスタとは絶妙な距離感を保ったままだった。
「ザカリ、さっきも言ったけど私ここの居候なんだよ。もっと愛想良くしてくれないと肩身がせまいんだけど」
そう言って、ザカリの頭を撫でる。理解っているのかいないのか、ザカリはふさふさと尾を揺らしている。
「オレたちには一切触らせもしないんだから、道は遠いな。本当に大丈夫なのか?」
シルベスタはそう言って隣を見下ろしたが、ザカリに緋い目でちらりと見られただけで、すぐにふいとそっぽを向かれてしまった。
三日後、シズルは指示通りにもう一度アフセンの元を訪れた。
アフセンはシズルの右手の包帯を取り手の甲を調べ、裏返して掌を自身の手で撫でて何かを確認したのか、ううむと唸った。なにやら深刻そうなその様子にシズルはアフセンに話しかけた。
「傷跡が残りますか? 私は特に気にしませんから平気ですよ」
「いやそうではなくての。お前さん、そこのザカリに刻印をつけられたようじゃぞ」
アフセンの『刻印』の言葉にシズルは解放された右手を表、裏と眺めている。しかしそこにはザカリに噛まれた時にできた傷があるだけで、特に何か変わったものが刻まれているわけではなかった。
「何もないですけど?」
「魔力によるものだからのう、お前さんには見えやせんわ」
「それで、何か不都合が生じますか?」
「分からん。魔物は獲物の所有権を主張するために、刻印を刻むというが」
シズルとザカリは主従関係を結んでいる、と聞いていたアフセンはしきりに首を捻っている。しかもジークハルトの話だとザカリの方から契約を持ちかけたという。その相手に自分の獲物としての刻印を刻むというのはおかしな話だった。
「え、私って非常食扱いなの? ザカリ」
シズルは医務室の入り口を振り返り、相変わらず廊下で待たされているザカリに問いかけている。その言葉にザカリは不満そうに鼻を鳴らしたが、肯定しているのか否定しているのかは分からなかった。
しかしシズルは、ザカリに食糧扱いされていることを大して気にした風もなくアフセンに言った。
「それならまあ仕方がないですね。ザカリが餓えて本当にそうならないように、ジークハルト様に大幅な賃上げ交渉をすることにします」
「お前さんはそれでいいのかの、シズル」
「魔力関係は私にはどうしようもないですからね」
アフセンの問いかけにシズルはそういって笑顔で肩を竦めてみせた。
何かあったらまた来ますセンセイ、と言ってシズルはザカリと一緒に医務室を後にしていった。その後ろ姿を見送りながら、アフセンはどうにかならないものかと考えていた。
アフセンはあの風変わりな異世界人の娘を気にかけていた。自分の孫ほどの年齢のあの娘は、ある日突然、何もかも奪われて見知らぬ世界に落とされたという。
飄々としていて強かだが、アフセンにはなにかの拍子に折れそうに思えて仕方がなかった。
年若いジークハルトやシルベスタは、シズルの強い面ばかりに注目しているが、人間というものは本当はとても脆いものだ。
しかもシズルは魔力を持たない只人だという。
アフセンは若い頃、只人の治療を行ったことがある。しかし自信のあった魔法治療がほとんど役に立たず、その時はとても苦い経験をした。
魔法治療は、魔素を多く保持する魔力の高い人間にはすぐに効果が顕れるが、その反面、魔力の弱い人間にとっては魔法治療は肉体への働きかけが強すぎて、急激に行うと体のほうが壊れてしまう。そのためにゆっくり時間をかけた治療が必要になるものだった。
だが魔力があまりに弱い只人となると、時間をかける魔法治療が怪我や病の進行に追いつかなかったり、あるいは効かなかったりと、そのために死に至ってしまう事例も多くあった。
そんな経験があって、魔法治療にばかりに頼ることのないよう、アフセンは長い年月をかけて薬草の知識を蓄積し、人体の構造を詳しく調べ、いざという時には魔法以外でも患部を直接治療できるよう、とにかくありとあらゆるさまざまな方法を身につけた。
魔力に自信を持つほかの魔法医達に変人と嘲笑されたが、人を救う方法などいくらあってもいいと考えていたアフセンは、周囲を気にすることなく現在まできた。
そんなアフセンの前に現れた、魔力を持たない異世界人。
こともあろうに使い魔として主従関係を結んだ魔物に気に入られ、刻印までつけられてしまっている。
意に染まぬ人生を余儀なくされたあの娘に、この世界で恙無い人生を送らせることが、アフセンの命数が尽きるまでの目標のひとつとなっていた。




