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ハルへ  作者: はるのいと
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第三十四話「眠れる森の王子様」

 救命救急センターに到着すると、ただちに緊急手術が行われることになった。一時は心肺停止になった如月だったが、琴音の迅速な応急処置と、到着した救急隊員たちの、心肺蘇生法により危うくもなんとか持ち直した。


 数時間にも及ぶ手術はひとまずのところは成功したが、腹部の傷が内臓にまで達していた為、未だ予断を許さない状態だった。小夜はICUで人工呼吸器に繋がれた術後の如月を、ガラス越しの窓から静かに見つめていた。そんな時、彼女は軽く肩を揺すられた。


「小夜……手、洗いに行こうか」


 先程、病院に駆け付けてきた早苗が、小夜に微笑みかける。そしてようやくその時、自分の手が血塗れだということに彼女は初めて気付いた。


「ほんとだ、洗わなきゃ……」


 小夜は独り言のように呟くと、早苗に付き添われながら洗面所へと向かう。手にこびりついたどす黒い血は、ハンドソープを使うとすぐさま洗い流された。だが小夜は手を洗うのをいつまで経っても、止めようとはしない。それどころか軽石を使い、何度も何度もこすりつけていた。


「ど、どうしよう、全然……全然取れない」


 小夜は相変わらず独り言のように呟き続ける。血が滲んだ手――見かねた早苗は静かに彼女から軽石を取り上げた。


「小夜……もう綺麗になったよ」


「……返してよ」


 小夜は小声で呟く。そんな彼女を早苗は静かに見据えた。


「返してよっ! だってまだ……まだ血が――」


「しっかりしなっ!」早苗は小夜の頬を力強く張った。「あんたがそんなんでどうすんのさっ!」


 超痛てえ……頬っぺたがジンジンする。相変わらずの怪力、口の中が十円玉の味がする。数時間前の彼の気持ちが痛いほど分った……だけどそのおかげで正気は取り戻せた。


「……少しは手加減しろや」


 小夜が涙を浮かべる親友を見つめた。すると早苗は「それじゃ、意味ねえじゃんよ」と、返した。


「女は顔が命なのよ」小夜は微笑みながら早苗の涙を拭った。「でも、おかげで目が覚めたわ」


「そうみたいね……ほんとにもう大丈夫?」


「うん」小夜は不安そうに尋ねる早苗に力強く頷いた。そして静かに彼女と自分のおでこを合せると「いつも、ありがとう」と、ささやいた。


 これは彼女たちが昔から行っていた、相手に感謝を示す時の所作(しょさ)だった。


「ガキの頃からの腐れ縁でしょ?」


「そうだね……」


 小夜がそう答えると二人は同時に微笑んだ。


「大丈夫。あいつは小夜を残して何処かへ逝ったりはしないよ」


「うん、分ってる……もしそんなことになったら地獄の底まで追いかけて行ってさ、首根っこ捕まえて連れ戻してやるよ」


 小夜はそういって力強く拳を握った。その瞳には先程までの不安定さは微塵もなかった。




 小夜たちがICUに程近い場所の長椅子に腰を下ろしていると、缶コーヒーを持ちながら長倉が現れた。その表情からは彼女が相当に疲弊しているのは明らかであった。


 長倉は気怠そうに二人に缶コーヒーを手渡した。そして受け取った彼女たちに「あっ、ごめん。ブラックだけど大丈夫だった?」と、いうと溜め息を漏らしながら椅子に腰を下ろした。


「大丈夫ですけど……あのう、琴音さんは?」


「医者と話してる。彼の容態、今後の入院の手続き、各所への連絡……彼女にはへこんでる暇はなさそうよ」小夜の問いかけに答えると、長倉は目を伏せながら「……強いわね、あの人」と、続けた。


 彼女はそういって缶コーヒーを開けた。そんな疲労困憊の女刑事を見つめながら、小夜は以前の如月とのやりとりを思い起こしていた。


「結局のところさあ、一体どんな女がど真ん中なわけ?」


 以前、自分に全くなびかない如月に、彼女は溜め息交じりで尋ねたことがあった。すると彼は暫し思案をすると、文庫本に目を落としながらこう答えた。


「とにかくヘビースモーカ―で、ときには二日酔い丸出しの顔を惜しみなく見せる、普段はそんな頼りない人なんだけど……」如月はそういって珍しく薄く微笑んだ。「だけど、いざという時にはとても頼りになって、そして過保護なくらいに愛情を注いでくれる……そんな一本気でちょっと惚れっぽい人かな」


「随分と具体的で、しかもマニアックな好みね」


「ほっとけ」


 あの時は全く意味は分からなかったけど、いま考えればあれは琴音さんのことだったんだ。如月が以前、彼女のことを ”過保護過ぎだ” と漏らしたことがあった。その時の彼の表情は母親を鬱陶しがる子供そのものだった。


 母は強し……そして彼は母性をくすぐらせる天才だ。その証拠が琴音さんと私だ。ったく良い女を二人も手玉に取りやがって……。小夜がそんなやり取りを思い出していると、長倉が声をかけてきた。


「どうしたのさ、その顔……」


 長倉は眉をしかめながら、小夜の顔を覗き込んだ。すると彼女は「まあ、ちょっとした内輪もめです」と、いって苦笑いを浮かべた。


 すると長倉は「そう」と、気怠そうに頷くと缶コーヒーを一口含んだ。そして溜め息を一つも漏らすと、小夜に顔を向けながら「今朝、私の携帯に ”死にたがり” から連絡があった」と、続けた。


「如月君から?」


「どうやって私の番号を知ったんだか……」


 長倉が呆れ顔を作ると小夜は「彼はなんって?」と、尋ねた。


「教えてあーげない」小夜の問いかけに、長倉は疲れ切った表情で答えた。「冗談よ……そんな怖い顔しなさんな。せっかくの美少女が台無しよ」


 長倉はそういって苦笑いを浮かべると、おもむろに今朝の如月とのやり取りを語り始めた。


「寝てましたか?」


 眠気眼で電話に出ると、受話口から聞こえてきた第一声は良く通る低い声だった。一度聞けば中々忘れられないその声――長倉は瞬時に相手が誰だか理解した。


「当たり前でしょ……いま何時よ」


 彼女は枕元の電気スタンドを付けた。


「午前4時です」


 長倉は溜め息を漏らしながら、目覚まし時計に目を向けた。時刻は如月のいう通り午前4時を示していた。


「……くだらない用件だったらぶっ殺すわよ」


 彼女は気怠そうに煙草に手を伸ばした。


「くだらないか、くだらなくないかは個人の主観ですから一概には――」


「御託はいいから、さっさと用件を――」


「助けたい母娘がいます」


「助けたい母娘? ……とりあえず一から全部話してごらん」


「結構、長くなりますけど大丈夫ですか?」


「構わないわよ、どうせもう目が覚めちゃったし……」


 長倉は咥え煙草でベッドから抜け出すと、気怠そうにキッチンへと向かった。そして冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、喉の渇きを満たしてゆく。


「黙ってないで、さっさと喋りなさい」


「じゃあ、遠慮なく」


 如月はそういうと、淡々と自身の過去を語り始めた。長倉はその時、初めて彼の暗い瞳と ”死にたがり” な行動の理由を理解したという。


「寝起きにいきなり、あんなずっしりと重苦しい身の上話よ……流石に勘弁してほしかったわ」長倉はそいうってシニカルな笑みを小夜に向けた。「あなたも知ってたんでしょ?」


 小夜は静かに頷くと、隣で涙を流す早苗の肩を優しく抱いた。


「それで彼はそのあと、長倉さんになんて?」


「彼は三枝を嵌める計画を私に話してきた――」


 如月の計画はとてもシンプルだった。まず第一の目的は三枝から母娘を遠ざけること。これはすでに完了している。そして第二の目的は、三枝の犯行を立証することだった。だが奴はとても狡猾でしかも勘の鋭い人間だった。だからこそ計画には慎重に慎重を重ねなければならなかった。


「誘拐した母娘はどこに?」


 全ての計画を聞き終えた長倉は、溜め息を漏らしながら尋ねた。


「娘さんに酢酸タリウムの中毒症状があったんで、いまはとある病院に入院しています。勿論、母親も一緒です」


「どこの病院?」


「いえません」


 間髪入れずに如月は答えた。


「どうして?」


「どこから情報が漏れるか分らない。長倉さんを信用していない、という訳ではないですけど、リスクは出来るだけ減らしたいんです」


「……どうしてそこまで必死になってるわけ? キミにとっては直接的になんの関係もない母娘でしょ? なら――」


「三枝時生に関わってる、という時点ですでに僕の関係者です。それにこれ以上、僕みたいな人間を出す訳にはいかないんです」


「……話しは分かった。だけどもう少し時間をかけて――」


「それじゃ遅いんだっ! 公判記録や精神鑑定を見てください。検事からの尋問や鑑定士の質問を、奴は綺麗にかわしてる。三枝はとても頭の良い男です。だからいましかないんですっ、いまを逃せば奴を捉えることはもう出来ないっ!」


「分ったわよ……こんな朝早くから大声出さないでよ」


 暫しの沈黙の――長倉は煙草の煙を深く吸い込むと、溜め息交じりで吐きだした。


「こりゃ、下手すればクビだなあ……」


 長倉の言葉に如月は受話器の向こうから沈黙で応えた。


「アラフォー独身女が失業か……こりゃ、きついなあ」


「……別に断ってくれても構いませんよ」


「一人で出来ると思ってるわけ?」


「ええ、勿論です。いままでその為に生きてきたんで」


 如月は自信満々にいってのけた。


「じゃあ、どうして私に手助けを?」


「保険ですよ」


「保険……どういう意味よ?」


「常に計画通りことが運ぶとは限りませんからね。不測の事態は想定しておかないといけません。だからこそ仕事の出来る美人刑事に全てを話しておけば、僕に万一のことがあったとしても奴を追い詰めてくれるんじゃないかな、っていう図々しい魂胆があったって訳です」


「口が上手いわねえ、やりてのホスト並みだわ……まあ、ホストクラブなんて行ったことねえけど」


 長倉は苦笑いを浮かべながら、二本目の煙草に火を点けた。


「手を貸す代わりに一つ聞いていい?」


「どうぞ、なんなりと」


「嘘はなしよ」


「ええ。勿論です」


「どうしていままで三枝を殺さなかったの?」


 長倉は煙を吐きながら、ゆっくりとした口調で尋ねた。


「殺人は違法ですから――」


「嘘はなしっていったはずだけどっ?」


 如月の言葉を遮ると、長倉は語尾を強めた。


「……人を心の底から恨むと、そう簡単にはその対象者を殺せないものなんですよ。最初は、三枝の全てを奪ってから殺そうと思ってました。だけど奴には幾ら調べてもなにもありませんでした。普通の人間が生きてゆくなかで、あって然るべき大切なものが奴には皆無だった。だから僕はただひたすら、三枝を観察することにしました。そして随分時が経ったある日、あの母娘が奴の前に現れたんです」


「その時、これでやっと三枝に復讐できると思った?」


「ええ。でもその当てはすぐに外れました」


「三枝があの母娘を次のターゲットに選んだと気付いたのね?」


「はい。ほんと皮肉なもんです」


「そうね……殺そうと思っていた側から、今度は守る側に回ったんだものね」長倉は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。「……ついてないわね」


「ええ……でもまあ、いまに始まったことじゃないですけどね」


 如月が静かに吐息を漏らすと、二人の間に暫しの沈黙が流れた。


「それで、あの子は今回の件は知ってるわけ?」


「あの子って誰のことですか?」


「恍けなさんな。キミがあの時助けた美少女のことよ」


「いいえ、知りません。彼女にはなんの関係もない――」


「三枝には人としての感情が欠落していることに、キミは以前から気付いていた。しかもまた12年前と同じ犯罪を犯そうとしている。それを知りながら、キミはどうして奴を殺さなかったの? もう生かしておく必要はないでしょ」


 長倉の問いかけに、如月は受話器の向こうで無言を貫いた。


「あの子の為なんでしょ?」


 長倉の問いかけ――暫しの沈黙が流れた。程なくして彼女の鼓膜に低く良く通る声が届いてきた。


「彼女……ああ、見えてすぐ泣くんですよ。そのくせとても強情で、こうと決めたらとことん真っ直ぐで……しかも厄介なことにとっても情の厚い女なんです」


「じゃあ、キミが三枝を殺しちゃったりしたら、どエライことになるわね」


「ええ」


「彼女を悲しませたくなかったから、キミは奴を生かす選択を選んだって訳だ」


 再度、長倉が問いかける――数秒後、如月が静かに口を開いた。


「嫌な女刑事だ」


「私らにとっては褒め言葉よ」


「はははっ、そうでしょうね」如月は珍しく小さく笑った。そして優しい声色で「彼女には……いつも笑っていて欲しいんですよ」と、続けた。


「そう思うなら、自分になんかあった時のことなんか考えてないで、計画を成功させて無事にあの子のところに戻ることだけ考えなさい。大丈夫、ケツは私が持ってやるから」


 長倉は自信満々にいい放った。


 すると如月は安心するように「……はい」と、返した。


「以上、私が知ってんのはこれが全部よ……こんな時ぐらいは我慢しなくていいんじゃないの?」


 瞳に涙を溜めながら必死に微笑む小夜に、長倉は優しく声をかけた。


「だって……彼はいつも笑っていて欲しいっていってたんでしょ?」


 小夜は微笑みながらいった。


「12年前のあの時から、気が狂いそうになる程に三枝を殺したかったはずなのに……私なんかの為に――」


「勘違いしちゃダメよ。あなたは彼を救ったの」


「私が?」


「ええ。あなたと出会ったから、彼は正気でいられたのよ。そうじゃなかったら今頃は三枝を殺して ”悲劇の復讐鬼、少年A” よ」 


 長倉はそういって小夜の隣に腰を下ろした。


「経緯はどうあれ、彼は二人の母娘を救った。これは厳然たる事実よ。しかも誰も傷つけてないってんだから……野郎はあなたに相当ベタ惚れみたいね」


 長倉はそういって小夜の頭を優しく撫でた。その瞬間、せきを切ったように彼女の瞳からは涙が溢れだした。静まり返った病院の廊下――そこにはむせび泣く、小夜の声だけが響き渡っていた。




 術後の経過は順調で、病状も安定しており合併症などの心配もなかった。医師たちはもうすぐ意識を取り戻すだろう、といった。だがそれから数日たっても如月の意識が戻る事は無かった。


 その後、ICUから一般病棟に移されても如月の意識は戻ることはなかった。身体的には目覚めて然るべきの筈だったが、彼の意識は術後から1週間経っても、戻ることはなかった。原因は心因的なものが大きいのではないか、と医師たちは首を傾げた。


「小夜ちゃん、もう一週間よ。そろそろ学校に行かないと……」


 琴音はベッドに横たわる如月を、溜め息を漏らしながら見つめた。


「……琴音さんの方こそクリニック休んでいていいんですか?」


「いいのよ、全然やる気起きねえから……」琴音は怠そうに首の骨を鳴らした。そして思い出したように「そういえばあの女刑事ね、辞表出したらしいわよ」と、続けた。


「長倉さんが?」


「ええ。まだ受理されてないらしいけど……誰かが責任を取らないと、らしい」


「……そうでしょうね」


 この辺りの情報は恐らく権藤さん経由だろうな……。小夜は心の中で呟いた。


「それにしても随分と人気があんのね、この子」琴音は重苦しい空気を変えるように、病室に飾られた千羽鶴や沢山の見舞いの品を見つめた。「しかも見舞いに来るのは7対3で女が多いわね……ふん、流石にちょっと妬けるんだけど」


 早苗や清水、そして妹の有紀は勿論のこと、委員長の詩織を中心にクラスメイトたちは毎日のように彼を心配して病室へ顔を出していた。。加えて優香や闇のバイト仲間たちが、小夜を心配して連日訪れていたのが7対3の割合の真相だった。


「こう見えても如月君って結構モテるんですよ。だからこそ私がここにいないと、彼に唾を付けてくる女がいないとも限らない。だから私はここを離れる訳にはいかないんです」


「なるほど……じゃあ、仕方ないわね」琴音は頷きながら、微笑みを漏らした。「小夜ちゃん……あんたってほんといい女ね」


 琴音は頬杖をつきながら彼女を見据えた。


「あれ、今頃気付いたんですか?」


「ふふっ、ほんとこの子には勿体ないほど良く出来たお姫様だわ」


 琴音はそういって如月を静かに見つめた。その顔はとても優しく慈愛のこもった表情であった。

 やっぱり琴音さんは彼の母親だ……。小夜はそう思いながら如月のおでこを優しくなでた。


「それにしてもいつまで寝てるんでしょうねえ、この厄介な王子様は……」


 小夜は幾分やつれた顔で、最愛の人に微笑みかけた。優しい木漏れ日が射す病室。二人はいつまで経っても目覚めない如月を見つめながら、同時に溜め息を漏らした。

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