第二十九話「愛をくれし君」
珍しいこともあるもんだな……。如月は歯を磨きながら、洗面台の鏡に映る自身の姿をぼんやりと眺めていた。彼女が学校を休むことは多々あるが、その時はしつこい程に必ず連絡がある筈だった。だが今日は僕にも、あの肉体派の親友のところにも音沙汰はなしだった。まあ、子供じゃないんだし問題ないだろうけど……。
彼はそう思いながら口の中をゆすいだ。口の中はスッキリした。だが何故か釈然としない。なんとなく気分が落ち着かないのだ。如月は口元をタオルで拭いながら溜め息を漏らした。丁度その時だった、ポケットの中のスマートフォンが着信を告げてきた。時刻は24時12分。彼は液晶画面を見ると素早くスクロールした。
「もしもし」
「……小夜です」
暫しの沈黙のあと、受話器の向こうからは若干の鼻声が聞こえてきた。
「分ってるよ。画面に名前が出てるんだから」如月は歯ブラシを洗面台に戻した。「それで、こんな真夜中に一体どうしたんだい?」
「……いまどんなパンツ穿いてんの?」
「わざわざ、そんなことを聞くためにこんな夜中に電話を?」
「……違う」
「じゃあ、用件は?」
「……なにしてたの?」
暫しの沈黙の後、小夜は小声で呟いた。
「そろそろ、寝ようかと思って歯磨きを――」
「いまからそっちに行っていい?」
小夜は強引に如月の言葉を遮った。その声色は普段の彼女のそれとは明らかに違うものだった。
どうやら、また厄介事か……彼はそう思いながら話を続けた。
「どうして?」
「会いたいから……」
「明日、学校で会えるじゃないか、それに――」
「いま会いたいのっ!」
明らかに普段の彼女とは違う。これは恐らく……。
「酔ってるね?」
「悪い?……」
小夜の声はいつになく、しおらしいものだった。如月は溜め息を一つ漏らすと、諭すようにこう続けた。
「飲み過ぎは良くない。明日にも影響するから、もう寝た方がいいよ」
「お願い、会いたいの……」
「悪いけど家に来られるのは困るよ」
「じゃあ、いますぐこっちに来て。じゃなきゃほんとにそっちに行くよっ!」
暫しの沈黙――受話器の向こうからは彼女の啜り泣きが聞こえてきた。ったく……。如月は溜め息を一つ漏らすと、静かに口を開いた。
「分かった、いまから行く。だからもう飲むなよ」
如月はタクシーに乗って小夜のマンションへと向かった。以前の自分からは考えられない行動だな……。彼は後部座席に体を預けながら、自嘲するように微笑んだ。
マンションに着くとルームナンバーを押し来訪を告げた。するとオートロックの扉がすぐに開いた。如月は豪華なエントランスを抜けエレベーターに乗り込んだ。そして小夜の部屋の前に着くとインターフォンを押した。すると間髪入れずにドアが開いた。
恐らくここで待っていたのだろう……。如月は玄関口に立つ小夜を見つめた。化粧っ気のないその顔は、普段の彼女よりも幾分幼く見えた。目がかなり充血しているところを見ると、やはり泣いていたようだ。
「入って……」
小夜は拗ねたように、如月のシャツの袖口をつかんだ。リビングに向かうと数本のワインの瓶が転がっていた。如月が飽きれた顔を小夜に向けると、彼女はふらつきながらソファーに腰を下ろした。そして「座って……」と、いいながら彼を手招きした。
「飲み過ぎだよ」如月はそういって小夜の隣に腰を下ろした。「急性アルコール中毒になっても――」
そういいかけた時だった、彼女はゆっくりと抱きついてきた。いつものパッションフルーツの甘い香りが、鼻腔をくすぐってくる。
「一体どうしたっていうんだい? いきなり呼び出して――」
「どうして、いつも同じお弁当を二つ買うの?」
「……急になんだい」
「どうしてマスダのハムカツが好きなの?」
「特に理由は――」
「あの宝物のビー玉は返せたの?」
「……おかげさまでね」
「誰に返したの?」
「キミの知らない――」
「どうして、いつも一人だったの?」如月の言葉を遮ると小夜は更に「もう大切な人たちを失うのが嫌だったから? だから人と深く付き合うのを避けてきたの?」と、続けた。
どうやら彼女は知ってしまったようだ……。
「今夜は随分と質問攻めだね」
如月が小声で呟くと、抱きついていた小夜の腕に力が入った。
「茶化さないでっ!」
「べつに茶化してないよ」
そういえば以前にもこんなやり取りがあったな。あの時はいまと違って、茶化してたっけ……。如月はそう思いながら小夜を見つめた。
「事件のことを知ったんだね?」
如月の問いかけに小夜は頷くことで答えた。
「……どうしていってくれなかったの?」
「キミにいっても仕方ないことだから」
「仕方ない? ……如月君にとって私はその程度の人間なんだ」小夜はゆっくりと彼の胸に頭を預けた。「ああ、頭がグルグルする……」
「飲み過ぎだよ」
如月の低くよく通る声――マンションの一室に暫しの沈黙が流れた。
「……ねえ、ずっと一人でいて、寂しくないの?」
「どうだろう。寂しさの定義が僕には――」
「いつもの御託はもう、うんざりっ! どうして本心を――」
「寂しいよ……そういったらなにか変わるのかい?」
「変わるわよっ、当たり前でしょ!」
「そうは、思わない。人は鈍感だからね」
「なら……なら少しは寂しそうにしてよ。分かりやすく泣いたりしてよ、少しは私を頼ってよっ!」
「ごめん、そうしたくても出来ないんだ」
如月は自嘲するように微笑んだ。
「ねえ……生きるの、辛い?」
如月の胸に顔を埋めたまま、小夜は小声で尋ねた。
「ああ、死ぬことよりもね」
本心だった……。
「……楽になりたい?」
彼女はくぐもった声で真摯に尋ねてくる。だから僕は……。
「出来ることなら」
本心だった……。
「私はあなたに救われた……」
小夜はそういって如月の胸から顔を上げた。そして彼の華奢な首に両手をかけながら、泣き顔で微笑んだ。
「だから今度は私が……」
彼女は微笑みながらゆっくりと覆いかぶさってきた。細い指が首筋を優しく包んでゆく。そして徐々に力が込められる。意識が少しずつ遠のいていく感覚――。
苦しいが、不思議と気持ちの良い浮遊感が体を駆け巡る。このまま黙っているのも悪くない……そんな時だった、頭の中に懐かしい声が届いてきた。気付くと、僕と同じ顔をした幼児が目の前に佇んでいた。
「やあ、久しぶりだね」
「……あの時のままだ」
如月は幼児を見つめた。そこには懐かしい顔があった。
「そりゃ、そうだよ。だって僕はもう死んでるんだから」
「そうだよね……」
「それで、いまはなにしてるの?」
「……見ての通り殺されかけてるよ」
「ふうん、それは大変だね。無抵抗みたいだけど、そのままじゃ本当に死んじゃうよ」
「まあ、それもいいかなって……」
「そっか……でもキミにはまだやらなきゃいけないことがあるだろ? それに、その子を本当に殺人犯にしてもいいのかい?」
「仕方ないよ。だって、これは彼女が選んだ答えなんだから……」
「彼女が選んだ答え? それは違うよ」
僕と同じ顔をした幼児は溜め息交じりで首を横に振った。
「なにが違うんだい?」
「生きることが死ぬことよりも辛い、そういったキミを彼女は救おうとしてる。自分の人生を犠牲にしてまでね。そんな彼女が本当にこんな選択をしたかったと思うのかい?」
「……幼稚園児のくせに随分と小難しいことをいうね」
「そりゃ、そうさ。いまの僕はキミの意識なんだから」幼児はそういって眼鏡を上げる仕草をした。「もう一度聞くけど、彼女を殺人者にしてもいいのかい?」
「……キミは僕の意識なんだろ?」如月が問いかけると幼児はゆっくりと頷いた。「なら答えは分りきってるはずだよ」
「ああ、そうだね」幼児は伏し目がちに呟くと、不安げな眼差しを向けながら「一人で大丈夫かい?」と、如月に尋ねた。
「……ああ、大丈夫だよ」
如月が微笑みながら答えると、幼児は満足そうに何度も頷いた。
「そっか……それじゃ、僕はもう行くね」
そういった途端、懐かしい声の主はふっと消えた。そして如月は静かに瞼を開いてゆく。見上げるとそこには涙を流す小夜の姿があった。如月はそっと手のひらで彼女の頬に触れる。すると途端に首筋を覆っていた力がすーっと抜けていった。
「ほんと、よく泣くね」
如月がそういって微笑みを浮かべると、小夜は泣き顔でふて腐れてみせた。
「……誰のせいよ」
「そうだね」如月は小夜の涙を親指で拭うと、自嘲した笑みを浮べた。「やっぱりキミを殺人犯には出来ないよ……悔しいけど、どうやらあの時の賭けは僕の負けみたいだ」
「賭け?」
「あの日、ホームでしただろ」
”如月君は絶対に私のことを好きになる、賭けてもいいよ”
「……もしかして私のこと好き?」
「ああ、不本意ながらね」
如月は微笑みながら静かに頷た。すると小夜はゆっくりと彼の顔に近付いてゆくと、優しく唇を塞いだ。
こんな感情は嘘だと思った。一時の気の迷いだと思った。明日になればどうせすぐに後悔へと変る、そう思った。絶対にこんなのは嘘だ。でも彼女から感じる鼓動と、唇に触れる優しい温もり――それだけは本当だった。いまはそれだけでいい……。如月はそう思いながら小夜を優しく抱き寄せた。
「不公平よ……」
小夜はベットでシーツに包まりながら、非難の眼差しを如月に向けた。
「不公平って、なにが?」
「どうして女だけこんなに痛い思いをしないきゃいけないの?」
「人体の構造のことを僕にいわれても……」
小夜は再度、恨みがましい眼差しを如月に向けた。すると彼は苦笑いを浮かべながらTシャ
ツに首を通した。
「ああ、しんどい……もう、今日は学校休むっ!」
「そのほうがいいね」
「ねえ、一緒に休もうよ。そんでね、今日は一日中ベットの中で過ごすの。イチャイチャしながら、どう?」
小夜はねだるように甘えた声でいった。
「だめだよ、そんなの……」
「えーなんで、なんで?」
「なんでも」
如月は諭すようにそういうと、腕時計に目を向けた。時刻は6時03分。
「それよりなにか食べ物を買ってくるよ。その調子じゃ料理は無理だろ?」
「うん、無理っぽい……」
「なにかリクエストは?」
「うーん、甘い物がいい。フルーツサンドとかプリンとか……あっ、あとアイスと――」
「分った、適当に買ってくるよ」
如月は苦笑いを浮かべながら彼女の言葉を遮ると、ゆっくりと寝室のドアを開けた。丁度のその時だった、彼の華奢な背中に小夜が小さく声をかけた。
「ねえ、やっぱり後悔してる?」
「後悔? ……まさか」
如月はゆっくりと振り返りながらいった。だかこの角度からでは小夜の表情までは分らなかった。
「いま、少し間があったよ」
「本当だよ。後悔なんかしてない」
如月はシーツから覗く小夜の背中に語りかけた。すると彼女は寝返りをうつと悪戯っぽく小首を傾げてみせた。
「ならキスを一つお願いできます?」
そういってはにかむ小夜を、如月は呆れ顔を浮かべながら静かに見つめた。
「じゃあ、行ってきます」
「えーっ! ねえ、チューは?」
「バカなこといってないで早く着替えなよ、風邪ひいても知らないぞ」
如月はそういって小夜に背を向けると、足早にコンビニへと向かった。
早朝のコンビニには、学生や出勤前のサラリーマンたちの姿があった。如月は小夜のリクエスト通り、苺のフルーツサンドウィッチをカゴに放り込んだ。
「あとはプリンにアイスクリーム……なんか甘い物ばっかりだな」
如月はカゴに目を落としながらポツリと呟いた。そして念のため小夜の好きそうなパスタ等も購入することにした。その後は食料を届けると、ごねる小夜をなだめ彼は自宅へと戻った。
さっきはああはいったけど、彼女とのことはやはり若干の後悔がつきまとった……この先、僕がやろうとしていることを考えると、そう思わずにはいられなかった……。如月は通勤ラッシュの電車にゆられながら、吊革をきつく握りしめた。
「はい、あーんして」
翌日の昼休み。いつにも増して機嫌のよさそうな小夜が、如月の口元にハンバーグを運んでゆく。だがそんな彼女を無視して如月はいつものように、黙々と弁当に箸を伸ばしていた。
「ほら、あーんして」
完璧な無視にもめげることなく、小夜は微笑みながらもう一度ハンバーグを、如月の口元に運んでゆく。そんな光景をクラスメイトたちは固唾を飲んで見守っていた。だが10秒、20秒と時間は経過するも彼は無言で弁当を食すばかり。
「クラス中が注目してるのよ、私にもプライドってのがあるんですけど」
小夜は微笑みながら、腹話術師のように如月だけに聞こえる声量でささやいた。そこから更に十数秒が経過した。彼女は相変わらずハンバーグを箸で撮みながら彼を見つめている。
なにがなんでも食べるまで止めない気だな……。如月そう思いつつ静かに溜め息を漏らした。そして引きつった笑みを浮かべる小夜に顔を向けると、おもむろにハンバーグをパクリと頬張った。するとクラス中から拍手と歓声が起こった。
「どう? 自分で食べるより美味しいでしょ」
小夜が微笑みながら小首をかしげると、如月は「いいや、全然」と、いつもの無表情でかぶりを振った。
「テレるな、テレるな」
早苗は如月の背中を軽く叩いた。
「それにしても、あんたにしては、すんなりとはいわないまでも、珍しく素直に受け入れたわね。なんか心境の変化でもあったの?」
「いいや、別にないよ」
如月が一瞬、小夜に視線を向けると、彼女の頬は薄っすらと桃色に染まっていた。どうやら昨日の出来事はまだこの親友にも話してないらしい。
「食べるまで止めようしないんだ、仕方ないだろ」
「いいなあ、俺も一回でいいからそんなことされてみてえなあ……」清水は恨めしそうに自身の弁当を見下ろした。「……なあ、荒川」
「なによ」
「試しにさ、ちょっと一回やってみてくんねえ?」
「はあっ、なんで私がそんなことしなきゃなんないわけ? っていうか、なんで当たり前のようにうちのクラスで弁当食ってんのよ」
「冗談だろ、そんな怒んなくても……」
「それくらいやってあげればいいじゃん。減るもんじゃないんだし。ねえ?」
小夜は相変わらず無言のまま弁当を食す如月に同意を求めた。すると彼は興味さなげに小さく頷いた。
「ちょっと、なに適当に頷いてんのよっ!」
「うるさいなあ、馬鹿デカい声で……」如月はうんざりした表情を浮かべた。「べつにそんなに嫌がらなくてもいいだろ? たかが弁当を食べさせるだけじゃないか」
「なら、あんたがやんなさいよっ!」
「……あのね清水君、正直キミが思っているほど、いいもんじゃないよ。それでもいいのかい?」如月が食事の手を休め尋ねると、清水は俯きながら静かに頷いた。「しょうがないな。ほら、あーんしてごらん」
如月はそういって清水の弁当箱を持ち、そこから玉子焼きを選んで彼の口元に運んでゆく。
「キ、キモっ……」
早苗は眉間にしわを寄せながら呟いた。
「キミがやれっていったんじゃないか……で、どうだい。そんなにいいもんじゃないだろ?」
如月の問いかけに、清水は小さく頷いた。
「だって俺たち男同士だから……」
「女子にやられても同じだよ、玉子焼きの味は変わらない」
「清水君だけずるいっ! 私は? ねえ、私にもあーんして、ハルちゃん」
二人の会話に小夜が割って入ってきた。彼女はおねだりするように、如月のジャケットの袖を引っ張ってゆく。
「……しょうがないなあ。ほら、あーんして」如月はそういって小夜の口元にピーマンの肉詰めを運んでいった。そして彼女が幸せそうな顔で口を開いた時、真顔のまま「僕を呼ぶときはいままで通り如月君で」と、呟いた。
「……嫌だといったら?」
小夜は静かに如月を見据えた。
「このピーマンの肉詰めはお預けだね」
「ならしょうがないわね。じゃあ、如月君……はい、ここに優しく入れて」
小夜はそういって瞼を閉じると、ひな鳥のように口を開いた。
「……なんかエロくね?」
早苗と清水が同時に呟いた。
「うん、やっぱ自分で食べるより全然美味しいっ!」
小夜はピーマンの肉詰めを食べながら、満足気に微笑んだ。
「いい加減な舌だね。とても料理上手とは思えない――」
「人の舌なんていい加減なものよ。だって体調や精神状態によって味覚なんて大きく変化するでしょ?」
小夜は微笑みながら如月の言葉を遮ると、一呼吸置いて更にこう続けた。
「好きな人と一緒に食事をすれば、たいして美味しくない料理でも、美味しく思えるし、とても幸せな気分にもなる。 ”なにを食べる” も大事だけど ”誰と食べる” も大事じゃない?」
小夜は小首を傾げながら、静かに如月を見据えた。
「なにか反論は?」
「反論は……まあ、多々あるけど長くなりそうなんで今回は――」
「負け惜しみ?」
微笑みを浮かべながら、小夜は幸せそうに如月を見つめた。
すると早苗が笑いを堪えながら「明らかに負け惜しみだね」と、呟いた。
そして清水が腕組みをしながら「誰がどう見ても、今回は如月の負けだな」と、いってしたり顔を作った。
「ふん、いってろ」
如月はそんな彼女たちから視線を逸らすと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。すると3人は楽しそうに笑い声を上げた。
初めて出来た大切な人、そしてお節介だが優しい友人たち。本当、僕には勿体ない……。如月はそう思いつつ、バカ騒ぎをする3人を静かに見つめた。ああ、こんな日々がずっと続けばいいのに……。彼はこの時、心の底からそう思った。




