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ハルへ  作者: はるのいと
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第二十八話「息もできない」

 翌日、初風市に到着すると小夜は静かに空を見上げた。そこにはいまの彼女の心とは裏腹に、雲一つ無い晴天の空が広がっている。小夜は空を見上げながら溜め息を吐くと、タクシーに乗り込み麻美の祖父母宅を目指した。


 学校を休んで彼の過去を探っている……私は一体なにをやっているんだろう? タクシーの後部座席で揺られながら、小夜は不意にそんな思いにかられた。だが殺人事件に如月が巻き込まれた過去がある、という事実は彼女の重い腰を腰を上げるには、十分な理由だった。




 空港から1時間ほど車を走らせたところに、麻美の母方の実家である浜崎家はあった。昔ながらの平屋の日本家屋がとても印象的だった。その縁側に一人の老人が日向ぼっこをしているのが、玄関先の門扉から見える。


 小夜は玄関先から老人に「すみません」と、声をかけた。


「あんたが、三島さんかい?」


 老人はゆっくり小夜に顔を向けると、不機嫌そうに呟いた。

 どう見ても歓迎されているとは思えない。麻美のやつ……。小夜は心の中で舌打ちを一つ打った。


「初めまして」


 小夜が頭を下げると、浜崎健三は縁側に腰を下ろしたまま彼女を手招きしてきた。


「座んなさい」


「失礼します」


 小夜が縁側に腰を下ろすと、部屋の奥から和装の老婦人がおぼんにお茶と菓子を乗せて現れた。武骨な浜崎とは対照的にとても穏やかな表情が印象的だった。


「これ、よかったら召し上がってくださいね」


 老婦人はそういいって、小夜の前にお茶と菓子を置いた。彼女はかしこまりながら「有り難うございます」と、いって頭を下げた。


「ハル坊は元気か?」


 暫しの沈黙の後、浜崎は静かに尋ねた。


「ハル坊……如月君ですか?」小夜の問いに浜崎は無言で頷いた。「元気といえば元気ですけど……」


「そうか」


「最近はお会いになってないんですか?」


「ああ。中学に上がった時に、制服姿を見せに来たのが最後だ」浜崎はお茶を啜りながら呟いた。「それで、ハル坊は知ってるのかい? あんたが事件のことを、こうやって嗅ぎまわってることを」


「……いいえ、知りません」


「どうして事件のことを知りたいんだ?」


「私は……私は彼と過ごすようになってまだ数か月しか経っていません。だから彼の事は殆ど知らない」浜崎を見据えながら小夜は正直に答えた。「でも不意に不安に感じる時があるんです。あの暗い瞳を見ていると……彼がふっとどこかに消えてしまいそうで」


「そうか……」


 浜崎はそういってお茶を一気に飲み干した。そして暫くの沈黙の後、遠くを見つめる目をしながら、12年前に起こった事件について静かに語り始めた。


 2002年7月12日――日本中が熱狂したワールドカップの熱もようやく冷め、鬱陶しい程の蝉の鳴き声が本格的な夏の到来を感じさせる、そんな日に事件は起こった。

 その日、恩田美雨は双子の息子たちと共に、近所にある自然公園を目指していた。折角、子供たちが夏休みに入ったというのに夫の仕事は相変わらず忙しく、彼女も最近再開した翻訳の仕事と家事の両立で長時間の外出は出来なかった。そういった理由もあり子供たちを遊びに連れて行くといえば、近所の公園くらいしかなかった。


 他の子たちは遊園地や海水浴に出かけているというのに……。美雨は息子たちに申し訳ない気持ちで一杯だった。

 だが来週は二人が大好きなアニメ『ピピポロ族のメイ』が公開する。美雨は時間を作り、必ず3人で劇場に足を運ぼうと決めていた。


 暫く歩いていると、玄関先で打ち水をしている浜崎健三の姿が目に入ってきた。彼は町内でも偏屈な事で有名な老人だった。昔は大工の棟梁(とうりょう)だったそうだが、現在は若い者に任せて妻と二人で隠居生活を送っている。頑固そうな白髪の角刈りに甚平姿がやけに似合っていた。双子たちは浜崎の存在に気付くと勢いよく彼の元へと駈け出した。


「こんにちは、棟梁っ!」


 双子たちは浜崎のもとへ駆け寄ると大声で挨拶した。


「そんな馬鹿でかい声出さんでも聞こえとる。じじい扱いするな、坊主どもっ!」


 浜崎はそういうと、微笑みながら双子たちの頭をなでた。このようにいつも憎まれ口ばかり叩く老人だったが、恩田家とりわけこの双子とはなぜかウマがあった。


「こんにちは、おじいさん。今日も暑いですねえ」


 美雨が浜崎に声をかけた。すると彼は相変わらずの表情で、いつもの憎まれ口をたたく。


「ふん、夏なんだから当たり前だ。まあ、お宅の坊主たちには関係ねえみたいだけどな」


 いつの間にか公園を目指しかけ出していた二人の背中を眺めながら、浜崎はにこやかに微笑んだ。


「本当、唯一の取り柄はそれだけですから」


 美雨は苦笑いを浮かべた。


「なあに、子供(ガキ)なんて元気があればそれで十分だ」


「ええ、私もそう思います」


 息子たちの背中を眺めながら、美雨は幸せそうに微笑んだ。


「今日は公園かい?」


「はい」


「ほら、坊主たちが待ってるから早く行ってやんな」


 双子たちは横断歩道の前で立ち止まり、美雨を手招きしていた。「気を付けて行っといで」と、いう浜崎に会釈をすると、彼女はかけ足で息子たちのあとを追った。

 一足遅れて公園に到着すると、二人は芝生の上をまるで戦闘機のように両手を広げて走り回っていた。

 流石に男の子だあ……この分だと駆けっこで負かされる日もそう遠くはない、と美雨は思った。


 光の森公園――周りは自然に囲まれ全面に芝生が敷かれた園内。自由広場・休憩場・テニスコートのほか幼児でも楽しめるような、遊戯がいくつもあり幼い子供を持つ親御たちからは、とても人気の場所だった。

 美雨はいつものベンチに腰を下ろす。この場所は樹木で丁度よく日陰になっており、日焼けを気にする彼女にとってはありがたい場所だった。


 日々の運動不足がたたり少し走ったくらいで息が上がる。明日は筋肉痛になっているかもしれない。彼女はそう思いつつ被っていた日除け帽子を団扇代わりに仰ぎながら、額に浮かんだ汗をハンカチで拭った。


 辺りを見渡すと、その日の園内は日曜日だというのに閑散としていた。美雨たちの他には、コートでテニスを楽しむ老夫婦の姿しかなかった。彼女がベンチの背もたれに寄りかかると、汗ばんだ首筋に心地よい風があたる。


 連日の猛暑と腕白盛りの息子たちの世話――加えて最近再開した翻訳の仕事のせいで、この日の美雨は幾分寝不足気味だった。軽く瞼を閉じるだけで彼女は浅い眠りに落ちた。

 木々を揺らす風の音で美雨は目を覚ました。眠っていたのはほんの10~15分程度だっただろう。彼女はベンチに座りながら、きしんだ体をゆっりと伸ばした。少しの間、眠るだけでも体の怠さは幾分和らいだ。


 水筒のお茶で渇いたのどを潤しながら、彼女は辺りを見回した。先程まで遊んでいたトランポリンがある場所には、息子たちの姿は見当たらない。砂場の方だろうか? と思いつつ彼女はそちらに目を向ける。だがそこには二人が作ったであろう、小さな砂山が二つあるだけだった。


 美雨は妙な胸騒ぎを感じた。彼女は息子たちの名前を大声で叫びながら公園内を捜し歩いた。するとテニスコートにいた老夫婦が何事かとかけ寄ってきた。事情を説明すると、彼ら2人も双子たちの行方を探し始めた。


 30分後――園内をくまなく探し歩いたが、二人は一向に見つからなかった。美雨は携帯電話で夫の優作に連絡を入れる。酷く動揺している妻に彼は警察へ連絡するように、といった。


 程なくしてパトカーが一台公園へとやって来た。3人の警官は美雨にかけ寄り事情を聴いた。息子たちの容姿や背格好、着ていた服の特徴などを彼女は出来るだけ詳しく、警官たちに伝えた。周りでは近隣の住民たちが、赤色灯に気付き公園内を窺っている。


「おい、どうした?」


 騒ぎに気付いた浜崎と、その妻の文子が公園に訪れた。すると美雨はうなだれるようにその場に泣き崩れた。


「おじいさん、二人が……ハルとナツが」




 午後6時――二人が忽然と姿を消してから、5時間余りが経過していた。引き続き警察の捜索は続いていたが、有力な目撃証言などは得られず、時間だけが悪戯に過ぎていった。


 仕事場から戻ってきた優作は、リビングで文子に肩を抱かれながら、すすり泣く美雨に「大丈夫だ、必ず見つかる」と、声をかけた。だがそれは先程から何度も浜崎たちが彼女にいい聞かせていた、なんの根拠もない言葉だった。


 双子たちの失踪から何一つ手掛かりも得られないまま、静かに夜は明けた。誘拐の可能性も出てきたため、恩田家のリビングには警察関係者が数人訪れていた。


 食事も喉を通らずやつれた様子の美雨。そんな彼女の手を文子は夜通し握っていた。そんな中、浜崎や町内の人間たちはいても経ってもいられず、明け方まで足を棒にして二人の行方を探した。


 翌日、時刻は正午0時を回った頃だった、文子と共に美雨を気遣っていた若手の女性捜査員の携帯電話が鳴った。彼女は着信相手を確認すると、上司の井上に目配せをしてリビングから出て行った。


 なにか捜査に進展があったのだろうか、美雨は泣き腫らした目を刑事たちに向けた。程なくして女性捜査員がリビングに戻ってきた。その表情は険しく、とても良い知らせだとは思えなかった。女性捜査員からの報告を受けると、井上は優作に視線を合せた。


「恩田さん、先程ご子息を連れ去った犯人が自首してきました。現在、常磐署にて取り調べ中とのことです」

「息子たちは?」

 優作は悲痛な表情で井上に尋ねた。


ハル(・・)君は命に別状はないようです。現在、神楽病院にて処置中とのことです……」


「ナツは? ねえ、刑事さんナツはっ!」


 美雨は俯く井上の胸倉に掴みかかった。すると彼は顔を歪ませながら「残念ですが……」と、言葉を詰まらせた。


 優作はそんな刑事を呆然と見つめた。浜崎は額に両手をあて、声なき叫び声をあげる。そして美雨は、まるでマリオネットの操り糸が切れたように膝から崩れ落ちた。その表情は抜け殻のように、どこまでも空洞だった。




 自首してきた犯人は、近所に住む中学一年生の少年だった。礼儀正しく誰に対しても分け隔てなく優しい。校内でも品行方正を地でいくような優等生だった、と当時の担任はいった。現に双子たちも少年にとても懐いていたという。近隣住民たちはそんな彼が殺人を犯したことに驚愕した。


 被害者の恩田ナツは、少年宅の地下室で発見された。死因は絞殺だった。彼は小さなベットに寝かされ、まるで眠っているようだったという。

 一方、保護された恩田ハルは精神的なショックが大きく、発見された当時はまるで抜け殻のような状態だったそうだ。現場に駆け付けた捜査関係者によると、ハルは動かなくなった弟の亡骸を、救助が来るまでの数時間ぼんやりと見つめていたらしい。


「あの状況じゃあ、誰だってああなる……」


 捜査関係者の一人が、知り合いの記者に愚痴った。その記者の父親が浜崎と旧知の仲だったため、彼も事件の全貌を知ったそうだ。

 中学生の少年が幼児を殺害――マスコミ連中が挙って群がりそうな事件であったが、以外にも彼らの反応は薄かった。その理由の一つに加害者の父親が、各方面のお歴々と太いパイプで繋がっていた為だ。要するに ”出来る限り穏便に” ということだったらしい。


 そしてもう一つの理由は時と同じくして、少年数人によるホームレス連続殺人事件が起こっていた。部数を伸ばす記事こそが真実――幼児殺害事件は静かに世間から忘れ去られていった。


 事件から二十日余りたった頃、恩田美雨は虚ろな表情を浮かべていた。葬儀、そして初七日も終わり、誰もが区切ることの出来ない一つの区切りを、無理やり行おうとしていた。だが美雨だけは固くなにその行為を認めなかった。そして彼女は自分を責め続け急速に精神を病んでいった。


「なんで寝ちゃったんだろう……」


 美雨は狂ったように何度もそういい続けた。そして数日後、事件は起こった。彼女は自宅で夫と息子を巻き込み、無理心中を図ったのだ。包丁を手に取り息子に駆け寄る美雨――ハルはそんな彼女から逃げるわけでもなく、空洞な瞳でぼんやりと眺めていたという。


 美雨が包丁を振り上げる、間一髪で優作が息子を庇った。だがその代わりに彼の腹部には振り下ろされた包丁が深くめり込んでいた。その時だった、偶然にも恩田家を訪れた浜崎が美雨の凶行を止め、ハルは無傷ですんだ。


 浜崎はすぐさま消防に連絡、程なくして救急車が到着し優作を搬送した。それから2時間後、医師の賢明な努力も虚しく優作は病院で息を引き取った。


 その後、美雨は一時的に精神病院へと収容されることになった。そして数週間後、病室で首をくくっている彼女が発見された。第一発見者は母親の面会に来ていたハルと、叔父である敦夫だった。

 母親の死を目の当たりにしても、ハルは涙一つ流さなかったという。不審に思った敦夫は彼を精神科へと連れて行った。診断の結果は失感情症だった。そんな状態で刑事たちの聴取を受けることは、どう考えても不可能だった。


 一方、犯人の少年は取り調べに対し一貫して、犯行は自分ではなく ”ピピポロ族のメイがやったんだ!” と、いい続けた。それどころか自分は彼の犯行を止めようとした、と声を荒げるほどだった。その光景は誰が見ても、精神を病んでいる人間のそれであった。


 結局、犯人の少年は法に守られ、刑事処罰に問われることはなかった。そして精神鑑定の結果、裁判所の下した結果は医療少年院への送致となった。

 一方、ハルは叔父の敦夫が引き取ることになった。身寄りといえば彼以外にいなかった、ということもあるが、昔から双子たちが彼に懐いていたということが一番大きかったそうだ。


 敦夫は弁護士の友人に相談し色々と考えたすえ、ハルを養子として迎えることにした。これからの生活、そして様々な手続き上の問題を考えると、それが最善だと判断した為だった。息苦しいまでに暑かったその夏、少年は幼児を殺害し、そしてその片割れは全てを失った。


「これが俺の知ってる全てだ」


 浜崎は話し終えると小夜に顔を向けた。すると途端に彼は深く溜め息を漏らした。


「彼ね……いつも同じお弁当を二つ買うんです」小夜は独り言のように呟くと、小さく微笑みを浮かべた。「バカみたいに、毎回必ず同じ物を二つ……」


 小夜の言葉に浜崎は俯きながら口を真一文字にした。


「どうせなら違うもにすればいいのに……私が何気なくそういったとき、彼は冷たい眼差しを向けながらこういいました」小夜は静かに瞼を閉じた。「同じゃなきゃダメなんだっ! って」


 奥の和室からは、文子のすすり泣きが聞こえてきた。


「群青色のビー玉、知ってますか?」


「ああ、坊主たちの宝物だろ……」


 小夜の問いかけに浜崎は頷きながら答えた。その表情は苦悶に満ちている。


 その大切な宝物を取り返すために、血塗れになりながらナイフを握り続けた、彼……。

 ”12年もかかったけど、やっと約束が果たせるよ” と、寂しそうに呟いた、彼……。

 いつも一人で、頑なに人と関わろうとしなかった、彼……。

 笑うことを罪悪とでも思っているかのように、滅多に笑顔を見せない、彼……。

 夏休みの思い出であろう、ラジオ体操第一を懐かしそうに聞く、彼……。

 大切な人たちをいっぺんに失った、彼……。

 夕暮れの帰り道 ”僕にトラウマなんてないよ” と自嘲するように微笑んだ、彼……。


「嘘つき……」小夜は俯きながら溜め息を漏らした。「ほんと……あなたには泣かされっ放しだよ」


 彼女はボロボロと涙を流しながら小さく呟いた。その涙はいつまでも枯れることはなかった。

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