第二十三話「小さな不安」
週末の風俗街は時間的なこともあり、人通りはまばらだった。だが若い女が一人でこの辺りをうろつくのは、多少の違和感がある。ましてや目立つ容姿をしていれば、なおのことだ。
小夜は短く息を吐くと、足早に目的のビルへと歩みを進めた。どうして彼女がこのような場所にいるのか? きっかけは昨日の鈴木との会話から始まった。
その日、小夜は担任の菅原から放課後に職員室へ来るように、と呼び出しを受けていた。彼女は呼び出しの理由をあれこれ考えながら、職員室へと歩みを進めた。一方、如月は何か用があるとかで、そんな小夜を残し一足先に下校していた。
職員室に入ると、鈴木の姿が小夜の目に飛び込んできた。どうやら部活の顧問とミーティングをしているようだ。
それにしても、相変わらず取り巻き連中が多いな……。小夜はそんなことを思いつつ担任のもとへと向かった。
菅原からの話は要約するとこうだ。クラスで孤立していた如月――そんな彼と最近仲良くしている小夜に、担任としてお礼がいいたかった、という間の抜けたものだった。
どうやら彼女はクラスで孤立している可哀そうな如月に、小夜が気を使って仲良くしてあげている、と思ってるらしい。面倒だった為、小夜は呆れつつ菅原に話を合わせた。
程なくして担任からの無駄話を聞き終えた彼女は、軽く頭をさげ職員室をあとにした。すると廊下で鈴木が一人佇んでいる姿が目に飛び込んできた。小夜は当然のように、無視をして彼の横を通り過ぎてゆく。
「お、おい……」
「何?」
小夜が冷めた眼差しを鈴木に向けると、彼は所在なさ気に俯いた。
「い、いや……あのさ――」
「あんたよく私に話しかけられるわね。一体どういう神経してるわけ?」
「ご、ごめん……でも謝りたくて」
「謝って済むと思ってんの?」
小夜は学校では滅多に見せない、冷淡な表情を浮かべた。
「あんた、仲間使って私に何しようとしたか分ってる? 如月君はどうか知んないけど、私は絶対にあんたを許さないから」
「そ、そうだよな……」
「なら、もう私の前に二度と現れないで」
「分った……」鈴木は力なく頷いた。「こないだ如月にも似たようなこといわれたよ」
「へえ、謝ったんだ彼に?」
「いいや、出来なかった……」
「相変わらずプライドだけは高いわね。で、彼と何を話したわけ?」
「どうして俺を退学にしなかったのか、それがどうしても聞きたくて……」
「それで彼は何て?」
「”逆恨みされて厄介なことになるのが嫌だったから” 最初っからお前なんか眼中にない――そういわれてる感じがしたよ……」
「そう……」
この男がしたことは到底許されるものじゃない。でもその原因を作ったのは私だ。彼を父の代用品として利用した。そして皆の前でコケにしてプライドを傷つけた。私にも責任がある……。小夜はそう思いつつ彼に背を向けた。
「お、おい……」
「何?」
「如月って……」
「如月君が何?」
「如月って、どっか悪いのか?」
「どっか悪いって、どういう意味?」
小夜は振り返ると、鈴木に怪訝な顔を向けた。
「それが――」
鈴木の話では先日街中を当てもなくぶらついていると、偶然に如月の姿を見かけたという。場所はあの雨の日に彼とすれ違った、風俗通りに程近いとあるビルだった。
如月はそのビルの一階にある調剤薬局から、ビニール袋をぶら提げて出てきたという。何となく気になった鈴木は、ビルの中に入り各階のテナントを調べたそうだ。すると5階にSクリニックという、心療内科が入っていることに気付いた。
「心療内科?」
「ああ。そこに通ってるのかまでは、知らないけど……」
「ねえ、そのこと誰かにいった?」
「いいや、まだ誰にも――」
「じゃあ、絶対誰にもいわないで。いいっ、分かった?」
「ああ、分かったよ……」
こういった理由で、小夜はこの風俗街に足を踏み入れていた。鈴木のいった通りそのSクリニックに彼が通ってる、という根拠はない。だがあのナイフの時の一件といい、彼女を不安にさせる要因は多々思い浮かべられた。
程なくいて目的のビルに到着した。見上げるとピンクの電飾に白抜き文字でSクリニック、と書かれている看板があった。どう見ても普通の医院には見えない……。小夜は心の中で呟いた。
エレベーターに乗り込み5階のボタンを押す。フロアを少し歩いた所で、Sクリニックと書かれた扉が目に入ってきた。扉の中央はガラスだったが、スリガラス加工が施されているため、外から中の様子は窺えない。
小夜は軽く深呼吸すると、ゆっくりとドアの取っ手をスライドさせた。中に入ると外の看板とは対照的な、白を基調とした清潔感のある空間が広がっていた。幸いなことに患者は誰もいない。
「ご予約のかたですか?」
小夜が所在なさ気にしていると、受付の女性が声をかけてきた。
「あっ、いいえ」
「初診の方ですね? では保険証の方を――」
「私、診療にきたんじゃないんです」
小夜がそういうと、受付の女性は怪訝な表情を浮かべた。
「ではどのような御用で?」
「如月ハルっていう男の子、ここに通ってませんか?」
「申し訳ありませんが、そのようなことは一切お話しできません」
取りつく島もなく、受付の女性は答えた。だが小夜は諦めることなく、さらに食い下がる。
「じゃあ、先生に合わせてもらえませんか? お願いしますっ!」
「先生は診療中です」
「じゃあ、それが終わるまで待ちます」
「ここで待たれても困ります。どうかお帰りください」
「お願いしますっ、先生に合わせてくださいっ!」
小夜は大声で叫んだ。丁度その時だった、奥にある部屋のドアがゆっくりと開き、中から一人の女性が現れた。
「琴音さん……」
「あらっ、小夜ちゃん」
「先生、お知り合いですか?」
「うん、ちょっとね」琴音は受付の女性に微笑みかけた。「それで、ここにはどんな用件で? といってもだいたい予想はつくけど」
「如月君のことです」
「だろうね……いいわ、中に入って」
琴音は納得するように頷くと、小夜をカウンセリングルームへと招き入れた。カウンセリングルームは待合室と同様に、シンプルながら清潔感溢れる空間だった。琴音に促されるまま、小夜は黒革のチェアに腰を下ろした。すると琴音は奥の部屋へと姿を消し、程なくしてマグカップを二つ持って戻ってきた。
「砂糖もミルクもないけど平気?」
「ええ、大丈夫です」
小夜は礼をいってマグカップを受け取った。
「ここのことは誰に聞いたの? まさかハル君からじゃないんでしょ」
「知り合いに……」
「じゃあ、あの子はここにあなたが来ているっていうことは知らないわけね?」
「……はい」
「そう。それで、あなたはどうしてここへ?」
「心配で……琴音さん、彼どこか悪いんですか?」
「いえない、守秘義務があるからね。でも安心なさい。あなたが心配するような、そんな深刻な病状じゃないから」
「ほんとですか?」
「ええ。でも私がいえるのはここまでよ」
琴音はきつい眼差しを小夜に向けた。医師が患者のプライバシーを守るのは当然だ。それは小夜にも分っていた。自分の考えなしな行動に彼女は改めて後悔を覚えた。
「それにしても、あなたも随分と無鉄砲な子ね……そんなにハル君のことが大切?」
「最初は暇つぶしの遊びでした。でも短い期間に色々あって……」
「ふうん、色々ねえ……あっ、そうだ、学校でのあの子ってどんな感じ?」
琴音は煙草に手を伸ばすと、愛用のジッポライターで火をつけた。
「話さないんですか? そいうこと」
「聞いてもあんまり教えてくんないのよ。あの子、ケチだから」
「そうだなあ……」
小夜は文庫本に目を落とす如月の姿を思い浮かべた。
「普段はいつも本を読んでますね」
「読書か……あとは?」
「あとは、よく窓の外を眺めてます」
「ああ、それは知ってる。ここでもよくやるから。私の話そっちのけでね」
「はははっ、そうなんだ」
小夜は屈託なく笑った。そしてすぐにその笑みを消すと、彼女は伏し目がちにこう続けた。
「あとは……私たちが話しかけない限りはだんまりですね」
「そっか……こんな美少女が近くにいるっていうのに、ほんと何やってんだか」
琴音は深く吸い込んだ煙を吐きながら、溜め息交じりで灰皿に煙草を押しつけた。
「……ほんとですよ」
小夜が自嘲したような笑みを浮かべると、カウンセリングルームに沈黙が訪れた。すると程なくして、琴音が場の空気を変えるように、おどけながら口を開いた。
「あっ、そうだっ! 面白いこと教えてあげようか――」
琴音はそういうと如月が地下鉄などでよくやる、広告の文字遊びゲームのことを小夜に話した。
「今度、一緒に電車に乗ったとき見ててみなさい。絶対に広告ガン見してるから」
「ああ、そういわれればこないだも……」
小夜は以前、如月と電車に乗った時のことを思い起こした。確かに彼は琴音さんのいう通り、中刷り広告を親の仇のように見つめていたっけ。その真剣な表情を見ていると、彼に話しかけるという気が失せた。多分、何かに集中しているのだろう、とその時は思った。それなら静かに彼の横顔でも眺めていよう、と。
「ったく一人で何やってんのよ。こんな可愛い女の子をほったらかしにして」
「同感です……」
小夜は先程と同様に、自嘲気味に微笑んだ。その後も二人の他愛もないおしゃべりは続いた。
帰り際、琴音は「あの子をよろしくね」といって、小夜に微笑みかけた。それはどこか子供を心配する母親のようだな、と小夜には感じた。
彼があのクリニックに通っていることをいわないのだから、私も知らないふりをしよう。誰でも知られたくないことの、一つや二つはあるものだ。何より主治医が心配ない、といってるんだから、自分が思い悩んでもしょうがないことだ。小夜はそう思いながら足早に大和駅へと歩みを進めた。




