第十九話「昼間のカラオケと不安定な彼女」
「ねえ、まだ歌うの? もう15曲目だよ……」
優香は選曲に夢中の小夜の顔を覗き込んだ。
場所は三幻寺駅から程近いカラオケボックス。本日、学校をさぼった彼女たちは昼間からワインを傾けながら、カラオケに興じていた。とはいっても歌っているのは小夜のみで、優香はそんな彼女の歌を黙って聞いている、といった感じであった。
「よし、次は懐メロでいこうっ!」
小夜が選曲したのは、松任谷由実の【リフレインが叫んでる】だった。程なくしてイントロが流れると、彼女はソファーから腰を上げ歌いだした。だがサビの辺りで小夜は途端に歌うのを止めてしまう。そしてソファーに腰を下ろすと、ぼんやりとマイクを見つめた。
犯人を前にして彼女が死を覚悟したあの時、最後に浮かんできたのは父ではなく如月の顔だった。小夜はそのことに驚きを覚えると同時に酷く動揺した。
昨日の警察での聴取の間ずっと口をつぐんでいたのは、事件に巻き込まれたショックからではなく、そのことが大きく影響していた。
どうしよう……どうやら錯覚でも依存でもなく、今度は本当に彼のことを好きになってしまったらしい。彼に出会うまで世界は自分と父で出来ていた。他人がどうなろうと一切関係なかった。
だけど彼と一緒にいるうちに、いつしか人の痛みを感じるようになった。昨日、優香を助けようとしたのも、そのことが大きく起因している。
あの頃、母の浮気が原因で父は酷く落ち込んでいた。そんな父の姿を見るのがとても辛かった。可哀そうだった。心から同情した……そして私は錯覚したのだ、自分は父を愛していると。何てことはない、私は最初から間違えてたんだ……。
「ねえ、どうしたの? 小夜ちゃん」
「ごめんごめん、ちょっとぼーっとしてた……そんなことよりあんたも歌いなよ」
小夜がマイクを差し出すと、優香は恥かしそうに首を横に振った。
「いいよ。私、下手クソだもん」
「気にしない、気にしない。どうせ二人きりなんだから」
小夜は豪快にワイングラスを傾けると、優香は苦笑いを浮かべた。
「でも昨日はほんと驚いたよ。だって急に小夜ちゃんが出てくるんだもん」
「それをいうなら驚いたのはこっちよ。だってあんたいきなり変質者に殺されかけてるし」
「はははっ、確かにそうだよね……でも昨日のことは思い出すだけでも怖いけど、そのおかげで小夜ちゃんとこうやってまた一緒に遊べるようになったんだから、それだけはあの犯人に感謝しなきゃだね」
「何バカなこといってんの……」
自嘲した笑みを浮かべた優香の横顔を見ると、途端に胸の奥がズキンと痛んだ。こんな私のどこがいいのよ……。
「あっ、感謝といえば私あの人にお礼いってなかった」
「あの人?……ああ、如月君?」
「そう、如月さんっ! あの人、ほんと凄いよね。だってあの頭のおかしい犯人から、あっという間に私たちを助けちゃうんだもん」
「そ、そうね……」
恐らく彼がいなければ、今頃二人とも只では済まなかっただろう。優香のいいぐさじゃないけど、ほんとに大したもんだわ……。小夜は黒縁メガネの不機嫌そうな顔を思い浮かべた。
「ねえ、あの人って彼女とかいるのかなあ?」
「彼女? いない、いない。皆無よ」
「そうなんだ……」
「何よ、もしかして好きになっちゃったの?」
「そういう訳じゃないけど……でもちゃんとお礼はいいたいかな」
「そっか、じゃあ今度セッティングするよ」
「ほんとっ?」
瞳を輝かせながら喜ぶ優香に、小夜はやさしい微笑みで応えた。そしてワイングラスに手を伸ばすと、ボルドー色の液体を静かに見つめた。
父との関係。彼とのこれから。そして自分の気持ち。考えなきゃいけないことは山ほどあった。だけどそのどれもが確かな答えを出す自信はなかった。取りあえず今は何も考えられない……。小夜はそう心の中で呟くと、テーブルの上に置いていたマイクに手を伸ばした。
「はい、休憩は終わり。さあ、二回戦行くわよっ!」
「えっ、まだ歌うの?」
優香の問いかけに彼女は微笑みながら大きく頷いた。
翌日、小夜は普段より少し早く教室へと向かった。するとそこには、如月がいつものように一人きりで文庫本に目を落す姿があった。
「おはよう」
小夜が普段通り声をかけると、如月は文庫本に目を落としたまま無愛想に応えた。
どうやら日曜日のことは怒っていないようだ……。彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「あ、あのさあ……一昨日は助けてくれてありがとう」
「ああいうことは、もうごめんだよ」
「うん……」
小夜は頷きながら如月の向かいに腰を下ろした。そして彼が読んでいる本に目を向ける。それは聞いたこともないタイトルの小説だったが、作者名から海外の物だということが分かった。
「今日は随分と静かだな」
小夜がぼんやりと小説の表紙を眺めていると、如月が静かに口を開いた。
「そ、そうかな」
「一昨日の件がまだ尾を引いてるのかい?」
「ううん、そういう訳じゃないけど……」
「そうか、ならいいけど」
如月は納得すると、いつものように文庫本に視線を戻した。すると二人きりの教室に沈黙が訪れた。
分っていたことだけど、やっぱり今までとはちょっと違う。意識し過ぎて会話が続かない……。小夜は心の中で溜め息を漏らした。そして以前として続く沈黙に間が持たなくなった彼女は、スマートフォンで適当なサイトを開いた。たまたま開いたページは、今日の運勢カウントダウンと題されたベタなサイトだった。
小夜は恋愛運の項目をタップした。すると乙女チックなページが開く。因みに12月生まれの彼女の恋愛運は最下位だった。小夜は再度、溜め息を漏らした。丁度その時だった、教室のドアが勢いよく開いた。現れたのは朝練を終えた早苗たちだった。
「おっすー」
早苗は片手を上げていうと小夜の隣に腰を下ろした。そして「何見てんのさ?」と、いって彼女のスマートフォンを覗き込んだ。
「……似合わねえ」
「うっせえ」
「どうよ、一日休んで少しは落ち着いた?」
小夜が不機嫌そうに唇を尖らせると、早苗はいつものように優しい言葉をかけた。
「う、うん……まあね」
「そんで、ダーリンにはお礼はいったの?」
「まあ、一応は……」
小夜はスマートフォンに目を向けながら曖昧に答えた。
「ふうん。ねえ、小夜にあのこといっていい?」
早苗は相変わらず、文庫本に目を落したままの如月に顔を向けた。
「あのことって?」
彼が聞き返すと早苗は口元を緩めながら、自身の頬っぺたをさした。すると如月は彼女の意図が伝わったらしく、興味なさげに頷いた。
「あのことって何よ?」
「実はね――」
早苗はニヤけた笑みを浮かべながら、有紀が事件のせいでテンパって何故か酒を飲んだこと、そして酔っ払い如月の頬っぺたにキスをしたこと、そして挙句の果てに兄に抱えられてタクシーで帰宅したことを彼女に伝えた。
「まあ、キスっていっても頬っぺただからさ、そんな怖い顔しなさんな」
「別にキスくらいで怒んないわよ……」
小夜は瞼を閉じながら静かに呟いた。
自分のせいでいろんな人たちに心配をかけた、そのことが何より腹立たしかった……。今まで父親以外の人間に興味がなかった彼女にとっては、これは初めての感情だった。
「まあ、いろんな人があんたのことを気にかけてくれてる、ってことよ。この幸せ者がっ!」
「そうだね」
小夜がそう呟いた時、担任の菅原が「おはよう」と、いって教室に入ってきた。すると各々は自分の席へと足早に戻ってゆく。
いろんな人か……その中に彼は含まれているのだろうか? 小夜は振り返り如月に目を向けた。すると彼は文庫本から顔を上げ、窓の外に映る曇り空をぼんやりと眺めていた。いつもの無表情で……。




