第六話 大人の女性は危険な香り
ある放課後のこと。
廊下でクラスメートの女子とすれ違おうとして、どんくさいところを見せてしまった。
こっちが右に譲ろうとしたら、彼女も向かって右側に譲ろうとする。
じゃあ左に譲ろうとしたら、あちらも向かって左に譲ろうとする。
おた、おたおたおた、おた。
わかっちゃいるけど毎度やってしまう「あるある」で。
だいたいこういう時は舌打ちされてきたものだけど、笑ってくれたのは幸いであった。
「じゃあね、また明日」
ええ子や~。おっちゃん泣けてくるで~。
「ですね」
声のするほうに振り向くと。
いた。
窓際の、低いロッカーの上に正座して。30cmサイズの現代妖怪が。
「真野と申します。……真野○×さ」
最初に自分から名乗る妖怪は初めてだ。礼儀正しいなあ。
少し消え入りそうな声の、和服美人。
刑事もののドラマでクラブのオーナーママでもやっていそうな、艶やかな大人の女性だった。
「さ、ユウタさんも。そろそろお帰りの時間でしょう?」
こんな口を聞かれたのは初めてで、なんか間の悪さにもじもじしてしまったけど。
素敵な女性は、男を紳士にするのである。
「あの、良かったらバッグの中にどうぞ。歩幅が違いすぎますし」
和装美人が、くすっと笑った。
「お持ち帰られてしまうのかしら」
「い、いえ!決してそのような意味では!」
「冗談です。優しいんですね?お言葉に甘えます」
揺らさないように、ゆったりと歩く通学路。
いつもとは景色が違って見えた。
「真野さんは、なんの妖怪なんですか?」
「さきほどのような奥床しい……いえ、言葉を飾りすぎるのも良くありませんね。ちょっと気まずい状況を司る現代妖怪なんです」
なるほどなー。あれ?でも、それなら。
「現代と言うより、昔の妖怪なんじゃ?」
「あら、そんなにおばあちゃんに見えます?」
「そんなことは!……そうじゃなくて、奥床しさみたいなものって、昔の方が。ほら、江戸しぐさとか、そんな話もありますし」
慌てふためき否定する俺から視線を逸らした真野さん。
気まずくて間の悪い姿をさらす男性を見るべきではない、そういう配慮だって理解できた。
男を立てるって、きっとこういうことなんだと思ったら。
ちょっと横を向いているうなじに目を吸い寄せられている自分が、情けなくなった。
「ユウタさん?」
うわっ!お見通しでしたか!
「江戸しぐさなんて、おかしな人がおかしなことを言い出しただけのことですよ?歴史はきちんと学ばなくては」
例えば先ほどの状況、江戸時代なら。
士農工商の身分制度があるから、武士は譲らない。
同じ身分の時でも男女なら、女性が道を譲る。
武士どうしなら、左側通行が「心得」なんだとか。
「右側通行すると、左腰に下げた刀の先端が、すれ違う時にぶつかってしまうでしょう?これは『鞘当て』という、とても失礼な行為なんですよ?」
湯気の向こうから、心地よい声で教えてくれる真野さん。
家に帰った俺は、なぜかわざわざ緑茶を入れてしまっていたのである。
「現代では、主に恋愛で使う言葉に変わってしまったのでしょう?素敵なうつろいだと思いません?」
真っ直ぐこちらに目を合わせて、微笑む真野さん。
その不意打ちはヤバイ。もう何か、いろいろとヤバイ。
思わず逸らした目に、和服の柄が……いや、和服に包まれた体のラインが飛び込んできて。
真野さんの呼吸のたびに小さく律動する「からだ」を、強烈に意識させられた。
全然露出してないのに、なんで?
いや、これが大人の工口スってヤツか。
落ち着け俺!相手は妖怪だ!30cmだ!
「そ!そうですね!真野さんは現代日本の妖怪だって、よく分かりました!」
すけべ心丸出しで妖怪たちを見てしまうくせに、押されると弱い。
俺はどれだけヘタレなんだ……と、ため息をついたその時。
真野さんが、すっと背筋を伸ばした。
ご、ごめんなさい!やましい気持ちなどありませn……
「ええ。私は日本にしか生息していない現代妖怪です」
凛々しい顔も素敵ですけれど……いや、そうじゃない。
そんなもんじゃすまされない雰囲気が漂っていた。
「あれ~?珍しいじゃん!わるさ、来てたんだ。何、また教育?ダメだよ、わるさは歪みきってるんだから」
リモ子?
「わるさ」って、真野さんの名前?それに歪んでる?
真野さんが、和服の裾を手で押さえつつ、どしんと足踏みをした。
サイコロ転がす博徒のように。
「良いですか?狭い道ですれ違う時、反射的に『譲ってあげよう』なんて行動を取る方は日本人だけです!」
はい?
「欧米人は絶対に譲ろうとしません!あの白……いえ、アジアだって!○○……×××……最近では日本人も、ああした状況で間の悪さや照れくささを感じるどころか、相手が一方的に悪いと思うようになって!嘆かわしい!」
ちょっと!文字にできないことを口にしないで!
「わるさはね、絶滅危惧種だから。被害妄想こじらせちゃってんの。外国にも似たような妖怪はいるらしいんだけど、『そいつらと私は違います!』って、怒るんだよねえ。とにかく、ユウタのおかげでしばらくは元気でいられるね!」
「だから言っただろ、童貞。女に幻想を持つなって」
ち○毛散らし!女性全体がそうであるかのように言うのはやめなさい!
いま君は非常に問題のある発言をしている!訂正を求める!
「あーはい、わかりました~。訂正しますぅ~」
「気遣いができる男性、素敵だと思います。しばらくお世話になりますね、ユウタさん?」
ネトウヨ、いやそれどころか。
はっきり差別主義者の妖怪にまで取り憑かれてしまったらしい。
俺何か悪いことしたかなあ。
ああごめんなさい、はずみさん!
恨めしげに見ないで!胸を隠さなくて良いから!