東へ進め!辺境伯夫人、夜の庭で。
勉強会が終わると、 用意した部屋へと少女達を案内するのは侍女に任せて辺境伯夫人は一人静かに庭の散策へ出た。
初秋の庭は満天の夜空から静寂が降り注ぎ、遠く虫の音が聞こえるばかりで他に物音は無い。黄金の月は細く、足元の見えない暗い庭をエルディナは迷いなく歩く。
嫁いで長く、住み慣れた庭。この庭はエルディナの宝箱であり、自慢であり、癒し。この庭で夜中に一人、泣いたり考え事に没頭しながら過ごした年月の分だけ愛着も深い。
「迷い込んだ蝶は、翅を休めた後にどこまで行くのかしらねぇ…」
まだ硬い蕾を指先で慈しむように撫で、ぽつりと呟く。
「ふふふ。あの子達なら…風に乗って海の向こうまで行ったとしても驚かないわ。でも、置いて行かれる蕾としてはヤキモキどころではないわよねぇ?」
東隣の国は海に面しており、その海の東の先には『真ん中の島』がある。更に東に進めば『東大陸』がある…らしい。
誰かがこの世界を空の高い高い場所から見下ろしたのかと首を傾げた覚えが未だに鮮明に残る、幼少期の懐かしい記憶。その記憶によれば、エルディナの住まう此処は『西大陸』と呼ばれている。
東大陸と西大陸、その中央に浮かぶ島。それらは広げた紙の上に、インクを塗った右手と左手を少し離してペタペタと捺した時に両手の間に雫を垂らしてしまったように見える。…そんな感想も覚えており、その時から既に何十年もの歳月が過ぎている事にエルディナは感慨を覚える。
尤も、その『地図』は御伽噺の一種だと直後に教わった。
エルディナの母方の祖父母の家に伝わる、壮大なスケールの神話物語。先祖の誰かが絵心があったようで、その地図の他にも何枚か挿絵が入った手製の本が代々受け継がれていた。
残念ながら、エルディナの兄が実家を受け継いで直ぐに実家もろともに焼失してしまったので現存はしていない。エルディナの記憶に残るのみで、こうしてこの庭でそれをぼんやりと思い出すのも久方ぶりの事だ。
「ふふふ。東の海の先には、何があるのかしらねぇ…」
「エルディナ、そろそろ冷えるのではないか?」
背後から夫が声を掛けてきた。その手には、この時期になるとエルディナが愛用しているショールがある。
「ありがとうございます、あなた」
うむ、とだけ返す夫の傍らへ寄り添う。武骨で厳めし過ぎる感も否めない夫だが、これでも結婚当初を思えば随分と丸くなった。
夫婦喧嘩の末にエルディナが庭でメソメソしていると、こうして迎えに来てくれるようになったのはいつ頃からだっただろうか。…子供が生まれてからだった気がする。
孫が生まれてからは、夫婦喧嘩をせずともエルディナが夜に庭をふらふらしていると頃合を見て声を掛けてくれるようになった。
「お嬢さん方の『勉強会』とやらはどうだった?」
夫婦の寝室へ向かう廊下で尋ねられ、少女達やクルスの様子について答える。
「そうか。…ふむ。我が家でひっそりと行うだけであれば構わん。どうやらお嬢さん方に執着していた件のご令嬢も『それどころではない状態』のようだしな。ああ、その夜会だが…行くか?」
「えっ?」
「夜会に、儂とお前で参加するのも悪くないかと思ってな。気乗りしないのであれば、行かずとも構わんが」
夫の言う『行かなくても構わん夜会』とは、第三王子殿下の婚約者が確定した事を祝う御披露目の夜会。
「王太子の見極めがてら、宰相に嫌みの一つも言ってやろうかと思ってな」
辺境伯夫妻自ら出向くとなれば、王城は大騒ぎになる。政治的な意味や影響は大きいが、それをどう扱うかは王城次第。
辺境伯としては王太子が『王位継承に向けた対外的な動き』を見せたので、その『見極め』に出向くだけだ。それがたまたま第三王子の婚約者確定云々というだけ。
別の機会に訪れても問題ないのだが、辺境伯の予定が夜会の頃には余裕があるので『じゃあ、行くか?』となったようだ。
「見極めをマルスに託しても良いが、たまにはお前と水入らずの物見遊山も悪くなかろう。しばらくの間ならば返事は待つ故、今夜はもう寝るぞ」
即答を避けるようにそそくさとベッドに入る夫の様子に疑問を抱きつつ、自らもベッドへ入るエルディナ。
第三王子殿下の確定婚約者御披露目夜会。その頃の辺境地での大きな予定は…。たまには水入らず……物見遊山…。
「あら」
思わず声を上げたが、まだ寝入っていない筈の夫は何も言わない。
その御披露目夜会から数日後には『エルディナの誕生日』だ。『たまにはお前と水入らずの物見遊山』とは、なんとも夫らしい言い回しだとエルディナの頬が緩む。
たまにはも何も、二人きりの遠出なんてこれまであったかしら?と、弾む心でウキウキと考えるエルディナの脳裏に閃光が瞬いた。
「まぁ!!」
今度は声を上げるだけに留まらず、ガバッと起き上がったエルディナ。
「何事だ!エルディナ!?」
「あなた、行きますわ!」
どこに、と言いかけて夜会の事だと察した辺境伯が脱力。エルディナはその夜会が己の誕生日に近いだけではなく、結婚の時の『約束』なのだと気づいて上機嫌。
【済まない、エルディナ。いつか、もっと豪華で盛大な旅行に連れて行ってやるからな】
【いいえ、私の旦那様。私はこうして旦那様と一緒に居られれば幸せなのです】
懐かしい記憶が蘇る。新婚旅行は駆け足での王都観光、それも手続きや挨拶周りのついでだった。それを詫びる夫に、自分は新妻らしく恥じらいながら《お願い》をした。
【旦那様がうんとお年を召して、辺境伯領主のお仕事を子供や孫が受け継ぐ頃になっても私だけを妻として愛しく思ってくださっているならば。その時に、もう一度、今日と同じ場所へ連れて来てくださいませ】
思い出しながら、悶えるエルディナ。
【俺が爺になっても妻はエルディナだけだ。何度も言うが、あの娘連中とは本当に交流も面識も無いからな!……つまらない事を言うのは、俺の気持ちを疑う理由がまだあると見た。それについては今夜ゆっくりと話し合おうか】
あの頃は若かった…と、寝具を抱き締めてまだ悶えている。
【だが、その願いは気に入った。何十年先になるかは知らんが、俺が引退したらまた此処に二人で訪れよう】
エルディナ自身はすっかりと忘れていたあの《お願い》を、夫はしっかりと覚えていてくれたのだ。
あの日から随分と長い年月が過ぎた。
エルディナが21歳の時に跡継ぎとなる長男を授かり、その後も次男と三男を授かった。
末っ子長女は待望の女の子だったこともあり、夫の溺愛ぶりには皆で笑ったものだった。
長男が人形のように可愛らしいお嫁さんを貰った時は、夫と二人で嬉し泣きをしたものだ。
その後には次男がグレンディア家に婿入りして、メルディナが大騒動の末に嫁いで。
初孫が夭折した時は誰もが深い悲しみに沈みながらも、夫は涙を堪えて領地の為に前を向いて進み続けた。
夫の背中に隠れて泣いてばかりいた私を責めるどころか、俺の分も泣いてやっておいてくれ、と言ってくれた優しさがあったからこそ私やお嫁さんは立ち直れたのだと思う。
アルスの所に女の子が生まれて、メルディナは里帰りしないまま元気な男の子を生んだと聞いた。
それから、マルスとお嫁さんの間にエルディオンが生まれて、マリリオンが生まれた。
気がついたら沢山の孫達に恵まれていて、夫も私もすっかりと年老いた。お互いに髪も白くなったし、シミも皺も数え切れない。
アルスの所の一番上の女の子はもう嫁いでいるから、私達にひ孫が生まれるのはそう遠くないと思う。
そんな歳になっても、夫は私だけを妻だと愛しく思ってくれている。
私は、なんて幸せ者なのでしょう。




