0.1 空音 凛と日常風景
みなさんはアカペラというものをご存じだろうか?
バンドや合唱などに比べると、世間にはあまりなじみのない音楽活動かもしれない。
アカペラというのは、無伴奏で合奏や重奏を行う音楽形態で……要するに『楽器を使わない、声だけのバンド』のことだ。五、六人程度でグループを組んで、リード(ヴォーカル)、コーラス、ベース、ボイスパーカッション(ドラム)のパートに分かれ、専用の楽譜を元に声だけで一つの曲を作り上げる。
俺こと紬伊 小絵は、この藍花学園の弱小アカペラ部でベースパートを担当している。なぜベースなのかは……声が低いからだ。
「ううん……納得いかないぃ……!」
そして、いま部室の机にべたーと身体を張りつけながら唸り声など上げている彼女が、我がアカペラ部の部長兼リードパートを担当している、空音 凛だ。凛の印象を一言で表すなら『元気な子犬』だろうか。小柄な体型に、溌剌とした雰囲気。肩まで伸びた長い髪をシュシュでポニーテールに結っており、彼女の感情の高ぶりと呼応するように時折ふるふると揺れていたりする。彼女は淡いピンク色の唇をむすっと尖らせながら、一枚のプリントとにらめっこしていた。
「ねえ、小絵! これ見てよーっ!」
「なんだ?」
どこか悔しそうな表情を浮かべながら、凛はプリントをこちらに付きつけてきた。どうやら今日返ってきた生物のテストの答案のようだった。目に入って来たのは赤いペンで書かれた数字……98点。人外の点数だった。
「今回こそ100点取れたと思ったのに……凡ミスしたんだよ! ビタミンって書くところをね、間違えてビタンミって書いちゃったの!」
彼女、空音 凛は一応名家のお嬢様である。専属の家庭教師などもついており、高点数を取ることは珍しいことではないのだが……大雑把な性格が幸いしミスをするため、100点だけは取ったことがないのだ。
「うー! ビタンミってなんじゃーい! うりゃー!」
感情的に両手を振り回して暴れまわる凛。学年成績は発表されてないので分からないが、クラス一位はいつも通り、混声のカナリアさんだった。混声合唱部とは少なからず因縁があるためか、凛としては負けるのは相当悔しいらしい。
「そうだ、小絵! 私に、2点分けてよ。いんさいだー取引よ! そしたら私も100点になるし!」
いや、無理だろ……。それにインサイダー取引ってそういう意味だっけ?
「もちろん対価は渡すわ。等価交換として私のお腹についた余分なお肉をあげよう!」
「全然等価になってねえぞ……。ん、てか、太ったのか……?」
「そ、そそそんなことないよ! 太ってないよ。全然太ってない。確かにちょっと体重増えてたけど……あれは体重計が壊れてただけなんだよ。地球の重力が強くなっただけだからね。そもそも駅前にできたスイーツ店が悪いの。限定販売の苺タルトが美味しすぎるのが悪いの。私、悪くない」
などとぶつぶつ言いながら目を逸らす凛。本人は気にしているようだが、……んーむ。見た目は全然変わっていないと思うが。むしろ今までが少しやせ過ぎていたくらいで、普通に良い体型なんじゃないだろうか?
「……って、そこ。なにしてるんだ」
気付くと凛はごそごそと俺の鞄をまさぐっていた。そして、俺のテストの答案用紙を引っ張り出してきた。
点数は……40点ジャスト。我ながらギリギリな立ち回りである。
「むむ、休み時間に隠してると思ったら……いい点数取れるようにあれだけ勉強教えてあげたのに。なんでそんなに低いかなあ……」
露骨にがっかりしてみせる彼女。確かに教えてもらったが……完全に右から左に受け流してたしなあ。大体この限られた青春のひと時に好きこのんで勉強とかしたくない。
「うー、やる気の無さがにじみ出てるし……。ご褒美とかあったほうがいいのかな。なら、次のテストで80点以上取ったら、私のお尻でむぎゅーとしてさしあげよう!」
「……む」
凛の……お尻か。ちらりと視線を腰のあたりまで落とす。
丸く、肉つきのいい、柔らかそうなお尻。殻を剥いたエビのような、弾力のある素晴らしい美尻だ。
うーむ、これを自由にできるというのなら、青春の一ページを割いてでも、一考の価値があるか。
「ってなんでそんな真剣そうな表情で考えてるの!? 冗談だからね!?」
「俺、お尻、大好き。お尻、マジ、たまらぬ」
「くっ……このお尻フェチめ! 女性の敵め、揉ませろとか言われる前に成敗してやるっ!」
「はい!? いきなり襲いかかってくるなって……!」
などと口で抵抗するも空しく、俺は強引に床に押し倒されてしまった。
「えーい! うるさいうるさいうるさいーっ! 私が間違ってビタンミって書いたのも体重計の針がぐいーんといつもより大きく回ったのもうちのお父さんの女装癖も全部小絵が悪いんだ!」
「関係なくないか!?」
小さな手でぽかぽかと叩いてくる凛。
私怨混ざりすぎだろ……てか、今凄くアウトな内容が含まれてなかったか?
とりあえず、興奮している凛をまあまあと宥めようと手を伸ばしたが……机に置いてあった音響用のコードが引っ掛かり、
「あっ!?」
「げ!?」
見事に俺たちの上にこぼれ落ち、なぜか二人一緒にぐるぐる巻きになってしまった。
「きゃ、きゃあ! 小絵に襲われたあああ!! 犯されるうう! 誰か助けてえええ!」
「犯さねえよ!? 事故だからな!? ああ、もう、ちょっと動くな。今解くから」
「動くなって言われたあああ! 何されるの!? 私何されちゃうの!? ……あ、お尻触られるんだああああ! 絶対触られるうううう!! 助けてええええ!!」
「いやだから触らねえからな!?」
「……ほ、ほんとに?」
「当然だろ。俺はお尻好きの変態だが、同時に気高き紳士でもあるのだよ。ほら、証拠にお尻の方意識向けてみろよ。俺の腕は全然反応してないだろ?」
だがしかし、俺の手は凛のお尻をタッチし、さすさすと愛でるように撫でているのだった。
「触ってるじゃない!!」
「しまった……完全に無意識だった……ッ!」
「最低っ! 叩いてやるっ!」
「へぷぅ!!」
お怒りの凛にぺちん、と平手でひっぱたかれた。
それと同時に、身体に絡まっていたコードがほどける。
「もうっ、隙を見せるとすぐこれなんだから! 変態!」
スカートをぺしぺしとはたき、頬を赤くしながら凛はぶつくさと呟いた。
「今度は……ちゃんと許可を取ってからやってね?」
「いや、もうやらねえし……」
なぜか艶めかしい表情を浮かべる凛に、苦笑いをする俺であった。
そうして、なんだかんだ、一段落したところで。
「さて、まだみんな来てないけど、基礎練習だけなら二人だけでもできるよね」
などと言いつつ、凛は壁に掛けられていた持ち運び用のキーボードを手にした。
どうやら発声練習を始めるつもりらしい。
うーむ。しかし、俺、今日は練習サボりたい気分なんだよなあ……。
……あ、そうだ!
「おいおい、何を言っているんだ、凛。俺たちはもうすでに基礎練習をやり終えているじゃないか」
「えっ?」
きょとんと目を丸くする凛。
「おいおい気付いてなかったのか? さっきまでのやりとりだよ、コードが絡まった時、凛はたくさん叫んだだろう? あれは実は、我が部伝統の発声練習だったんだよッ!」
「な、なんだってーっ!?」
「異常事態に陥ることで、普段使わない身体の筋肉を使い声を出す! お尻を揉まれたことで感情が高り、通常ではできない表現の練習をしていたのさ! だから俺は個人の趣味でお尻を揉んだのではない! 音楽の勉強のためにお尻を揉まざるを得なかったのだあああああ!!!」
「ななな、なんだってーっ!!?」
そうだったのか……と目をぱちくりさせている凛。
よし、信じてくれたか!
「いやあ、今日はたくさん練習したー。俺達マジで練習したわー。ってことで今からは一緒にゲームでもしようぜっ!」
「え……? で、でも、基礎練習だけじゃ足りないような……」
「そんなことないさ! ほら、ゲームマニアの妹から貸してもらったソフトがたくさんあるぞ! ほら、これは凛がやりたがってたヤツだろ?」
「おおお!? こ、これはブツテンドーから発表された幻の一作『法仏の森』じゃないっ!? さすが立花ちゃん、絶版になっていたのに発掘してきたんだ!?」
ソフトを見た瞬間、クソゲー好きの凛の目がぴかりと輝いた。
よし! これでもう練習とか眼中になくなった! 気が変わらないうちにさっさとゲームをしよう!
「さっそくブツテンドー69を出すぞ!」
「うんっ!」
にへへと笑みを浮かべる凛を置いて、俺は用意を開始する。テレビは部室のパソコンで代用するとして、ブツテンドー69はどこにあったっけ。たしか真面目な奏に見つからないように、この辺りに隠してあったはずだが……?
「あれ、小絵さん。何を探してるんですか?」
「ああ、奏か。あのさ、この辺りにブツテンドー69置いてなかったっけ?」
「それなら部活の邪魔になるので、あそこに置いておきましたよ」
「マジか! ありがとう!」
彼女の指さすほうを向く俺。
その白く細い指は、なぜか窓の外を指しており……。
その先には文化会共用のゴミ捨て場があって…………。
「俺のブツテンドおおおおおおおおおおおお!!!!!」
完全に廃棄フラグだった。
「喜んでもらえて嬉しいです。いらないものは置いておくと、かさばってどんどん場所を取りますしね。……さて、練習始めますよ。先日やった楽譜の三小節目から復習しましょうか。春のコンサートももう少しですし、どんどん詰め込んでいきますよ……って、あ、あれ? どうしたんですか、小絵さん? そんな涙目でうずくまって……?」
絶望の淵にたたずむ俺に、きょとんと首を傾げる彼女。
第一コーラス担当、水際 奏。
元混声合唱部のエースで、分けあってアカペラ部に転向してきた、絶対音感を持つ天才。
反面、生真面目で音楽一筋な思考回路を持つ彼女には、悪気は一切ないのであった。
。