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死神のつまみ食い      :約5000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/07/18

 夜、とある屋敷の寝室。男ははっと目を覚ました。何かの気配を感じたのだ。胸の奥をじわりと撫でられるような得体の知れない違和感。それは瞬く間に形を変え、寒気となって背筋を這い上がった。

 男は枕に頭をつけたままゆっくりと首を傾けた。


「……ひっ」


 すると思わず声を漏らした。部屋の隅に黒い塊があった。

 室内を満たす闇を掻き集め、無理やり人の形に押し込めたような不自然な影。それは畳を擦るように――一切の物音を立てることなく――じりじりとこちらへ近づいてきた。

 やがて、それが障子越しの月明かりに触れ、ぼんやりと輪郭を浮かび上がらせた。


「お前は……い、いや、あなたは……死神ですか?」


 男はゆっくりと上体を起こしながら震える声で問いかけた。

 黒いローブに包まれた身体。袖口から覗く手は青白く痩せ細っており、骨ばっているというより骨そのものが薄く皮をまとっているだけのようにも見えた。

 顔は深くかぶったフードの奥に沈み込み、輪郭すら判然としない。あるいは、もとより存在しないのかもしれない。そう思わせるほど、その奥は底知れぬ闇を湛えていた。

 人ではない、この世の理の外側にいる何かだった。男は本能でそれを悟っていた。そして、それがここへ現れた意味も理解していた。つまり――。

 男はごくりと唾を飲み込んだ。その音が体の中でやけに大きく響いた。


「……ああ」


 死神は低く応じた。喉を鳴らすような掠れた声だった。


「お、おお……。あ、あの……いったいどのようなご用件で……」


 男がおそるおそる訊ねると、死神はわずかに肩を揺らした。


「わかっているだろう。あんたを迎えに来たのさ」


「ひっ!」


 男は悲鳴じみた声を上げ、布団を蹴飛ばして飛び起きた。尻もちをつき、そのまま畳を擦るようにして後ずさる。

 死神は何も言わず静かに距離を詰めてきた。その黒い身体には刃先を向けられているような、ひやりとした圧迫感があり、男は喉のひくつきを抑えられなかった。

 男は溺れたように何度も唾を飲み込み、震える指で服を整えると、ぎこちなく正座した。


「あ、あの……その、大変素敵なお召し物で実に雰囲気があると申しますか……いや、とても風格がおありで、これはその……さすがは神というだけのお方であると、ひしひしと感じられますな……。いやあ、実にすごい……只者ではないと一目でわかりましたよ」


 男は引きつった笑みを浮かべ、言葉を並べ立てた。ほとんど考えもなくぺらぺらと継ぎ足すように、少しでも間を置けば歯ががちがちと鳴り、もし黙ればそのまま二度と喋れなくなるのではないか――そんな恐怖で頭は支配されていた。だから口を閉じることができなかった。

 死神はまた小さく肩を揺らした。


「ふふ、うれしいねえ、うれしいねえ……。褒められたのなんて初めてだよ」


「いやあ、私、人を見る目には少々自信がありましてな。あなた様は実に立派で聡明で気品があり……あっ、人ではございませんでしたか、これは失礼。はははは。あ、そうだ。お茶でもお淹れしましょう。茶菓子もございますよ。もらい物ですが、なかなかの品でして。どうぞ遠慮なさらずに、はははは……」


 死神の反応が思いのほか悪くなかったことにほっとし、男はほんの少しだけ余裕を取り戻した。頬の引きつりが幾分和らぎ、その分だけ口先が滑らかになった。


「口が達者だねえ」


「ははは、いやあ、昔から得意でして、なんて。ははは」


 男は愛想笑いを浮かべながら身振り手振りを交え、死神を褒め続けた。死神はしばらく黙ってそれを聞いていたが、ふいにぽつりと言った。


「……それで、何か頼みでもあるのかい?」


 男の顔がぴたりと固まった。だがすぐにわざとらしく目を丸くし、ぎこちなく笑みを浮かべ直した。


「いやいや、頼むなんてそんな、そんな。滅相もございません。ただ、その……できればよしなにしていただければと……いや、ここは率直に言わせていただきたい。その……まだ死にたくない、死にたくないです! どうかお助けください!」 


 男は勢いよく頭を下げた。額を畳に擦りつけ、ぶるぶると震える。

 死神はその姿を見て、くつくつと喉の奥で笑った。


「まあ、それ以外にないだろうね」


「は、はい……何とぞ……何とぞご慈悲を……」


「いいよ」


「えっ」


 男は弾かれたように顔を上げた。あまりにもあっさりとした返答だったために耳を疑い、思わず何度も瞬きをした。

 死神はゆっくりと頷いた。


「ただし……」


 死神は一歩ずいと身を寄せてきた。


「魂を少しいただけるかな」


「魂を、す、少し……ですか?」


「そう。要はつまみ食いさ」


 死神はわずかに上体を引き、頷いた。


「普段は運ぶだけでねえ。手をつけることはできないんだ。ただし……あんたが許可してくれるなら話は別だ」


 そう言うと、死神は再び男との距離を詰めた。


「ちょいと……ほんのちょいとだけいただけるってわけさ」


「ちょ、ちょっとだけ……」


「ああ」


 死神は頷いた。


「あんた、魂の色って知っているかい? ……いや、知るわけがないだろうねえ。あれはなんというか……そうだな、輝きだ」


 死神はうっとりした声で語った。その掠れた声には、長い間手の届かないものを眺め続けてきた者だけが滲ませるような羨望が混じっていた。

 男はその話を聞きながらただただ頷き続けた。死神の機嫌を損ねたくない一心だった。

 やがて言葉が途切れると男はおそるおそる口を開いた。


「そ、それで、ちょっと差し上げれば見逃していただけるんですか……?」


「ああ。後回しにしてやろう。何年かはあんたのところへは来ないよ」


 それを聞いた瞬間、男は口角を上げて何度も首を縦に振った。


「ぜひ、ぜひ! どうぞ好きなだけ――あ、いや、少しだけいただいちゃってください!」


「ああ……」


 死神は静かに頷いた。


「じゃあ目を閉じて。顔を少しこちらへ出してごらん。そう、頬をね。そのまま……」


 男は言われるがままに顔を突き出し、片目をぎゅっと閉じた。恐怖と緊張で喉がごくりと鳴り、冷や汗がこめかみを伝って流れ落ちた。

 死神はゆっくりと腕を伸ばした。細い指先が男の頬に触れる――ただ男には何かが触れた感覚はなく、その指は皮膚をすり抜けていた。

 やがて腕がゆっくりと引き戻されると、その指先には淡い白い光が小さく摘まれていた。

 とくん、とくんと中心が脈打ち、先端は煙のように揺らいでいた。

 男の目にも、それは思わず見入ってしまうほど美しく映った。

 死神はそれを愛おしげに見つめ、ゆっくりとフードの奥へ運んだ。


「ああ、おいしい……」


 男の目にはただ闇の中に手を差し入れたようにしか見えなかったが、どうやら食べたらしい。舌を鳴らすような湿った音がかすかに聞こえた。その生々しい響きに、男はぞくりと身震いした。


「あ、あの……それで……」


「ああ、じゃあまた……」


「は、はい!」


 男は深々と頭を下げた。

 しばらくその姿勢のまま固まり、やがておそるおそる顔を上げると、そこにはもう死神の姿はなく、部屋はしんと静まり返っていた。客人が帰ったあとにわずかに漂う残り香のように、かすかな冷気だけが周囲に残っていた。それも時間とともに薄れ、やがて跡形もなく消えた。


 その日から、男はまるで生まれ変わったかのように仕事に打ち込んだ。もっとも、もともと精力的に働く性分ではあったが、それまで以上に勢いを増し、その変化に周囲の者たちが目を丸くするほどだった。

 魂を一部奪われたものの、体調にも思考にもこれといった変化はない。むしろ以前より調子がいいような気さえしていた。

 それもそのはず。考えようによっては命を保証されたようなものなのだ。死神は何年かは迎えに来ないと言った。つまりその間は寿命で死ぬこともなければ、事故や誰かに襲われて命を落とすこともないというわけ。

 死の不安が消えたことで心は驚くほど軽くなり、思考は冴え渡り、判断も大胆になった。男は安心して働き続け、大いに力を振るったのだった。

 それから数年後――。


 夜、寝室。男ははっと目を覚ました。冷たい吐息で肌を撫でられたような感覚――あの夜とまったく同じ気配を感じたのだ。

 男は弾かれたように顔を横へ向けた。すると、部屋の隅にあの黒い塊が見えた。そしてそれは音もなく、ゆっくりと男のほうへ近づいてきた。


「あ……あ、死神様……」


 男は跳ねるように身を起こし、布団の上で正座した。声は震えていたが、前回とは違い、笑顔を作るだけの余裕があった。

 死神は布団の手前でぴたりと止まった。 


「やあ……」


「あ、あの……」


 男はごくりと唾を飲み込んだ。


「またお迎えに……でございますか……?」


 死神は静かに頷いた。


「あ、あの、ご、ご健勝で何よりでございます。それでその……今回もつまみ食いで済ませていただくわけには……」


 男は両手を畳に手をつき、深々と頭を下げた。すると死神は「ああ……」と低く呟いた。

 途端、男の顔がぱっとほころび、乾いた笑いが喉の奥から漏れた。


「い、いやあ、ありがとうございます。ささ、どうぞ……!」


 男は調子よく顔を突き出した。死神は静かに手を伸ばし、前回と同じように男の頬から淡い光を摘まみ取った。


 それからまた数年後――。 

 そしてまた数年後――。

 また――。


 死神は決まって数年おきに現れた。男はそのたびに平伏し、魂をつまみ食いさせて帰ってもらった。最初は恐怖に震えていたそのやり取りも、いつしか奇妙な習慣へと変わっていた。そろそろだろうと見越して、部屋を掃除することさえあった。

 しかし、ある夜のこと――。


「やあやあ、よくお越しくださいました、死神様。お待ちしておりましたよ。ささ、今夜はどこをお召し上がりになりますかな。耳ですかな、それとも額あたりで? たまにはおなかなんていかがでしょう! なんて、はははは!」


 もはや慣れたもの。男は軽やかに身を起こすと布団の上で正座し、頬を差し出した。その振る舞いからは、かつての怯えは影も形もなく、旧知の客人を迎えるような馴れ馴れしささえ漂っていた。

 しかし――。


「いや」


 死神はぼそりと呟いた。


「もうつまみ食いはしない」


「えっ?」


 男は思わず目を丸くした。


「年々味が薄くなっていたんだ。この前のでおしまいだよ。もう、食えたものじゃない」


「い、いや……その、味付けでもしましょうか。なんて、ははは……」


 男は笑おうとしたが、喉から出た声はひどく上ずり、途中で掠れて消え失せた。正座が崩れ、体がぐらりと傾いた。慌てて手をついたものの、指に力が入らず、そのまま布団に沈み込むようによろめいた。


「ま、まだ……」


 男は唇を震わせ、唾を飲み込んだ。


「まだ生きたいです。まだ……!」


「残念だがねえ……」


 その声は静かで、雨雲を見上げているような響きだった。


「あ、あ、あ……そ、そうですか、さすがに無理ですか……」


 男は力なく俯き、肩を落とした。


「……いや、確かにそうですね。そうだ。うん」


 少し黙り込んだあと、男は何度か頷き、顔を上げた。そして胡坐をかいて、膝をぱしっと叩いた。


「私も覚悟はできております。考えてみれば、長いお付き合いでございました。何度も足を運んでいただき、本当にありがとうございました」


 男はそう言って深々と頭を下げた。


「いやあ、構わないよ」


「それでなんですけど……その、天国に連れて行っていただけますよね? いやあ、ははは、自分で言うのもなんですが、これまで世のため人のため、そして国のために尽くしてまいりましたし……」


 男は頭を掻きながら笑みを浮かべた。


「いや」


「えっ」


「天国には連れて行かない」


「じゃ、じゃあ、じご、地獄ぅ……? あ、あの、それはあまりにもね、無情と言いますか、もう少し手心というものをね、ね? 私たち、言わば共犯のような関係ではありませんか。ね、ね? もう、やだなあ。ははは! ぜひ天国にね、ね?」


「いいや」


「あ、あの……その……どうか、何とぞ……」


「あんたはどちらにも行けないよ」


「へ?」


 男は間の抜けた声を漏らした。


「どちらにも……?」


「そうだ。魂が薄くなりすぎて、もうどこへも運べない。体から離れた瞬間、ばらばらに崩れてしまうだろうね」


「そ、そんな……それ、あ、あんたが食いすぎたせいじゃないか……」


 男は震える声でそう言った。


「違う、違う」


 死神はわずかに肩を揺らした。それは否定なのか、それとも笑いなのかは判然としなかった。


「つまみ食いは関係ない。あんたが長生きしすぎただけだ」


「そ、そんな……」


 男は言葉を失った。頭の中が真っ白になり、何一つ言葉が浮かばない。ただ喉が嗄れ、寒気が全身を覆っていった。


「でもよかったじゃないか」


 死神は静かに続けた。


「その引き換えに、地位と財産を手に入れたんだから」


 齢百を超えてなお政界に居座り続けた男。

 懐にしまい込んだ裏金は数え切れず、語録が編まれるほどの失言を重ね、不倫、秘書への自殺教唆、売国行為、議員定年制の撤廃、自分たちの都合の良い法案ばかり押し通してきた。

 その最期は、自宅の寝室で迎えた心臓麻痺。引き際を見誤った末の、誰からも惜しまれない死となった。

 口を開けたまま布団に横たわる男を見下ろし、死神はぽつりと呟いた。


「……それに、あんたの名は後世に残るだろうよ」

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