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たぶん忘れられる

掲載日:2026/06/24

 六月。


 教育実習初日。


 佐藤悠介は職員玄関の前で立ち止まった。


 ガラス越しに見える校舎は、六年前とほとんど変わっていない。


 変わったのは自分だけだ。


 そう思った。


 受付を済ませ、案内された職員室へ入る。


 懐かしい匂いがした。


 コピー機の熱。


 古い書類。


 コーヒー。


 湿った紙。


 学生の頃は知らなかった匂いだ。


「佐藤先生、こちらの席です」


 そう言われる。


 佐藤先生。


 呼ばれ慣れない名前だった。


 示された席は職員室の隅。


 折りたたみ机を追加したような仮設の場所だった。


 机の端に紙が貼られている。


 教育実習生 佐藤


 それだけ。


 なんだかイベント会場の名札みたいだと思った。




 授業見学。


 ホームルーム。


 校内案内。


 一日はあっという間に終わった。


 生徒たちは思ったより普通だった。


「先生って何歳なんですか」


「彼女いますか」


「先生、絶対ゲームやるでしょ」


 そんなことばかり聞いてくる。


 年齢も近い。


 話しやすい。


 少し前まで自分も生徒だったような気さえする。


 だが教室を出ると、その感覚は消えた。


 職員室へ戻る。


 先生たちは仕事の話をしている。


 進路。


 保護者対応。


 成績。


 会議。


 分からない言葉ばかりだった。


 話に入れない。


 かといって、生徒の輪にも戻れない。


 妙な宙ぶらりんさがあった。




 一週間が過ぎた。


 学校生活には慣れた。


 朝八時前に来る。


 職員室へ入る。


 授業を見学する。


 教材研究をする。


 帰る。


 毎日同じだ。


 けれど慣れても、自分の居場所だけは最後まで見つからなかった。


 昼休み。


 先生たちは先生同士で話している。


 生徒たちは生徒同士で話している。


 佐藤は弁当を持って中庭へ出た。


 ベンチに座る。


 風が吹く。


 グラウンドから野球部の声が聞こえる。


 それを聞きながら弁当を食べる。


 最近、この時間が好きだった。


 誰にも属していない時間。




 二週目。


 授業を担当した。


 前日はほとんど眠れなかった。


 だが始まってみると、意外とうまくいった。


 生徒も協力的だった。


 指導教員からも褒められた。


 達成感はあった。


 確かにあった。


 なのに帰り道になると不思議と空っぽだった。


 学校を出る。


 振り返る。


 校舎が見える。


 そこで思う。


 ここは自分の学校だったはずなのに。


 今は違う。


 生徒でもない。


 教師でもない。


 学校の外の人間だ。




 木曜日。


 廊下で生徒に呼び止められた。


「先生」


「ん?」


「来年もここいるんですか?」


 何気ない質問だった。


 佐藤は少し考える。


「どうだろうな」


「先生になったら?」


「まだ分からない」


「そっか」


 生徒はそれだけ言って去っていった。


 佐藤はしばらく廊下に立っていた。


 考えてみれば不思議だった。


 二週間前まで赤の他人だった。


 それなのに今は、ここにいるのが当たり前みたいになっている。


 だが二週間後にはいなくなる。


 おそらく誰も困らない。


 学校は普通に続いていく。




 最終日。


 ホームルームの終わり。


 生徒たちから寄せ書きを渡された。


「先生ありがとう」


「授業楽しかったです」


「教師になってください」


 そんな言葉が並んでいた。


 少し照れくさかった。


 写真も撮った。


 拍手もされた。


 泣いている生徒までいた。


 たった二週間なのに。




 放課後。


 職員室へ戻る。


 机を片付ける。


 筆箱を鞄へ入れる。


 教材をまとめる。


 そして机の上の紙を剥がした。


 教育実習生 佐藤


 薄い紙だった。


 剥がした跡だけが残る。


 机はすぐに何事もなかった顔をした。


 最初から何も貼られていなかったみたいに。




「お疲れさま」


 先生たちが声をかけてくれる。


「ありがとうございました」


 頭を下げる。


 職員室を出る。


 廊下を歩く。


 階段を下りる。


 昇降口を抜ける。


 校門へ向かう。


 部活帰りの生徒たちが横を通る。


 誰も特別な顔はしていない。


 当たり前だ。


 学校は続いていく。


 月曜日になれば授業がある。


 テストもある。


 文化祭も来る。


 自分だけがいなくなる。




 校門の前で立ち止まった。


 振り返る。


 夕日に照らされた校舎が見えた。


 二週間前と同じ景色だった。


 何も変わっていない。


 本当に何も。


 なのに少しだけ寂しかった。


 この場所にいたはずなのに。


 確かに毎日通ったはずなのに。


 数日もすれば、自分がいた痕跡はほとんど消えてしまう。


 机の紙みたいに。


 綺麗に剥がれて。


 何もなかったことになる。


 それが妙に現実的だった。


 佐藤はしばらく校舎を見上げた。


 それから小さく息を吐く。


 そして歩き出した。


 六月の風が吹いていた。


 校門の向こうでは、生徒たちの笑い声がまだ聞こえていた。

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