第8話(竜子目線) 烏丸で降りる二人 静かな余裕と、胸の中の小さな嵐
烏丸のホームに降り立った瞬間、風が少し冷たかった。
夜の烏丸は、昼と違う顔をする。
人は多いのに、どこか静かで。
みんな急いでて、みんな自分の世界に入ってる。
扉が閉まって、電車が動き出す。
窓越しに、河原町まで行く高台寺寧々ちゃんが、まだ赤い顔のまま残って――
「……大事な人や!」
あの声が、耳に残ってる。
(……言うたなぁ)
私は思わず笑いそうになって、唇を軽く噛んだ。
笑ったらあかん。あれは必死の声や。
笑ったら、寧々ちゃんがまた「腹立つわ!」って燃える。
隣で羽柴くんが固まってる。
肩が少し上がって、目が泳いで、口が半開き。
(……ほんま、分かりやすい)
私は落ち着いてるように見えるんやろな。
自分でもそう思う。
でも落ち着いてるんやなくて――
(落ち着かな、壊れる)
胸の中は静かなようで、ちっさい嵐が回ってる。
音を立てへんだけで、止まってへん。
私は何でもない顔で言うた。
「……羽柴くん、行こ」 「……お、おう」
返事が変。
いや、いつも変やけど、今日のは特に変。
改札へ向かいながら、羽柴くんが焦ったみたいに言う。
「河原町まで見送らんでよかったん?」 「見送らんでいいんちゃう?」 「いや! 見送らへん! 俺が見送ったら……なんか死ぬ!」 「何が死ぬん」 「社会的信用!」 「大げさやなぁ」
私は笑いをこらえて、改札を抜けた。
烏丸の改札前は人が流れて、声が反響して、ネオンが少し眩しい。
地上へ上がると、夜の空気がすっと入ってきて、頭が少し冷える。
「……寧々ちゃん、すごかったな」
羽柴くんがぽつりと言った。
「すごいな。あれ、才能や」 「才能て……」 「言葉の瞬発力。
恥ずかしいことを、あんな真っ直ぐ言えるの、強い」
羽柴くんは「うーん」と唸った。
「……俺、どうしたらええんや」 「どうもせんでええんちゃう」 「え、そうなん?」 「今すぐ答え出す話ちゃうし」
私はさらっと言う。
顔も、声も、平熱のまま。
でも内心は違う。
(……どうもせんでええわけ、ないやろ)
寧々ちゃんは火。
燃えたら止まらん。
魅力でもあるし、怖さでもある。
私は水……に見えるんやろな。
静かで、穏やかで、優しい。
でも、ほんまは――
(……私も、負けたくない)
声に出したら、負ける気がする。
だから、心の中にしまう。
烏丸の交差点を渡る。
信号待ちの人が多い。
外国人の観光客が「カラスマ!」って言うてる。
烏丸って、京都の中心やのに、どこか“通過点”っぽい。
(……でも今日は、私にとって大事な場所になった)
ここで二人きりになったから。
「羽柴くん、家どっち?」 「蛸薬師の方」 「一緒やね。私、綾小路」
「……え、近いん?」 「近い。歩ける距離」 「……ええとこ住んでんな」 「ええとこって言われると、微妙やわ」
御茶屋の家、って言うたら、だいたい勝手に想像される。
キラキラ。敷居。格式。怖いおばちゃん。ぶぶ漬け。
最後のは違う。たぶん。
「俺ん家、錦に店あるし、うちも似たようなもんか」 「似てへんよ」 「似てるやろ」 「全然ちゃう。伏見酒造って、酒やん」 「酒や」 「うちはお茶」 「同じ飲み物や」 「雑すぎるわ」
羽柴くんの“雑さ”は、ちょっとおもしろい。
本人はツッコミを習得中って言うてたけど、ツッコミよりボケが多い。
私は、つい言うてしまう。
「羽柴くん、ほんまにサッカーやめるん?」 「やめるっていうか……入らん。まだ怖い」
その「怖い」が、少しだけ喉につかえたみたいに聞こえた。
「怖いの、恥ずかしいと思ってる?」 「……ちょっとは」 「思わんでええよ」
信号が青になる。
私たちは並んで渡る。
「怖いって言える人、強いと思う」 「……強いんは、寧々やろ」 「寧々ちゃんも強い。種類が違う」 「種類て何や、ポケモンか」 「羽柴くんは……今、進化の途中や」 「ディスってる?」 「励ましてる」
その時、羽柴くんが小さく笑った。
それが妙に嬉しくて、私は目線を外した。
(……あかん)
私は落ち着いてる“ふり”が上手い。
相手に悟られへんように、表情を整える。
でも胸の中は、いつもよりうるさい。
寧々ちゃんの「大事な人」――
あの一言が、ずっと響いてる。
(……私も、そう思ってる)
口に出さんだけで。
歩きながら、私は羽柴くんの横顔を見る。
背は高くない。
でも姿勢がまっすぐ。
優しい目。
ちょっと疲れた顔。
(……この人、無自覚に人を助ける)
それが怖い。
誰にでも優しい。
誰にでも“当たり前”みたいに手を差し出す。
そして、たぶん。
自分がしたことを、忘れる。
私はそれが嫌や。
自分が特別になれへん気がするから。
蛸薬師の方へ曲がる手前、ちょっとした路地の暗がり。
人通りが少なくなる。
私は言葉を選びながら、少しだけ踏み込んだ。
「……さっき、寧々ちゃんのこと、どう思った?」 「どうって……」 「“大事な人”って言われて」
羽柴くんは立ち止まりかけた。
でも、歩きながら答えた。
「……びっくりした。
でも、嫌とかやない。
なんか……胸が変な感じになった」
(……正直やな)
変な感じ。
それはたぶん、好きの入口。
でも本人は気づかへん。
鈍感って、ほんまに鈍感や。
私は軽く笑って、わざと明るく言うた。
「ほな、やっぱり羽柴くん、社会的信用死んでるやん」 「殺すな! 俺の信用!」 「もう半分死んでる」 「お前も! 優しい顔で刺すな!」
羽柴くんがツッコミを入れた。
そのツッコミ、ちょっと上達してて、私は笑った。
「今の、ええツッコミ」 「褒めんな! 恥ずい!」 「褒める。伸びるから」 「伸びしろで生きてる男みたいに言うな!」
そのやり取りの間だけ、胸が軽くなる。
でもすぐに思い出す。
(……私は、どうしたいん)
答えは分かってる。
でも私は押さへん。
押したら、崩れる気がする。
寧々ちゃんみたいに、火で押せる自信がない。
私は水で包むしかない。
だけど――水も、増えたら溺れさせる。
蛸薬師の角が見えた。
「ここ曲がったら、俺ん家の方や」 「うん」
私の家は、もう少し先。
ほんまに近い。
だからこそ、距離が近い気がする。
心まで近くなってしまいそうで、怖い。
私は最後に一つだけ言うた。
軽く。冗談みたいに。逃げ道を残したまま。
「羽柴くん」 「ん?」 「……連絡、ちゃんとしてな」 「誰に?」 「私にも」
羽柴くんが目を丸くした。
「え、なんで?」 「なんでって……」 「生存確認、寧々だけの専売特許ちゃうん?」
私は笑って、肩をすくめた。
「私も心配する。
羽柴くん、ぼーっとしてるし」 「失礼やな!?」 「事実や」 「事実言うな!」
心の中で、小さく付け足す。
(心配やなくて、つながっていたいだけやけど)
もちろん、言わへん。
言うたら私の負けや。
静かに余裕そうに見せてる自分が、壊れる。
羽柴くんは困った顔で頭を掻いた。
「……分かった。する」 「うん。えらい」 「子ども扱いすな!」 「してへんよ。褒めてる」 「褒め方が先生や!」
私はくすっと笑って、手を振った。
「ほな、また明日」 「おう。……遅ならんよう帰れよ」 「それ、さっき寧々に言うたやつやろ」 「うるさい! 便利な言葉や!」 「雑やなぁ」 「お前もな!」
そう言って羽柴くんは路地へ曲がって行った。
背中が見えなくなるまで、私は立っていた。
夜の烏丸。
中心なのに、通過点みたいな場所。
でも今日は違う。
(……ここで、私は一歩進んだ)
押してへん。
押さへん。
でも、手は伸ばした。
私はゆっくり歩き出す。
綾小路へ。家へ。
胸の中の嵐は、まだ小さい。
けど、確実に回り始めてる。
「……寧々ちゃん、強いなぁ」
つぶやいて、私は笑った。
笑ったけど――
(負ける選択肢はあらへん)




