第7話(寧々目線) 言うてしもた「大事な人」 四条大橋、鴨川ベンチ、そして小学一年の善意
――やってしもた。
阪急の扉が閉まる瞬間、烏丸のホームに残った秀吉くんの顔が、いまだに頭の中で再生されてる。
あの顔。
ぽかーんとして、赤なって、なんか言い返そうとして――言葉が出ぇへん顔。
「……大事な人や!」
言うてしもた。
めっちゃ真面目な声で。
しかも、京極竜子ちゃんの前で。
(あぁぁぁぁぁ……うちの口ぃぃぃ!!)
電車が動き出して、窓の外のホームが遠ざかる。
竜子ちゃんは落ち着いた顔で「ふふ」って――いや、笑ってた?
笑ってへん?
どっちでもええ。あの子は落ち着きすぎて怖い。
うちは東山の祭り太鼓や。鳴ったら止まらん。
竜子ちゃんは裏千家の茶筅や。静かに回して泡立てる。
比べたらあかんのに、比べてしまう。腹立つ。
河原町に着いて改札抜けた瞬間、夜の京都の匂いがした。
観光客の声、路地の先の居酒屋の湯気、タクシーのライト。
鴨川の風が頬を撫でる。
(無理。今のうち、このまま家帰ったら死ぬ)
家帰ったら、おかんに顔見られて全部バレる。
お父ちゃんはサンガの試合見て「俺たちの京都ー!」歌うてて、
うちの顔見て余計にうるさなる。
それ、地獄や。四月から地獄は早い。
だからうちは、家に入る前に寄り道した。
逃げるんやない。落ち着く時間がいるんや。
……言い訳やけどな。うん。
四条大橋。
橋の上は夜でも人が多い。
カップル、大学生、外国人。
みんな写真撮って笑ってる。
京都の夜は、いつも誰かの“楽しい”が流れてる。
うちは欄干のとこで止まって、鴨川を見下ろした。
暗い川。でも水は流れてる。
風がスカートの裾を揺らす。
(……ここや)
四条大橋は、うちの“心の避難所”や。
腹立つ時、泣きたい時、
「ぶぶ漬け食わしたろかいな」って思う時――
ここ来たら、ちょっと落ち着く。
欄干から下を見て深呼吸して、うちは橋を渡った。
鴨川沿いへ。ベンチが空いてる。
うちは座った。
ベンチ、冷たい。
それがちょうどよかった。
頭が熱すぎる。冷やさなあかん。
「……大事な人、て」
声に出してもうた。
自分の声が情けなくて、笑いそうになって、でも笑えへん。
「なんで烏丸のホームで言うてんの……うち……」
しかも、竜子ちゃんの前で。
あの子の前でそれ言うたら、そら“勝負”みたいになるやろ。
いや、うちは勝負してへんつもりやのに、勝負になってまう。
京都、怖い。
でも――言うた瞬間、嘘やなかった。
うちの中ではずっと前から、秀吉くんは「大事な人」やった。
せやから腹立つ。
本人が何も覚えてへん顔するから。
優しいくせに、忘れるから。
「……あんた、鈍感にもほどがあるわ」
そう呟いたら、川面が揺れて、勝手に昔の景色が浮かんできた。
――小学一年。夕方の鴨川。
うちも、秀吉くんも、同じ小学一年。
ランドセルが体の半分みたいな頃。
世界はでかくて、怖くて、でも楽しかった。
あの日、うちは友達と鴨川の近くで遊んでた。
石投げて、走って、笑って、
「明日も遊ぼな!」とか、世界の終わりみたいに約束してた。
そしたら急に――
「ワン!! ワンワン!!」
犬や。
でかい犬。大人の犬。
毛がぼさぼさで、目がギラッとしてて、
鎖が外れてたんか、誰かが追いかけてたんか、
とにかく、うちに向かって走ってきた。
「……え?」
声が出ぇへん。足が動かへん。
友達も固まって、みんな石みたいになった。
犬の口が開いた瞬間、うちは思った。
(噛まれる)
その瞬間――
「やめろやあぁぁぁ!!」
ちっさい声。
でも腹の底から出した声。
横から飛び出してきたのは、同じ小学一年くらいの男の子やった。
ちっこい。ほんまにちっこい。
でも犬の前に立って、両手を広げた。
それが――秀吉くんやった。
でもな。ここ大事や。
あの時の秀吉くんは、うちのこと知らんかった。
「寧々」なんて呼んでへん。
ただそこに“泣きそうな女の子”がおって、
そこに“犬”が突っ込んできただけ。
それだけ。
ほんまに、ただの善意。
それが、腹立つくらい――かっこよかった。
秀吉くん、足ガクガク震えてた。
膝が笑ってた。
でも一歩も引かへん。
犬が「ワン!!」って吠えた。
秀吉くんも――吠え返した。
「ワンやない!! 来んな!!」
(犬語やめろ!!)
怖いのに、アホすぎて、うちは一瞬笑いそうになった。
でも次の瞬間、涙が出た。
怖い。ほんまに怖い。
秀吉くんは地面の小石を掴んで、犬の前に投げた。
犬の横にカンッと当たる。
犬がビクッとする。
もう一個拾って投げた。
今度も犬の横。
「ほら! あっち行け!
こっち来たら……えっと……あかんねん!!」
(語彙が小一!!)
でも、その“あかんねん”が、めっちゃ強かった。
犬は混乱したみたいに、くるっと向きを変えた。
そこへ後ろから、大人の声。
「すみません!! うちの犬が!!」
飼い主のおっちゃんが走ってきて、犬の首輪を掴んだ。
犬は引っ張られて吠えながら去っていった。
おっちゃんは何回も頭を下げた。
「ほんまにすみません! 大丈夫ですか!」
「……だいじょうぶ」
秀吉くんが言うた。
声、震えてた。
でも、強がってた。
犬が見えんくなった瞬間――
うちは腰が抜けて、しゃがみこんだ。
涙がボロッと出た。
「こわかった……」
秀吉くんはしゃがんで、うちの顔を覗いた。
でも名前は知らん。
せやから言葉も雑やった。
「……だいじょうぶ?」
「……うん……」
秀吉くんは困った顔して、
自分のTシャツの裾を引っ張って、うちの涙を拭こうとした。
「ちょ、やめて! 汚れる!」 「汚れてへんし!」 「汚れるって! あほ!」
(ここ、うち泣いてるのにツッコんでる。小一から)
秀吉くんは立ち上がって、手を差し出した。
「立てる?」 「……うん」
その手を握った瞬間、
怖さが少し消えた。
小さい手やのに、あったかかった。
「家、どこ?」 「……東山……」 「遠いな」 「遠い」 「……じゃあ、そこまで行くの、気ぃつけや」
それだけ言うて、秀吉くんは後ろを見た。
もう犬が来てへんか確認してる。
送るとか言わへん。
自慢もせえへん。
ただ、ほんまに心配しただけ。
それが、ずるい。
だって、うちはそこで恋してしもたんやから。
しかも秀吉くん、最後にめっちゃ普通に言うた。
「ほな、ばいばい」
(ばいばい!? ここで!?)
うちは涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、
手を振るしかなかった。
「……ばいばい……」
それが、うちの“初恋”やった。
回想が終わって、うちは鴨川ベンチで膝を抱えた。
「……ほんまに、ただの善意やったんやろな」
秀吉くんは昔からそうや。
誰でも助ける。
助けても、忘れる。
名前も知らん相手でも、動く。
それが腹立つ。
うちだけ特別ちゃうって突きつけられるみたいやから。
でも、それが好きや。
「……憎たらしいわ。ほんまに」
その時、スマホが震えた。
『着いたで。遅ならんよう帰れよ』
短い。ぶっきらぼう。
優しい。
「誰が遅なんねん。
うち、京都の女やで? 道、知ってるわ」
そう言いながら、頬が緩む。
返信する指が震える。
『今、鴨川。落ち着いてから帰る。心配すな。』
送信。
送信した瞬間、胸の奥がまた熱くなる。
(あかん。ほんまに、大事な人や)
言うてしもたことは取り消せへん。
でも、もうええ。
嘘やないし。
むしろ、やっと口が追いついただけや。
うちは立ち上がって、スカートの埃を払った。
「……よし」
家に帰ろ。
お父ちゃんがサンガ歌うてても、
おかんがぶぶ漬け言うても、
今日は負けへん。
うちは決めた。
あの人を、
“知り合い程度”で終わらせへん。
四条大橋の向こうに、東山の夜が待ってる。
鴨川の風が、背中を押した。
「……腹立つわ。
でも、好きや」
その言葉は、
うちの恋の合図やった。




