第41話 来るなと思ったら来てほしいし、来てほしいと思ったら危ない
――GW・錦市場 伏見酒造店/秀吉部屋――
朝。
GWの京都は、人の気配が起きるのが早い。
錦市場の通りから、店を開ける音が上がってくる。
シャッターの重たい音。
どこかで出汁を取る匂い。
観光客の「まだ開いてないの?」みたいな外国語。
そして、伏見酒造の二階、秀吉の部屋では――
「……朝から憂鬱や」
羽柴秀吉が、布団の上でスマホ見ながら、心底しんどそうに呟いていた。
昨日。
いや、正確にはGW二日目の勉強会。
寧々と二人きり。
理性を保て、理性を保てと、何回唱えたか分からん一日。
ギターどころやない。
数学どころやない。
サインコサインタンジェントが全部、恋の呪文に見えるぐらいには危なかった。
「……今日も寧々一人で来たら、俺ほんまにあかんかもしれん」
口に出した瞬間、自分で嫌になる。
「“あかん”って何やねん……」
何があかんのか。
そらもう、理性や。
距離感や。
高校生活や。
もし、ほんまに手ぇ出してしもたら。
いや、手ぇ出すって言い方あれやけど。
でも、もし、あのまま近づいて、流されて、何かしてしもたら。
「……今後の高校生活、寧々に支配されるやん」
少し考えてから、秀吉は首をかしげた。
「いや、今でもだいぶ支配されとるな……」
「しらんけど」
最後だけ誰に向けたか分からん京都逃げ口上をつけて、自分で小さくため息をつく。
スマホが震えた。
【まつ】
「お前、朝早いな……」
開く。
『今日も実家地獄。
カブキモノ、売上右肩上がり。
一乗寺ラーメン戦争、今日も出陣。
昼も夜も人来る。
うちおらん。がんばれ』
「最後の“がんばれ”が怖いねん」
秀吉はベッドの上で突っ込んだ。
まつの実家、ラーメンカブキモノ。
一乗寺のあのへんは、ラーメン好きがだいたい人格変わる地域や。
京都のくせに、みんな汁の話になると声がでかなる。
地元愛というより、麺愛。
カブキモノの売上が右肩上がりってことは、今日も前田まつは、家政科の包丁やなく、商売人の顔で戦っとるんやろ。
「……まつがおらん」
その事実が、だいぶ重い。
あいつはうるさいけど、ツッコミと現実係として非常に優秀や。
寧々の暴走を止める防波堤でもある。
その防波堤が今日、ラーメンに取られてる。
「終わった……」
秀吉が枕に顔を埋めかけた、その時、また通知。
【京極竜子】
「……え」
体が勝手に起き上がる。
竜子から朝一で来るの、ちょっと珍しい。
『今日は行けます。
昨日の分も勉強したいです。
よろしくお願いします』
秀吉は、スマホを見つめたまま固まった。
「……助かった?」
小さく呟く。
寧々一人やない。
それは助かる。
確かに助かる。
でも。
「いや、待て」
脳内で別の警報が鳴る。
竜子は、寧々と違う怖さがある。
寧々は火。
派手で、熱くて、分かりやすい。
竜子は熱湯や。
静かやのに、触れたら火傷する。
「寧々と二人もあかん。
竜子と二人も……いや、それもだいぶあかん」
どっちにしても、理性の寿命が縮む。
しかも、竜子と寧々が二人ともおったらおったで、部屋の空気が戦国時代になる。
おらんかったらおらんかったで、別の意味で危険。
「詰んでへんか? 俺」
京都の高校生活、こんなハードモードある?
そう思うた瞬間、また震えるスマホ。
【寧々】
「来た……」
開く。
『ごめん秀吉!
今日な、西陣織の実家の用事、急に入ってもうた!
今日は行けへん!』
秀吉は、三秒ぐらい完全停止して、それから大きく息を吐いた。
「……助かった……」
心の底から出た声やった。
助かった。
今日、寧々一人の猛攻はない。
二日連続は、ほんまに無理やった。
でも次の瞬間。
「……あ」
気づく。
寧々が来ない。
まつも来ない。
つまり。
「竜子と二人きりやん」
秀吉、白目。
「これもあかんやつや」
ほんまに、どっちもあかん。
寧々は可愛いし、近いし、正面突破してくる。
竜子は美人で、静かで、目で刺してくる。
結論、どっちも心臓に悪い。
秀吉は立ち上がって、机の上を片付け始めた。
昨日よりちょっとだけ丁寧に。
ペットボトルを捨てる。
漫画を積み直す。
ギターを壁際に寄せる。
なんでか知らんけど、無駄に整理したくなる。
「……いや、何してんねん俺」
女子が来るから部屋を片付ける男子高校生。
あまりにも分かりやすい。
「ちゃうし。
勉強するからやし。
勉強に環境は大事やし」
言い訳しながら、クッションの向きを直す。
やってることが完全にあかん。
下から、おかんの声がした。
「秀吉ー! お茶菓子、上に持ってく?」
「いらん!」
「なんでや! お客さん来るんやろ?」
「勉強やから!」
「勉強でも甘いもんは要るやろ!」
おかん、正論。
でも今の秀吉にとっては、甘いもんより必要なんは、心を殺す鉄の壁やった。
しばらくして、階段を上がる音。
軽すぎへん。
寧々みたいにドタドタでもない。
でも、遠慮しすぎてもない。
コンコン。
「……羽柴くん?」
その声だけで、部屋の空気が変わる。
「ど、どうぞ」
扉が開く。
京極竜子。
今日は、昨日よりちょっとだけ気合いが入ってた。
制服やない。
落ち着いた色の私服。
派手やないのに、ちゃんと目を引く。
髪も少しだけ整えてある。
うっすら化粧。
唇の色が、いつもより少しだけ柔らかい。
そして手には、小さな包み。
「おはよう」
「……お、おはよう」
「これ、近所の和菓子屋さんの。
一人やと食べきれへんし、持ってきた」
秀吉は包みを受け取りながら、喉が鳴るのを感じた。
「ありがとう」
「うん」
静か。
やのに、心臓だけがうるさい。
竜子は部屋の中をひと目見て、少しだけ目を細めた。
「……昨日より、片付いてる」
「え」
「気ぃ遣ってくれたんや」
「いや、勉強しやすいように……」
「ふふ」
「何」
「別に」
その“別に”が、妙に意味深で、秀吉は一歩引いた。
寧々とは違う。
竜子は一気に来えへん。
でも、静かに囲ってくる。
「寧々さん、今日は来れへんね」
竜子が、何でもないことみたいに言う。
「う、うん。西陣の用事やて」
「そうなんや」
「……」
「……」
沈黙。
気まずいわけやない。
でも、落ち着かへん。
「……座る?」
秀吉がようやく言うと、
竜子は「うん」と頷いて、机の向かいに腰かけた。
向かい。
横やない。
その距離の取り方が、逆に意識させる。
包みを開くと、きれいな練り切りが二つ入ってた。
季節の花みたいなやつ。
食べるの惜しいやつ。
「可愛いな」
「やろ?」
「……竜子っぽい」
「どういう意味?」
「綺麗で、静かで、食べるの緊張する」
「食べるの緊張って何」
竜子が笑う。
その笑い方も、寧々とはちゃう。
寧々は「わはは!」やけど、竜子は「ふふ」や。
その違いがまた、胃に悪い。
「羽柴くん」
「ん?」
「今日、二人やね」
「……せやな」
「嫌?」
「嫌ちゃう!」
即答してもうて、秀吉は自分でしまったと思った。
竜子は少しだけ目を丸くして、それから優しく笑った。
「そっか」
その“そっか”だけで、部屋の空気がほんの少し柔らかくなる。
でも同時に、逃げ道も減る。
机の上に問題集を広げながら、秀吉は心の中で思う。
(寧々がおらんから助かった、思うたのに)
(これはこれで、全然助かってへん)
錦市場の外では、今日も京都が動いてる。
伏見酒造の二階では、また別の種類の勉強会が始まろうとしていた。
可愛い寧々とは違う。
竜子は、美人系。
静かで、落ち着いてて、でも今日は明らかに気合い入れて来てる。
つまり――
「……今日もしんどいな」
秀吉がぼそっと言うと、
竜子が首をかしげた。
「何が?」
「いや、数学」
「まだ開いてへんやん」
「……」
見抜かれるの、早すぎるやろ。
そして、そんな朝から、
伏見男子の理性はまた、静かに追い詰められていくのだった。
――つづく。




