第40話 夜に鳴る通知は、だいたい心臓に悪い
夜の錦市場は、昼の顔と全然ちゃう。
昼間は観光客がぎゅうぎゅう詰めで、串も漬物もだし巻きも、なんや全部「食われるために生まれてきました」みたいな顔しとるのに、夜になると急に色気が出る。
提灯の明かりが少し落ちて、店じまいの音がして、遠くの笑い声が細うなって、かわりに「一日終わったなぁ」みたいな空気が通りを流れていく。
伏見酒造の二階、秀吉の部屋。
窓を少し開けると、その夜の雑踏が、やわらかい風と一緒に入ってきた。
秀吉は窓辺に腰かけて、ギターを抱えた。
ぽろん。
音がひとつ、部屋の中で鳴る。
けど、今日の秀吉の頭の中は、その一音で静まるほど単純にはできてへん。
「……しんど」
誰に言うでもなく、ぽつりと漏れる。
しんどいのは、勉強やない。
中間テスト範囲でもない。
今日、一日二人きりで過ごして、ようやく終わったと思ったら、頭の中にまだ寧々がおる。
黒髪ロング。
いい匂い。
真横に座ってくる距離感。
「うちは、そこに入る気満々や」って、未来の話に当然みたいに入り込んでくる強さ。
「……強すぎるやろ、東山の女」
ぽろん。
また弦を鳴らす。
理性を保て。
理性を保て。
今日一日、何回唱えたか分からへん呪文を、今さら心の中で繰り返す。
けど、理性って、夜になると急に仕事サボる。
昼間は「アホか、落ち着け」って止めてくれたくせに、夜は「まあ、ちょっとくらい思い出してもええんちゃう」みたいな顔して、勝手に寧々の笑い声再生してくる。
役立たずや。
スマホが震えた。
机の上に置いてあった画面が光る。
反射的にそっちを見る。
【寧々】
秀吉の肩が、びくっと揺れた。
「早っ」
思わず声に出る。
いや、早ないのかもしれん。
帰って、風呂入って、髪乾かして、ちょっと落ち着いて、それで送ってきたんかもしれへん。
でも秀吉の感覚では早い。
心の準備、ゼロ。
メッセージを開く。
『今日はありがとな』
短い。
意外と普通。
いや、普通やない。寧々からの「ありがとな」は、だいぶ効く。
さらに、すぐ次が来る。
『ちゃんと送ってくれて、えらい』
「えらいって何やねん……」
秀吉は眉をひそめながら、でも口元がちょっと緩む。
送るぐらい、別に普通や。
普通。
……普通やんな?
また、次。
『でもな、今日の秀吉、だいぶ危なかったで?』
「何がや」
秀吉はスマホに向かって小声でツッコむ。
何が危なかったんか、自分が一番分かってるから余計腹立つ。
寧々が近い。
匂いがする。
好きやで、って言う。
未来におる気満々や、って言う。
そら危ない。
危なくないわけがない。
返信欄を開く。
閉じる。
また開く。
(何返すんが正解や)
(“こちらこそ”は固い)
(“別に”は感じ悪い)
(“危なかったんはお前の方や”は、煽りや)
少し考えて、打つ。
『お前もな。近いねん』
送信。
送った瞬間に「うわ」と思った。
何やその返し。
中学生の初LINEか。
でももう遅い。
既読がつくのも早い。
『近い方が、惚れるやろ?』
即答。
しかも、ド直球。
「うっわ……」
秀吉は片手で顔を覆った。
そのまま後ろに倒れ込みそうになるのを、ギター抱えてるから何とか耐える。
「惚れるやろ、て……」
その一文だけで、今日一日のいろんな場面が蘇る。
机の横。
肩の距離。
小さい声。
笑う目。
さらに次。
『夢にうち出ても、責任取らんし』
「出るに決まってるやろ、そんなもん……」
ぼそっと言ってから、自分で「あかん」と思う。
寧々に聞かれたわけでもないのに、答えてどうする。
でも、ほんまに出る気がした。
夢どころか、もう頭の中に常駐しとる。
ぽろん。
ギターを軽く鳴らす。
でも、今の音は、だいぶ寧々寄りやった。
つまり、落ち着けてへん。
その時、またスマホが震える。
【まつ】
「次、お前か」
なんでこういう日は、来る順番まで完璧なんやろ。
寧々で心臓削られて、次にまつで現実に戻される。
だいたいそうや。
開く。
『生きてる?』
「第一声それやめろや」
即ツッコミ。
まつはいつもそうや。
恋の空気に一発で現実を混ぜてくる。
ありがたいけど、雑や。
次。
『寧々、帰ってからもだいぶやかましかったで』
秀吉は小さく笑った。
想像つく。
四条大橋越えて、鴨川寄って、絶対に何か言うてる。
「腹立つわ!」とか「好きやねん!」とか、一人で全部言うてそう。
さらに続く。
『今日の感想
①よう耐えた
②でも遅い
③明日も覚悟しとけ』
「何の三段論法やねん……」
秀吉は少し考えてから返信する。
『なんの覚悟や』
既読、一秒。
『寧々や』
「短っ」
短いくせに、一番効く。
まつ、ほんまにこういうとこだけ名言みたいになる。
さらに追撃。
『あと、竜子も静かに燃えてるからな。
お前、まじで気ぃつけや』
秀吉の指が止まった。
竜子。
静かな声。
距離の詰め方がうまい。
落ち着いた目。
今日おらへんかったのに、存在感が消えへん。
昨日も、今日の昼も、ずっとどこかにおった“静かな火”みたいな感覚。
寧々が花火なら、竜子は炭火。
まつが言いそうな例えやなと思う。
最後の一文が来る。
『優しいまま曖昧なんが、一番あかんで』
秀吉は、窓の外を見た。
錦市場の提灯の明かりが少し揺れてる。
下を歩く人影が、まばらに流れていく。
「……分かってる」
誰も聞いてへんのに、声に出す。
分かってる。
優しいだけで、決めへんのは卑怯や。
せやけど、今すぐ何かを決めるほど、自分が出来た人間やないことも、分かってる。
まつへの返信は、結局シンプルやった。
『分かってる。考える』
既読はついたけど、そのあと返ってこん。
多分、利家の飯作ってるか、店の仕込みしてるか、恋愛弱者に説教する気が一瞬失せたんやろ。
まつは、優しい。
雑やけど。
ぽろん。
またギターを鳴らす。
夜風が、少しだけ冷たい。
窓の外の雑踏は、さっきよりさらに遠くなってる。
その静けさの中で、最後にスマホが震えた。
秀吉は、それだけで姿勢が変わった。
【竜子】
名前だけで、空気が変わる。
寧々の通知は火花やけど、竜子の通知は、夜の湯気みたいに静かでじわっと来る。
メッセージを開く。
『今日はありがとうございました』
きちんとしてる。
やっぱり、らしい。
その次。
『送ってくれて、嬉しかったです。
……と言いたいところですが、今日は寧々さんの日でしたね』
「え……」
秀吉は思わず画面を凝視した。
そこ、見えてたんか。
いや、見えてるか。
そらそうか。
さらに続く。
『でも、秀吉が逃げなかったの、ちゃんと分かってます』
その一文が、妙に胸に残った。
褒められてるようで、許されてるようで、でもちゃんと見られてる。
竜子は、そういう言い方をする。
静かやのに、逃げ道がない。
そして最後に。
『明日、普通に会います。
でも、普通のふりは、もうしません』
秀吉は、窓の外を見たまま動けへんかった。
普通のふり。
それ、今日までの自分にも刺さる。
何もなかったみたいな顔して、でも心の中ではずっと揺れてる。
そんなの、多分、誰にも通用してへん。
「……ずるいわ」
小さく呟く。
寧々も、まつも、竜子も、
みんな別の方向からちゃんと来る。
誰も同じやり方ちゃうのに、全部効く。
返信欄を開く。
少し考えてから、打つ。
『ありがとう。
俺も、普通のふりはせんようにする』
送信。
既読。
数秒して、返ってくる。
『はい。おやすみなさい』
短い。
でも余韻が長い。
秀吉はスマホを机に伏せて、またギターを抱えた。
窓辺に戻って、夜の音に耳をすます。
錦市場の雑踏。
どこかの店の片付けの音。
京都の夜は静かやのに、ちゃんと生きてる。
ぽろん。
ぽろん。
今夜の音は、さっきより素直やった。
寧々の火花も、まつの現実も、竜子の静かな熱も、
全部ちょっとずつ混ざって、変なコードになってる。
「……GW、全然休みちゃうやん」
秀吉は苦笑した。
答えはまだ出せへん。
でも、逃げへんことだけは決めた。
普通のふりもしない。
そう言うてしもた。
伏見の男は、今日もギター一本、夜の雑踏を聞いてる。
窓の外の京都は静かで、胸の中だけが、やたらとうるさい。
――つづく。




