第38話 夢の話をしたら理性が戻ると思った?――残念、京都の恋は逃がさへん
――GW・錦市場 伏見酒造店/秀吉部屋――
数学。
三角比。
サイン、コサイン、タンジェント。
――それより今、秀吉の頭を支配してるのは、隣におる寧々の匂いやった。
黒髪ロングが、ふわっと肩にかかって、たまに頬に触れる。
ペン先がノートを走る音すら、近い。
(あかん、理性が削れていく)
(削れてる、削れてる、削れてる……)
「秀吉、ここ違う」
「……え、どこ」
「ここ。対辺ちゃう」
「……対辺やろ」
「ちゃうって。斜辺や。……ほら、見て」
寧々が身を寄せて、同じページを覗き込む。
肩が完全に当たる。
腕も当たる。
距離が、ほぼゼロ。
「……近い」
「近いほうが教えやすい」
「教えるの俺や」
「うちの顔見てたら、数学できへんやろ?」
「できへん!!」
「正直でよろしい」
寧々、勝ち誇った顔。
秀吉、負け犬の顔。
(だめだ)
(このままじゃ、俺の理性が……)
秀吉は深呼吸して、強引に話題を変えようとした。
これは戦術や。伏見の男の生存戦略や。
「……なぁ寧々」
「ん?」
「夢とか、ある?」
寧々が一瞬止まった。
そして、ニヤッと笑う。
「夢? あるで」
「ほら、そういう真面目な話しよ」
「うちの夢、秀吉と――」
「待て待て待て!!」
秀吉、即ツッコミ。
寧々、ケラケラ笑う。
「冗談やって。顔真っ赤やん」
「冗談の火力が強いねん」
「強火が好きや」
「料理ちゃうねん!」
秀吉は咳払いして、真面目モードに持ち込む。
「いや、ほんまに。高校卒業したらとかさ」
「うん」
「来年から、大学のほう、新設の学部できるらしいやん」
「張り紙あったな」
秀吉は、急に目を輝かせた。
恋の話題から逃げるための“夢”やったはずが、
気づけば本音のスイッチが入ってもうた。
「規模でかい学部らしいねん。
農学部の中でも、バイオ酒蔵科みたいな。
杜氏を科学でやるやつ。発酵とか酵母とか、温度管理とか――」
語り出すと止まらへん。
秀吉の“好き”は、言葉になると強い。
「俺さ、サッカーは……膝で無理やったやろ」
言葉が少しだけ落ちる。
でも、すぐ持ち直して、笑う。
「せやけど、酒は継がなあかん。
継ぐなら、ちゃんと強くなって継ぎたいねん。
感覚だけやなくて、理屈も。
負けへん伏見を作りたい」
寧々は黙って聞いてた。
からかう顔やない。
真剣な目で、秀吉を見てる。
「……秀吉」
「ん?」
「今の、めっちゃ格好ええ」
「やめろ、褒めるな」
「褒めたる。うちは褒めたら伸びるタイプやけど、秀吉も伸びるで」
「俺は今、縮んでる」
「何が?」
「理性が」
「理性、また言う」
寧々が笑ったあと、ふっと声を柔らかくする。
「でも分かる。
好きなもんに真剣な人、うち好き」
「好き言うな!」
「言うたる」
秀吉は、慌てて続ける。
理性復活のための第二弾。話題を広げる作戦。
「ほな、寧々は?
卒業したら、どうしたい?」
寧々が指を顎に当てて、わざとらしく考える。
「うち?」
「うん」
「うちはなぁ……」
寧々が、ちらっと秀吉を見る。
その目が、悪い。
“絶対に逃がさへん”って目。
「……和装学科、行きたい」
「お、伝統工芸の?」
「うん。
十二単――いや、じゅうにひとえ。
あれをちゃんと作れる人になりたい」
寧々の声が、少しだけ誇らしげになる。
笑いよりも、芯が見える声。
「色の合わせ方とか、布の重なり方とか。
うちは、ずっとミシン踏んできたし」
「寧々、ほんま手先器用やもんな」
「器用っていうか、執念」
「執念言うな」
「執念や。可愛いだけの女ちゃうで」
その言葉に、秀吉は少しだけ笑った。
「……せやな。寧々は、強い」
「当たり前や。東山の女やし」
「東山の女、強そう」
「強いで。ぶぶ漬け出すぞ」
「脅しやろ」
「愛情表現や」
――ここで、秀吉の理性がちょっと戻った。
夢の話は、安全地帯。
未来の話は、恋の火から距離を取れる。
(よし……)
(今なら、勉強に戻れる……)
秀吉は、問題集を指さした。
「ほな、続きや。ここ、サインの応用」
「うん」
寧々は、素直に頷いた。
……一瞬だけ。
次の瞬間、寧々が、にこっと笑って言う。
「でもな、秀吉」
「……何」
「夢の話してたら、理性戻る思たやろ?」
「……」
「甘いわ」
寧々が、さらっと秀吉の腕に絡む。
軽い。
でも、確実。
「うちの夢の中には、秀吉おるし」
「入れるな!」
「入れたる」
「強引すぎる」
寧々が、机の上のペンをトントン叩く。
「ほな、質問」
「……何」
「秀吉の未来に、誰がおるん?」
秀吉の理性が、さっき戻ったぶん、また音を立てて崩れ始めた。
(あかん)
(夢の話も、結局恋に繋がる)
(京都の恋、逃がさへんやつや)
寧々は、悪い顔で笑う。
「答えんでもええ。
でもな、覚えといて」
指先が、秀吉の手の甲に、ちょんと触れた。
「うちは、そこに入る気満々や」
秀吉は、単語帳より難しい問題を前に、
また小声で呟く。
「……理性を保て……」
「もう無理やで」
寧々が笑う。
秀吉が呻く。
GW二日目。
夢の話で逃げ切るつもりが、
未来ごと包囲されてしまった伏見男子であった。
――つづく。




