第37話 二人きりのサイン・コサイン 〜理性、崩壊カウントダウン〜
――GW・錦市場 伏見酒造店/秀吉部屋――
錦市場のざわめきが、二階の部屋までかすかに上がってくる。
観光客の笑い声。
「おおきに〜」と誰かの声。
甘い出汁巻きの匂い。
その上で、今、もっと甘い匂いがしている。
「なあ、秀吉」
横から、黒髪ロングがさらりと揺れた。
高台寺寧々、附属幼稚園からのエリート京女。
附属桂川中でも、まつと双璧と呼ばれた可愛い女。
今、俺の部屋で、俺の横に、ぴったり座っとる。
(近い)
(距離、バグってる)
(社会的距離ゼロや)
「……なんや」
「二人きりやからな」
「それ、さっきから何回言うねん!」
「大事なことは二回言うって言うやろ?」
「三回目や!」
寧々、くすっと笑う。
目が三日月。
あかん、あれは武器や。
机の上には数学の問題集。
ページは「三角比」。
「ほな、サイン・コサインやろか」
「……お、おう」
「タンジェントもいく?」
「いくけど!」
寧々、ぐっと寄る。
肩が触れる。
いや、もう触れとる。
(あかん)
(いい匂いする)
(なんやこの匂い、シャンプーか?柔軟剤か?恋か?)
「秀吉、鼻鳴らしてへん?」
「鳴らしてへん!」
「鳴らしてる」
「鳴らしてない!」
寧々、ノートを指さす。
「ここな。サインθは、対辺/斜辺やろ?」
「……おう」
「コサインは?」
「隣辺/斜辺」
「タンジェントは?」
「対辺/隣辺」
「ほなな」
寧々がじっと見る。
「うちと秀吉の距離は?」
「問題変えるな!!」
寧々、爆笑。
「ほら、秀吉顔赤い」
「赤くない」
「赤い」
「数学のせいや!」
「三角関係のせいやろ?」
「うまいこと言うな!!」
寧々、机に肘をついて、横顔でこっちを見る。
伏し目がち。
黒髪が頬にかかる。
(あかんあかんあかん)
(考えるな)
(数学や)
「サイコサインタンジェント……」
秀吉はぶつぶつ唱え始めた。
「なにそれ」
「呪文や」
「陰陽師か」
「理性守る式神や」
「式神弱そうやな」
寧々、さらに距離を詰める。
「秀吉」
「……何」
「うち、附属中でもまつと双璧やったやろ?」
「自分で言うな」
「事実や」
「……まあな」
「可愛いって、よく言われる」
「……うん」
「秀吉は?」
「な、何が」
「可愛い思わへんの?」
(地雷や)
(これ踏んだら爆発や)
「……可愛い」
言うてもた。
小声やけど。
寧々、一瞬止まる。
そして、ふわっと笑う。
「聞こえへん」
「聞こえてるやろ!」
「もう一回」
「言わん!」
「言わんかったら、近づくで?」
「脅迫や!」
寧々がぐっと寄る。
肩が完全接触。
太ももも、ぎりぎり触れそう。
「……可愛い」
「よろしい」
満足そうに頷く。
ほんま、勝負師や。
「秀吉」
「……」
「理性崩壊してへん?」
「してへん」
「してる」
「してへん」
「してる顔しとる」
秀吉はノートを掴んだ。
「サイコサインタンジェント……」
「もうええって!」
寧々、笑いながらも、ふっと真面目な顔になる。
「なあ」
「……何」
「うち、本気やで」
空気が変わる。
さっきまでの軽いノリが、少しだけ深くなる。
「勉強もな」
「そっちかい!」
「なに期待したん?」
「してへん!」
「してたやろ?」
「してへん!」
寧々、肩をぶつけてくる。
「秀吉、鈍感やけど、優しいやん」
「普通や」
「普通ちゃう。うちにとっては特別や」
心臓が跳ねる。
ほんまに、危ない。
「サイコサインタンジェント……」
「逃げるな」
「逃げてへん」
「逃げとる」
寧々が、そっと机の下で指を絡めてきた。
恋人繋ぎまではいかん。
でも、確実に触れてる。
「……なあ」
「……何」
「今日、二人きりやろ?」
「……うん」
「うちのターン、もうちょい続けてもええ?」
秀吉、深呼吸。
「……勉強終わってからな」
「ほな、急ぐわ」
問題集をめくる音。
外からは錦市場の賑わい。
上では、伏見男子の理性が、ミシミシ鳴ってる。
「秀吉」
「……」
「好きやで」
小さく。
でも、はっきり。
「……サイコサインタンジェント……」
「それ、もう効いてへん」
寧々、にっこり。
GW二日目。
数学の公式よりも、恋の方程式のほうが、はるかに難しい。
そして伏見の男は、今日も理性を守れるのか。
――つづく。




