第36話 二人きり、部屋に誘導。理性が迷子の伏見男子
――GW・錦市場 伏見酒造店/秀吉実家 台所兼食堂→秀吉部屋――
台所兼食堂。
夕方の光が差し込んで、湯呑みの影が長く伸びてた。
でも秀吉の心の影のほうが、もっと長い。
(あかん……今日の寧々、ギア上がってる)
(竜子もまつもおらん日、完全に無双モードや)
秀吉は、机の上の英単語帳を見つめるふりをして、現実から逃げていた。
単語帳は裏切らへん。
寧々は裏切らへんどころか、正面突破してくる。
「なぁ秀吉」
寧々が、机に肘をつく。
「……何」
「台所、なんか落ち着かへん」
「落ち着かへんのはお前やろ」
「ちゃうって。台所って、なんか生活感強すぎてさ」
「生活しとる家やしな」
「部屋、行こ?」
秀吉が一瞬フリーズした。
(部屋……?)
(俺の……?)
(え、あかん、これはイベント発生や)
「いや、部屋は……」
秀吉は理性を呼び戻すために、呪文を唱えた。
「理性を保て……理性を保て……」
「何それ、また陰陽師やん」
「ちゃう!護符や護符!」
「護符、効いてへん顔しとるで?」
寧々がニヤッと笑って、椅子を引いた。
「ほな、部屋行こ」
「いや、まだ勉強……」
「勉強するために行くんやん?」
「……まあ、そうやけど」
「ほな決まり」
寧々、普通に正論で殴ってくるタイプやった。
怖い。可愛い。怖い。
「ちょ、待て。俺、片付け……」
「ええって。あとでやれば」
「……」
秀吉が立ち上がった瞬間――
寧々が、さらっと手を伸ばしてきて。
ぎゅっ。
秀吉の手を掴んだ。
「……っ!?」
「二人きりやからな」
「言うな!」
「言うたる」
「言うたら意識するやろ!」
「意識させたいねん」
寧々、完全に攻め。
秀吉、完全に守り。
いや、守れてへん。もう崩れてる。
「寧々、手……」
「離さへん」
「なんで」
「逃げるから」
「逃げへん!」
「逃げてる顔しとる」
「してへん!」
「してる!」
寧々が一歩前に出る。
距離が近い。
近すぎる。
「秀吉」
「……何」
「据え膳食わぬは男の恥、って言葉知ってる?」
「知ってるけど!」
「ほな、恥かいたらあかんやろ?」
「それ、今ここで使う言葉ちゃう!」
「使えるやん。二人きりやし」
「二人きり言うな!!」
秀吉は、心の中で叫ぶ。
(誰か!)
(まつ!ツッコミに来て!)
(竜子!静かに止めて!)
(おかん!今こそ店から上がってきて!)
誰も来ない。
二人きり。
寧々が手を引く。
「行こ」
「……行く」
「よろしい」
こうして、伏見男子は、理性を抱えたまま階段を上ることになった。
抱えてるつもりで、もう落としかけてるけど。
■ 秀吉部屋:再開、勉強会(※本当に勉強する気はある)
秀吉の部屋。
男子高校生の部屋って、だいたい「見せたくない」が詰まってる。
漫画が積んである。
サッカー雑誌がある。
ギターが壁に立てかけてある。
なぜか筋トレ用のチューブが転がってる。
あと、空のペットボトル。
「……散らかってるやろ」
秀吉が小声で言う。
「男子の部屋って、こんなもんやろ」
「偏見や」
「事実や」
「うるさい」
寧々は、勝手にずんずん入って、机の横に座った。
しかも――
秀吉の真横。
「……そこ?」
「そこ」
「もっと向こう空いてる」
「嫌」
「嫌て」
「近いほうが、教えやすい」
「教えるの俺やぞ」
「教えられるのうちやぞ」
「なら余計離れろ!」
寧々は、にやっと笑う。
「秀吉、いい匂いする」
「は!?」
「酒蔵の匂い、ちゃうな」
「ちゃうんかい」
「うん。なんか……洗剤と、ちょっと甘い匂い」
「それ、柔軟剤やろ……」
「好き」
「好き言うな!!」
秀吉の理性、ぐらっと傾く。
人間、好きって言われたら弱い。
しかも、寧々の“好き”は、軽くない。
重い。真っ直ぐ。逃げ場がない。
寧々が、教科書を開く。
「ほな、英語な。昨日ここやったやろ?」
「……お、おう」
「“future”」
「未来な」
「未来って、何」
「何って……」
「うちと秀吉の未来」
「未来を単語で解くな!!」
寧々、笑う。
秀吉、赤くなる。
その赤さを隠そうとして、逆に挙動不審になる。
「……秀吉、顔赤いで」
「赤くない」
「赤い」
「照り焼きみたいに言うな」
「照り焼きは昨日や。今日は……」
寧々が目を細める。
「……恋の色」
「言い方ァ!!」
秀吉の喉が鳴った。
心臓がうるさい。
頭は英単語どころじゃない。
寧々は、ふっと真面目な顔になる。
「秀吉」
「……何」
「うちな、ほんまに」
「……」
「好きやねん」
真っ直ぐ。
冗談のテンポじゃない。
逃げられへんやつ。
秀吉は、目を逸らしてしまった。
逸らした瞬間、寧々の手がそっと、机の上で秀吉の指に触れた。
「……逃げんといて」
「逃げてへん」
「逃げてる」
「……」
秀吉の理性が、薄い氷みたいにミシミシ鳴る。
寧々は、その音を聞いて、さらにギアを上げた。
「二人きりやからな」
「また言う!」
「言うたる。今日だけやし」
「今日だけって何」
「今日だけは、うちのターン」
寧々がぐっと寄る。
肩が触れそう。
いや、もう触れてる。
「……ええ匂い」
「やめろ」
「やめへん」
「理性が死ぬ」
「死なせたる」
「殺すな!」
寧々はくすっと笑って、でも目は本気。
「惚れさせたるって言うたやろ」
「……言うたな」
「今、順調に理性崩壊中やで?」
「……崩壊してへん」
「してる」
「してへん」
「してる!」
寧々が、最後に小さく囁く。
「据え膳、食べへんの?」
「食べるとかちゃう!!」
「ほな、何」
「……勉強や!!」
秀吉は、勢いよく単語帳を開いた。
開いたページは、全然頭に入ってこん。
横にいる寧々の熱だけが、
英単語よりもくっきり、胸に入ってくる。
GW二日目。
伏見男子の理性は、今日、限界を迎えそうやった。




