第35話 二人きりの伏見、理性は酒粕より溶けやすい
――GW・錦市場 伏見酒造店/秀吉実家 台所兼食堂――
朝。
錦市場はもう人が多い。GWってだけで、京都は「観光客の胃袋」になってまう。
伏見酒造店の二階、秀吉の部屋。
秀吉は机に向かって座ってた。参考書を開いてる。開いてるだけ。
スマホが震えた。
【まつ】
『今日、無理! 実家のかぶきもの、地獄。昼ピークやばい。寧々頼む!』
「……地獄って言うなや、まつ」
秀吉が呟く。
まつの地獄はラーメンの地獄。
秀吉の地獄は、これから始まる。
次に震えた。
【竜子】
『今日は家族でオリックスの試合行きます。ごめんなさい。勉強、頑張って』
「……オリックス、ええな」
秀吉が遠い目をする。
そして、最後に気づく。
――今日、来るのは。
(寧々だけ)
秀吉は息を吸って、吐いて、腹を括った。
「理性を保て……理性を保て……」
小声で呪文を唱える。
「男やろ、羽柴秀吉。伏見の男やろ……」
自分を鼓舞する謎理論、今日も健在。
そこへ階段の音。
ドン、ドン、ドン。元気な足音。
――足音がもう、うるさい。
「おはよーさん!!」
扉が勢いよく開いて、寧々が入ってきた。
カバンには例のパーサくんとコトノちゃんがぶらぶら揺れてる。
それがもう、胸に刺さる。
「……おはよ」
「何その顔。しんどそうやん」
「いや、元気」
「嘘つけ。顔が“逃げたい”」
「逃げへん!」
「えらい。ほな惚れさせたる」
「急に何言うてんねん!!」
寧々、ニヤニヤ。
秀吉、即死寸前。
■ 二人きりの勉強会(※名目)
台所兼食堂。
テーブルに参考書を並べる。
椅子は二つ。
距離が近い。物理的に。
(近い……)
(近いのはしゃあない……)
秀吉はまた呪文を唱える。
「理性を保て……理性を保て……」
「何それ、陰陽師?」
「ちゃう。自分を守ってる」
「守らんでええ」
「守る!」
「守るって何から?」
「……寧々から」
「は? うち、災害みたいに言うなや」
「災害や」
「ほな京都市に申請しとき。『寧々災害警報』って」
「絶対嫌や!」
寧々が教科書を開く。
「ほな、英語やろ」
「うん……」
「昨日、まつに“恋愛は国語や”言われてたけど、今日は英語で攻めるわ」
「攻めるな」
「“love”やな」
「やめろ!」
寧々はわざとらしく、ペンでノートに書く。
「L・O・V・E」
「スペルは分かる!」
「意味も分かってる?」
「……分かってる」
「言うてみ?」
「言わん」
「ほら、理性」
「理性ちゃう、照れ」
「照れは罪やで」
「どんな法律や」
寧々は、机の上に頬杖をついた。
その姿が、やたら可愛い。
秀吉は視線を外して単語帳をガン見する。
(単語帳は裏切らへん)
(単語帳は俺を刺さへん)
寧々が、さらっと言う。
「秀吉ってさ」
「ん?」
「女子に優しすぎるやん」
「普通や」
「普通ちゃう。ほんま、無自覚に点取るやん」
「サッカーの話?」
「恋の話!!」
「やめろって!」
寧々は笑いながら、でも目は真剣や。
「うちな、今日、まつも竜子もおらんから」
「うん」
「遠慮せんでええ日やと思ってる」
「え、何が」
「全部」
「全部って何」
「全部は全部や」
秀吉は背筋が伸びた。
(やばい)
(これは、やばい)
■ 寧々、理性を崩壊させに来る
寧々は立ち上がって、冷蔵庫を開けた。
「秀吉、なんか飲む?」
「水でええ」
「水は味気ないやろ。ほな、甘酒」
「いやいや、朝から甘酒は」
「伏見の家で甘酒拒否すんなや」
「拒否してへん! ただ……」
「ただ?」
「……寧々が作る甘酒、危険な気がする」
「は? うちの甘酒に何入れる思てんの」
「惚れ薬」
「入れへんわ!!」
寧々は笑いながらコップを二つ出して、甘酒を注ぐ。
ふわっと酒粕の香り。
甘くて、あったかい。
「はい、乾杯」
「朝から乾杯すな」
「勉強会の開会式や」
「開会式、やめて」
寧々はコップを口に運んで、わざとらしく言う。
「……んー、うま」
「……普通に飲め」
「秀吉も飲んで?」
「飲むって」
秀吉が飲む。
甘い。
あったかい。
胃がほっとする。
「……うまい」
「やろ?」
「……うまい」
「もう一回言うて」
「言わん!」
寧々が、急に距離を詰めてくる。
「なぁ」
「な、なん」
「うちのこと、どう思ってる?」
「え」
「今、まつも竜子もおらん。逃げ道ないで」
「逃げ道って何」
「男なら答え」
秀吉は、喉が渇く。
甘酒なのに。
「……好き、とか」
「うん」
「簡単に言えへん」
「なんで」
「軽くしたくない」
その一言に、寧々の顔が一瞬だけ止まった。
それから、ふっと笑った。
「……ずるいわ、秀吉」
「何が」
「そういうとこ。優しいとこ」
「優しいだけや」
「優しいだけで人は惚れるんやで」
「惚れるな」
「無理」
寧々は、袖をぎゅっと掴む。
泣きそう、でも笑ってる。
「うち、今日な」
「うん」
「理性、崩壊させるつもりで来てる」
「俺の?」
「うちのも」
秀吉は、思わず顔を逸らした。
耳が熱い。
心臓がうるさい。
(理性……どこや)
(伏見の男……どこや)
寧々は、にやりと笑って宣言する。
「惚れさせたる。今日で一段階進めたる」
「何のゲームや」
「恋愛RPG。秀吉は主人公。うちはラスボス」
「ラスボス言うな!」
「倒されへんよ?」
「倒すとかちゃう!」
寧々が机に教科書を置き直した。
「ほな、勉強続きや。
中間テスト落ちたら、恋も終わるし」
「恋を人質にすな」
「人質ちゃう。京都の現実や」
秀吉は、単語帳を開いた。
でも、文字が頭に入ってこん。
目の前にいるのは、
英単語より難しいやつ。
高台寺寧々。
そして今日、二人きり。
2日目にして、いちばん危険な日が始まってしまった。




