第30話 御茶屋の娘の恋の戦い ――竜子基準――
勉強会初日。
伏見酒造の二階を出た瞬間から、京極竜子の心臓は、ずっと一定のリズムを失っていた。
(……落ち着け)
(落ち着け、うち)
烏丸駅へ向かう道。
夜の京都は観光客も減り、石畳は少し湿って、街灯の光がやさしい。
本来なら息が整う夜やのに、今日はちゃう。
寧々が泣いていた。
あの子の涙は、強い。
強い涙ほど、見ていて胸が痛む。
自分も言うた。
静かに。
でも、確かに。
『大事です』
『離れたくない』
言葉は少ないほうがええ。
御茶屋の娘は、そう教えられてきた。
――けど。
(……ほんまに、それでよかったんかな)
竜子は歩きながら、制服の袖口をきゅっと握った。
爪が布に当たる。
自分の恋は派手に燃えへん。
炭火みたいに、じわじわと熱くなる。
せやけど今日は、はっきり分かる。
自分の中で、何かがぱちっと音を立てた。
(……寧々)
(あの子、すごい)
まっすぐで、押しが強くて、声がでかい。
ボケて、ツッコまれて、笑って。
でも肝心なとこでは、逃げへん。
(……好きって言えるの、強い)
阪急のホームで立ち止まる。
電車が来て、扉が開く。
いつもの匂い。いつもの風。
窓に映る自分の顔は、平気そうに見える。
(……ほんまに?)
胸の奥は熱く、喉の奥は少し苦い。
(明日の朝……)
(秀吉に、どんな顔したらええんやろ)
言うてもうた。
戻れへん。
“何もなかった”には、できへん。
でも、押したくない。
押したら壊れそうや。
秀吉は鈍感や。
けど、鈍感なだけで雑やない。
真面目に受け止める人や。
(せやから……しんどい)
真面目な人ほど、悩む。
悩む人ほど、決めるのが遅い。
――それを待つのは、慣れてるはずやのに。
(恋は……慣れてへん)
烏丸で降りて、家へ向かう。
夜の下京は、餡を炊く匂いと焼き鳥の煙が混ざる。
(……今日、試合や)
嫌な予感は、だいたい当たる。
■ 京極家・夜の戦
「ほら見い! 阪神の粘りや!!」
「はぁ!? オリックスの継投の美学見なさい!!」
玄関を開けた瞬間、音量が殴ってきた。
「……ただいま」
返事はない。
六甲おろしとオリックス応援歌が混ざる、関西地獄の交響曲。
(……うるさい)
父・宗虎。
裏千家家元。世間では“静”の人。
家では完全に別人。
「審判!! それストライクやろ!!」
「ちゃんと見て!! オリックスの命やで!!」
竜子はそっと部屋へ逃げる。
襖を閉めても、声は貫通してくる。
(……戦場、二つあるやん)
布団に座って、深呼吸。
■ 寧々の涙が刺さる
目を閉じると、寧々の泣き顔が浮かぶ。
袖で拭いた涙。
恋が、布に跡を残していた。
(……分かる)
言葉にした瞬間、戻れへん怖さ。
気持ちを出した瞬間、相手が遠くなる不安。
(強いのに)
(強いから、泣くんやろな)
竜子は胸に手を当てた。
自分も泣きたい。
でも、今ちゃう。
御茶屋の娘は、
「泣くなら誰にも見せへんように」
そう育てられる。
(……でも恋は、隠れへん)
火が大きくなる。
炭火は派手やない分、消えへん。
■ 明日の朝
鏡の前に立つ。
襟を直し、髪を整える。
目だけが、少し違う。
(……恋の目、してる)
悔しい。
でも、嘘にはしたくない。
(……押さへん)
(でも、引かへん)
静かに戦う。
御茶屋の娘のやり方で。
寧々が花火なら、私は炭火。
花火は一瞬で心を奪う。
炭火は、じわじわ温める。
(……秀吉)
(気づくん遅いけど)
遅い人ほど、
気づいた時、深い。
布団に潜り込む。
襖の向こうでは、まだ阪神とオリックスが戦ってる。
(……ほんまに、うるさい)
でも、そのうるささが、どこか安心でもある。
(うち、負けへん)
(でも、寧々のことも嫌いやない)
京都の恋は、相手を潰す戦いやない。
相手の心を、奪う戦いや。
明日の朝。
鏡の前で一度だけ深呼吸して、
いつもより少しだけ優しい顔で、
でも、いつもより少しだけ強い目で――
秀吉を見よう。




