第10話 天橋立臨海学校・初日朝 ――その席は譲れへん。パーサ君とコトノちゃん、そして“三回目”の奇跡
朝五時半。
目覚ましが鳴る前に、高台寺寧々は目ぇ覚めていた。
「……よし」
布団の中で、小さく拳を握る。
今日は天橋立。
二泊三日。
臨海学校。
そして――
バスの席取りという名の、絶対に負けられへん戦。
(負ける理由、どこにもあらへん)
起き上がり、鏡の前。
寝癖を直して、髪を結ぶ。
一回失敗して、結び直す。
「気合い入りすぎやって?
……うるさいわ。今日は勝負の日や」
誰もおらん部屋で、一人ツッコミ。
机の上のカバンに手を伸ばす。
荷物は昨日の夜に完璧に詰めた。
着替え、タオル、洗面道具。
おやつは――まつに没収される未来が見えるから、控えめ。
そして、カバンの横。
小さく揺れる、二つのマスコット。
パーサ君。
コトノちゃん。
京都サンガの公式マスコット。
……せやけど、寧々にとっては、それ以上の存在や。
「……行こか」
そっと手に取る。
少し色あせた布を、指でなぞる。
(あの時のまんまやな)
◆ 三回目のこと
――気づいてへんのは、あんたや
小学六年生。
春。
鴨川。
三回目やった。
一回目も、二回目も、
助けてくれたんは、同じ男の子。
サッカー帰りで汗だく。
膝にはテーピング。
それでも相変わらず、名前も名乗らん。
その日、寧々は泣いてた。
理由?
今さら覚えてへん。
ただ、怖くて、悔しくて、
世界が全部、敵みたいに見えただけ。
「……なんで、こんな目に……」
声が震えて、止まらんかった。
「……おい」
その声。
顔を上げると、
そこには、いつものサッカーユニフォームの男の子。
(また来た)
寧々は心の中で、そう呼んだ。
――ヒーロー。
秀吉はしゃがみ込んで、困った顔をした。
「……なんで泣いてんねん」
「……うるさい……」
少し考えてから、
秀吉はカバンをゴソゴソ探り出す。
「ちょい待て」
出てきたのが――
パーサ君とコトノちゃん。
「この前な、試合見に行った時にもろてん」
ちょっと誇らしげに言う。
「サンガのマスコットや」
(……なにそれ)
秀吉は続けた。
「泣き止まへん時はな、
こういうん渡すんがええって、
ばあちゃんが言うてた」
(どこのばあちゃんの知恵やねん)
でも。
秀吉は、寧々の手に、そっと置いた。
「ほら。
これ持ってたら、あんま怖ないやろ」
ぎゅっと握った瞬間、
不思議と、涙が止まり始めた。
「……あ」
「ほらな」
満足そうに笑う。
「また泣きそうになったら、
ぎゅーってしとけ」
「……返さへんで?」
「ええよ」
何も考えてへん顔。
ただの善意。
ただの優しさ。
――せやのに。
(うちは、その瞬間、
一生分、恋してしもたんや)
落ち着いたのを確認したら、
秀吉は、いつもの一言だけ残して去っていった。
「ほな、気ぃつけて帰れよ」
名前も聞かへん。
連絡先も知らん。
また会う約束もせえへん。
三回目。
寧々にとって、
決定的な三回目。
◆ 現在・四月 桂川高校前
「……よし」
回想から戻って、
寧々はマスコットをカバンに付けた。
左右に一個ずつ。
パーサ君とコトノちゃん。
(今日も、守ってな)
すでにバスが二台、校門前に止まってる。
「はよ来すぎやろ!」
後ろから、まつの声。
「戦は準備が九割や」
「それ、臨海学校で言う言葉ちゃう!」
呆れ顔のまつ。
「……また、あれやな」
「なにや」
「秀吉の隣」
「しーっ!!」
その瞬間。
「おはよー!」
秀吉と利家が来た。
寧々の心拍数、跳ね上がる。
「おはよ、秀吉くん」
「おはよ」
秀吉の視線が、カバンに止まる。
「……それ、サンガやな」
「せやで」
「パーサ君とコトノちゃん」
「ええな」
「せやろ」
たったそれだけ。
それだけで、胸が温なる。
(気づいてへんやろな。
これ、あんたがくれたもんやって)
少し離れたところで、竜子が見ている。
何も言わへん。
でも、視線は鋭い。
(……今日は、退かへん)
◆ バス、出発
「乗ってええでー!」
先生の声。
「今や!」
寧々、即ダッシュ。
狙いは前から三列目、右側。
座る。
荷物置く。
「……よし」
秀吉が乗ってきて、目が合う。
「隣、空いてるで?」
「え、ええん?」
「当たり前やろ」
座った。
(勝った)
心の中で、ガッツポーズ。
(パーサ君、コトノちゃん、
今日もありがとう)
バスが動き出す。
京都の街が、ゆっくり後ろへ流れていく。
「……天橋立、楽しみやな」
「うん」
寧々は、カバンをぎゅっと抱えた。
マスコットが、小さく揺れる。
(あんたは覚えてへん)
(でも、うちは全部覚えてる)
三回助けてくれたこと。
泣き止ませてくれたこと。
何気なく渡した、このマスコット。
それは、
寧々の宝物。
「……なあ、秀吉くん」
「ん?」
「この三日間、よろしくな」
「おう、よろしく」
その何気ない返事に、
また、恋をする。
天橋立へ向かうバス。
初日の朝。
この恋は、まだ誰にも気づかれてへん。
――気づいてへんのは、
一番大事な本人だけや。




