第九十八話 審判と炎
【須藤香苗】
その化け物の顔は、まるで精巧な作り物のように動かない。
ただ、その瞳だけが、何かを激しく訴えかけるかのように。
そう、欠落した何かを必死に求めるように、じっとこちらを見つめてくる。
私はその視線に射すくめられ、蛇に睨まれた蛙のように体が動かない。
──ダメだ。食われる。
思考よりも先に、本能がそう告げた。
細胞のひとつひとつが、死を予感して震えている。
──でも、これは仕方のないことなんだ。
不意に、そんな諦めが頭をよぎった。
私、それだけのことをしたんだ。
ううん……「何もしなかった」んだ。
二人を止めるチャンスは、いくらでもあったはず。
あんな怪しげな魔術に手を貸す前に、もっと強く拒絶すればよかった。
そして、消えてしまった真田君。
彼を見つけ出すために、私にできることはもっと他にたくさんあったはずだ。
警察に駆け込めばよかった。
学校に、友達に、みんなに真実を伝えて助けを求めればよかった。
もっと早く大山君に相談していれば、何か変わっていたかもしれない。
なのに、私は何もしなかった。
ずっと、見て見ぬふりをしてきたんだ。
自分の保身ばかりを優先して、泥沼から足を抜くことだけを考えて……。
結局、大切な人を、自分自身を、救おうともしなかった。
あー、そうか。ここで終わりなんだ。
私の人生は、何もしないまま、ここで幕を閉じるんだ。
絶望が思考を塗りつぶした瞬間。
化け物と化した“先生”が、泥のような色の手を伸ばして私の肩を掴んだ。
そして、その醜悪な口をバクリと大きく開く。
視界に飛び込んできたのは、糸を引いて粘りつく唾液と、黄ばんだ歯の列。
──食われる。
あまりの恐怖に、私はぎゅっと目を瞑った。
けれど。
「カナちゃん!」
鼓膜を叩く鋭い叫び声。
同時に、猛烈な力で体が横へと引っ張られた。
「さあ、立って! 逃げるのよ!」
サキコちゃんだ。
彼女は私の腕を掴んで引き寄せ、必死に叱咤する。
けれど、そんな彼女の腕を、今度は“木下”だったモノがガシリと掴んだ。
「さわんないで!」
サキコちゃんが迷わず相手を蹴り上げる。
ズン、という重い衝撃音。
木下もどきは体がふわりと浮くほどの衝撃を受け、背が高いせいで「くの字」に折れ曲がった。
だが、執念深いその手は、サキコちゃんの腕を離そうとしない。
彼女は強引に腕を振り払った。
バリッ、と嫌な音がして制服の袖が破れ、サキコちゃんの白い肌が露わになる。
そこへ、再び奴の爪が伸びた。
柔らかな肌を、鋭い爪が切り裂く。
サキコちゃんの白い腕に、鮮やかな赤い線が走った。
ツッゥ──。
彼女は苦痛に顔を顰めながらも、怯むことなく体ごとぶつかり、奴を強引に押し倒した。
「さあ、今のうちに逃げて!」
その強い視線に射抜かれ、私は足をもたつかせながら後ずさる。
「まだやり直せます! こんなところで諦めないで!」
彼女の一喝。
それは、私の全身に電撃が走るような衝撃を与えた。
停滞していた私の心が、無理やり震わされる。
「さあ、立ち上がって!」
サキコちゃんは近くに落ちていた鉄パイプのような棒を拾い上げると、必死に振り回した。
“先生”と“木下”もどきは、サキコちゃんを挟み撃ちにする形で、虎視眈々と食いつく隙を狙っている。
「でも……サキコちゃんが……っ」
「いいから早く! できるなら、誰かを呼んできて!」
彼女が叫ぶ。
その時、私のポケットでスマホが激しく震え、床へと滑り落ちた。
直後、静寂を切り裂くような大音量の警告音が鳴り響く。
思わず視線を落とした画面には、血のような赤地に白い文字で、大きくこう表示されていた。
『早くそこを出て!』
スマホの音に反応し、“先生”と“木下”が首を「あり得ない角度」でグルンと回した。
濁った瞳がこちらを向く。
私は悲鳴を飲み込み、スマホをひったくるように拾い上げると、出口のスロープに向かって全力で走った。
「誰か! 誰か助けて!」
無我夢中で、握りしめたスマホに向かって叫んでいた。
すると、スピーカーから聞き慣れない声が答える。
それは、どこか幼い、少女の声だった。
『……電波状態が安定しないの! 早くそこを出て!』
背後でサキコちゃんが棒を振るう音が聞こえる。
何かを叩く鈍い音。
化け物の唸り声。
サキコちゃんの息づかい。
私は一度も振り返らず、闇の中を駆け上がった。
進路を邪魔するように、わけの分からないカゴや棒が放置されている。
何度もつまずき、転びそうになりながら、泳ぐようにして前へ進んだ。
膝を打ちつけた。痛みが走る。
それでも、止まれない。
ようやく出口の扉にたどり着いたとき。
“先生”と“木下”もすぐ近くまで、足を引きずりながら迫っていた。
『電波がつながったよ! 位置情報を送るね!』
少女の声が叫ぶのが聞こえた。
だけど、そんな声を気にしている余裕なんてない。
縋り付いたドアには鍵がかかっていて、ノブをいくら引っ張ってもびくともしないのだ。
「どうして! 開かない!!」
私は半狂乱でノブをがちゃがちゃと押し戻す。
と、鼻を突く腐敗臭に振り返れば、そこには“木下”が私を捕らえようと、どす黒い手を伸ばしていた。
ズル……ズル……。
引きずる足音が、すぐ背後に。
私はドアに身を寄せ、恐怖で固まった。
そこへ、背後から滑り込んできたサキコちゃんが、木の棒を振り下ろして木下を突き飛ばす。
ゴン、という鈍い音。
木下の体が一瞬ぐらつく。
「カギだよ! 開けて!」
彼女が放り投げてきた鍵を、私は両手で必死に受け止め、鍵穴へねじ込んだ。
けれど、焦れば焦るほど手元が狂う。
手が震えて、鍵がうまく回らない。
何度ひねっても、鍵は刺さったままピクリとも動かない。
「お願い! 開いて……開いてよぉ!」
叫びながら何度も試みる。
汗で滑る手のひら。
頭が真っ白になる。
後ろからは、サキコちゃんの苦しそうな息づかいと、化け物が地面を這いずる音。
サキコちゃんは棒を振り回し、化け物二人を必死に牽制していた。
だが、無情にも振り回した棒を逆につかまれ、彼女は前のめりに倒れ込んでしまう。
「サキコちゃん!」
その上に、木下だったものが覆いかぶさろうと両手を広げた。
白濁した目が、ぎらりと光る。
「だめ! だれか、助けて!!」
私は無意識に、喉が張り裂けるほど叫んでいた。
「──扉から離れて!」
確かにその声が聞こえた。扉の、向こう側から。
「いいから離れて! 開けるよ!!」
その鋭い指示に、私は反射的に扉から体をずらした。
ガイン!
凄まじい衝撃音と共に、ドアノブが一瞬にして吹き飛んだ。
勢いよく蹴破られた扉の向こうから、鮮烈な「赤い炎」が飛び込んでくる。
炎を纏った人影は、瞬く間にサキコちゃんのもとへ駆け寄り、木下を蹴り飛ばすと、彼女の手を優しく引いた。
「無理しすぎだよ。無事かい?」
男は赤く燃える剣を片手に、サキコちゃんを見守る。
その背中からは、まるで陽炎のように赤い炎が立ち上っていた。
サキコちゃんは、まだ戦いが終わってもいないというのに、なぜかすべてが解決したかのような安堵の表情を浮かべて、男に告げた。
「遅刻ですよ……ヤマさん」
その言葉には、安堵と、少しだけの責めるような響きがあった。
でも何より──彼女は、確かに微笑んでいた。
それは、彼女と会ってから初めて見る表情だった。




