第九十五話 始まりの放課後
その日は朝から、どんよりとした雲が空一面に立ち込めていた。
それだけで気分が重くなるのに、こんな日に限って、決まって気の滅入る話が舞い込んでくる。
昼休み。
沈む気分を抱えながら、机に突っ伏してうとうとしていると、ガタンという派手な音で目が覚めた。
顔を上げると、真田が私の前の席に勝手に座り、目をキラキラさせてこちらを覗き込んでいた。
「ねえねえ、カナ。ちょっと手伝ってほしいことがあんだよ。放課後、空いてないかな?」
真田は長く伸びた前髪をたくし上げるようにして、しつこく顔を近づけてくる。
「あんたさー。いくら幼馴染だからって、不用意に顔を近づけないでくれる?
変な噂が流れたらどうすんのよ。それにその髪。そろそろ床屋行きなよ。これ、幼馴染からのありがたーい忠告ね」
私が眠い目をこすりながら答えると、「チェッ、なんだよ!」と真田は不満げに舌打ちした。
「で、何をしてほしいって?」
溜息をつきつつ聞いてやると、真田はまた嬉しそうに目を輝かせる。
「いまハルカといろいろ実験しててさ、それを手伝ってほしいんだよ。
うまくいけば、マジですごいことになるからさ!」
──コイツ。ハルカとつるんでたのか……。
ハルカと私。それに真田ともう一人、別クラスの大山。
私たちはいわゆる「ジモティー」で、幼馴染と言えなくもない腐れ縁だ。
しかもこの四人、幼稚園から始まり小中が一緒。
驚くべきことに高校まで揃って同じ場所に来ちまった。
──ハルカとは最近、ちょっとアレだけど……。
「それって、ハルカが言ってきたの? 私も誘えって」
「そうだよ! なんだかんだ言って、俺らいつも悪巧みの時は一緒じゃん!」
「悪巧みって……やだよ、そんなの。大山はなんて言ってるのよ」
「大山? あいつは誘ってないよ。今は部活で忙しいじゃん」
──なんだよ。私は暇人代表か。
真田はあたりをキョロキョロと見回すと、急に声を潜めた。
「それにさ、ほら、ハルカって大山のことさ……」
「なに? 大山がどうしたの?」
「わかんないかなー、おこちゃまには」
わざとらしく首を振り、真田は席を立つと一方的に言い放った。
「とにかく、放課後に体育館横の倉庫口に集合な! 遅れんなよ!」
嵐のように現れて、嵐のように去っていった。
正直、面倒だし、これっぽっちも行きたくない。
けれど、ハルカの誘いを断ると、後がひどいのは目に見えている。
あの性格だ。絶対、根に持つ。
「なるべく早く済ませて、即効で帰ろ……」
そう一人で呟き、私は再び机に突っ伏した。
▽▽▽
放課後のチャイムが鳴る。
私はできる限りの本とノートをロッカーに突っ込み、少しでも軽くしたバッグを肩にかけた。
身軽にしておいて、隙を見てずらかるための、ささやかな対抗策だ。
教室を出たところで、スマホが震えた。
画面には『僕だよ』の文字。
──こいつ、とうとう表示名まで勝手にいじりだしたか。
溜息をつきながら、スマホを耳に当てる。
スピーカーにしないのは、こいつとの会話を周囲に聞かれたくなかったからだ。
「なによ。あんた、ちょっと図々しいわよ。表示まで変えちゃって」
『何がだよー。心配してあげてんじゃん』
「何の心配よ」
『今から、あいつらのところに行くんでしょ?』
──こいつ、また盗み聞きしてたな!
『行かないほうがいいよ。
あいつらとの縁は、今のうちに切ったほうがいい。このまま帰っちゃおうよ』
「できるならそうしたいっつーの。でも、ハルカの言いつけを破ると後が大変なんだから!」
『殴られるの?』
「殴られはしないけど、学校に居づらくなるわよ。絶対。あの子、執念深いんだから」
『そっかー……』
珍しく声を落とすAI野郎。
プログラムのくせに、まるで本当に私を心配してくれているみたいだ。
『とにかく、何かあったらすぐ逃げなよ。いい?』
「はいはい」
適当に返事をして、通話を切った。
▽▽▽
体育館横の倉庫の扉。
いつもは固く閉じられている錆びついた鉄扉が、今日はわずかに隙間を開けていた。
辺りに人影はない。
恐る恐る中を覗くと、暗いスロープが続いていて、その先は深い闇に沈んでいる。
理由もなく体が震え、そのまま扉を閉じようとした――その時だった。
「遅いじゃん」
背後からかかった声に心臓が跳ねる。
ハルカがいやらしい笑みを浮かべて、私をじっと見つめていた。
その瞳には、威圧と軽蔑、そして私を見下すような色が混ざり合っている。
「さ、行くよ」
有無を言わせぬ口調。
私は「うん……」とだけ答え、後を追った。
暗いスロープを降り、倉庫の扉をくぐる。
黄ばんだ光の中で、真田がせわしなく動いていた。埃っぽい匂いが鼻を衝く。
「できたの?」
ハルカが声をかけると、刷毛を持った真田が勢いよく振り返る。
「ほぼ完成だね。
やっぱスクショしといて正解だったわ。ここ、電波最悪なんだよ」
スマホを操作する真田。
足元には、むき出しのコンクリートに黒い塗料で描かれた、複雑な紋様。
それは漫画や映画で見たことがある、いわゆる『魔法陣』と呼ばれる図形だった。
「なに、これ……」
思わずこぼれた言葉に、真田が嬉しそうに答える。
「昨日さ、ハルカの『シルベ』が、夢が叶う魔法陣の図柄を送ってきたんだよ。それがこれ!」
満面の笑みで語る真田。
その無邪気さが、隣でヘラヘラと笑うハルカの邪悪さを際立たせているようで、私は思わず彼女を睨みつけた。
「何よ」
私の視線に気づき、ハルカは勝ち誇ったように言った。
「真田が最近ツイてないって言うから、教えてあげたのよ。一応、連れだしね」
「一応ってなんだよ!」と真田が笑う。
饐えた倉庫の匂いに、塗料の臭気が混ざる。
香でも焚いているのか、生臭く、ねっとりとした空気が漂っていた。
「できた!
あとは、例の儀式をやるだけだよ」
「儀式って?」
問いかけると、ハルカが淡々と答えた。
「ここと、そこ。それからあっち。
指定された場所に、血を垂らすの」
──血!?
「そう、三か所だよ。だからカナに来てもらったんだ」
真田が長く伸びた髪をわしゃわしゃと掻き回し、語気を強める。
「これで全部うまくいく。僕をバカにしてる奴らも、いつも『可哀想な奴』って目で見てくるセンコー共も、これで見返してやるんだ。復讐してやるんだよ」
吐き出すように言う真田の目は、暗く、どこまでも陰鬱な光を放っていた。
「さ、さっそくやりましょ」
ハルカがポケットから使い古されたカミソリを取り出し、私に手渡してきた。
流れるように進む事態に、私は必死で首を振る。
「ちょ、ちょっと待ってよ。こんな不気味なことやめようよ! そもそもこんなの嘘に決まってるし、血を出すなんて危ないって!」
「何が? ほんのちょっと垂らすだけよ」
「そうだよ。カナは僕がいじめられてるとき、一度だって助けてくれなかったじゃん。なのに、こんな時まで邪魔をするの?」
責める視線。
ハルカは、それを面白そうに眺めている。
「お願いだよ。これが最後のお願い。……僕を助けてくれよ」
常軌を逸している。
そう思う。けれど、目の前の幼馴染の悲痛な訴えを拒めるほど、私は強くなかった。
「……うまくいかなくても、知らないからね」
私は諦め混じりにそう言って、指定された場所に立った。
震える手でカミソリを握りしめ、自分に言い聞かせるようにもう一度口にする。
「それに、こんなことに付き合うのは本当に最後だからね」
私は精一杯の虚勢を張り、震える声でそう告げた。
頭の中では「こんなこと良くない。こんなこと良くない」と呪文のような言葉がグルグル回っていた。
一方で、真田がそんなに悩んでいたことを知らなかった自分を責めてもいた。
──違う。 知ってたけど、見て見ぬふりをしてたんだ。
そう思いながら、薄皮を切るように指に刃を当てる。
ぷっくりと滲んだ血が、床に落ちた。
一瞬の静寂。
──何も起きない。
。
そう思った次の瞬間。
床に描かれた魔法陣が、脈打つような淡い光を発し始めた。




