第九十一話 金づちと膝カックン
【須藤香苗】
「みーつけた」
そこに立っていたのは、ハルカだった。
「何してんの? 私に話があったんじゃないのー?」
コテン、と可愛らしく首を傾げる。
そして、なぜか右手に持った金づちを、左の手のひらにペシ、ペシ、とリズミカルに打ち付けながら微笑んでいる。
──それで、あのネズミを……。
この理不尽な状況に、頭の中に血がカッと流れこむのを感じた。
「コイツ、勝手に勘違いして……!」
怒鳴りつけたい衝動に駆られる。
だが、目の前のハルカの異常な佇まいに、本能が警鐘を鳴らした。
私はストレートな物言いにならないよう、必死に気を落ち着ける。
ハルカとは、幼馴染といってもいい付き合いだ。
幼稚園で初めて会った時には、私より小さくて、泣き虫で、いっつも私の後ろを歩いていた。
ただ、中学校に上がってからは身長がぐんと伸びたせいなのか、いつしかすべてが逆転した。
彼女は急に大人ぶりはじめ、使う言葉さえ変わってしまい、今やカーストトップの存在。
友達だと思っていた私も、他人から見れば単なる「召使い」に見えるだろう程に、関係は変わってしまっていた。
──私は、昔のハルカが大好きだったのに。
とにかく今は、お互いに冷静になるべきだ。
そう自分に言い聞かせ、震える声で私は口を開いた。
「聞いてハルカ! 全部誤解だよ。大山とは偶然コンビニで会って、途中まで一緒に帰っただけだし……」
「ハイハイハイハイ! なに勝手に喋ってんの?
そんなん聞いてねーし、もうどうだっていーし。今はあんたを、コイツで思いっきりぶん殴りたいだけ」
そう言って彼女は、手にした金づちを靴箱の棚に振り下ろした。
ガギィン!
重い金属音が響く。
棚には大きなへこみができ、塗装が剥げて、下地の鉄の鈍い色が露出していた。
ハルカは楽しそうに、まるで「次はあんたの番だよ」と言わんばかりに金づちをこちらに向ける。
その目が、本気で濁っている。
「ねぇねぇ。手、痛くない? ビリビリしてない?」
場違いなほど、のんびりとした声が響いた。
思わず視線を向ける。
東龍院さんは、ハルカの狂気にも動揺する様子もなく、背後から金づちを覗き込むようにして、
「そんなのどっから持ってきたの? 家から? 重くなかった?」
と、矢継ぎ早に的外れな質問をぶつけていた。
気勢をそがれたハルカは、毒気を抜かれたように、迷惑そうな目で彼女を見る。
「せっかく持ってきたから見せびらかしたい気持ちもわかるけど、そういうのは人に向けちゃいけまっせんよー」
したり顔で、東龍院さんが人差し指をチッチッチッと横に振る。
「てめー……先に殺られたいのか!」
ハルカが低くすごむ。
だが、東龍院さんは「あらあら」と手のひらを振り、
「それはもっといけませんよー」
と、涼しい顔で答えた。
そして――
ハルカの背後にするりと、まるで影のように回り込んだかと思うと、
唐突にその膝裏を突いた。
「膝カックン!」
「えっ……あ、ちょっ!?」
ハルカは完全にバランスを崩し、無様にたたらを踏んで、よろよろと前のめりになる。
すかさず、東龍院さんは玄関へと飛び降り、私の手をぎゅっと握った。
「今です! 走りますよ!」
「待て、コノヤロー!」
背後からハルカの怒号が聞こえるが、構わず私は引きずられるようにして校舎を飛び出した。
逃げる道すがら、東龍院さんは笑いながら叫ぶ。
「見たか! アンジュ姉さま直伝、
『必殺・膝カックン』の威力を! ワーハハハハ!」
こんな状況なのに。
あまりに豪快に笑う東龍院さんに、私は呆れることしかできなかった。
▽▽▽
校舎を出た東龍院さんは、迷いなく角を曲がる。
そこは、自転車通学用の一部が駐輪場になっているスペースだった。
背後からは、ハルカが追いかけてくる荒い足音が響いている。
「ごめんね」
そう口にしながら、東龍院さんは駐輪場に並んでいた自転車を、次々と空いたスペースへ放り投げていった。
ガシャーン。
金属同士がぶつかる音が響き、
彼女は構わず、立て続けに自転車を放り投げる。
「香苗ちゃんも!」
無造作に自転車をばら撒く彼女に倣い、私も夢中で後に続く。
追いついてきたハルカだったが、足元に積み上げられた自転車の山を前に、たまらず足が止まった。
「さ、行きましょう!」
再び彼女は私の手を取り、駆け出す。
そして私たちは、再び校舎の中へ。
「教室に行こう!
みんながいれば、あの子も無茶はできないでしょ!」
そう言って、彼女は階段を二段飛ばしで駆け上がる。
教室の前に着く頃には、二人して息を荒くしていた。
それにしても……東龍院さんって、こんな子だったんだ。
てっきり、地味でおとなしくて、運動なんて全然できないタイプだと思っていた。
それが今や、私なんかよりずっと活発に動き回っているし、
一つ一つの動作に妙なキレがある。
何より、こんな異常事態にも、戸惑うことなく対応しているのが不思議でならない。
そして何より、今の彼女の表情は、どこか可愛らしかった。
顔全体でニッコリと、屈託なく微笑むのだから。
教室の前で、一瞬だけ東龍院さんが足を止めた。
だが、私は構わず扉を勢いよく開けた。
「みんな! 助けて……」
縋るような思いで声を上げる。
そこには、いつもの教室の風景が広がっていた。
だけど、何かが決定的におかしかった。
一斉にこちらを振り返ったクラスメイトたちは、一様に背筋を伸ばし、まるで精巧な人形のように座っている。
そしてその目には、感情の欠片もこもっていない。
ただ、虚空を見つめるような冷たい瞳。
隣では、東龍院さんが「あちゃー……」と、困ったように額に手を当てていた。
クラスの全員が、示し合わせたように一斉に立ち上がる。
そして無機質な動作で、こちらへと一斉に手を伸ばしてきた。
「だめだ、行きましょう!」
東龍院さんが再び私の手を引き、走り出す。
背後の通路の反対側からは、
「アハハハハ!」
と、ハルカの甲高い笑い声が追いかけてきた。




