第八十八話 外灯の下にて
そのまま、倒れた俺の上に馬乗りになったグール。
何かが腐敗した饐えた匂いが鼻を衝く。
改めて見る顔は、どこか幼さの残る青年のようだ。
──こんな青年まで……。
いつになく胸の奥がジンジンと痛んだ。
俺みたいな何の役にも立たない中年男が日々を無駄に費やし生きてきた。一方で、こんな若者が短い人生を終えている。
なぜか無性に切なくて、無性に腹が立つ。
「あーあ、だから言ったじゃん。油断するとそいつに食われちゃうって。駄目だねー、年食ったオッサン勇者は」
遠くで嘲る声が聞こえる。
目の前には、よだれをまき散らし、今にも俺を食おうと歯を鳴らすグール。
足は動くが、ジタバタと空を切るだけだ。
腰はグールの体重が乗り、びくともしない。
マグナフォルテを持つ右手は、完全に膝で押さえつけられている。
組み敷かれた状態で、今まさに奴が俺の喉に噛みつこうとした、その瞬間。
パン! パン!
乾いた音が二発、夜の闇に響いた。
同時に、奴の頭が脳漿を散らし、勢いよく横にずれる。
その勢いに合わせ、俺は体をひねり、奴の下から間一髪で抜け出すことができた。
あの音は間違いなく拳銃の発砲音だった!
──誰かが援護してくれた? 背後に味方がいるなら、動くはずのない連中だ。
周りを見回し、音の主を探したい。だが、今は目の前のグールが優先だ。
頭を撃たれても、奴は再び俺に向け、ガチガチと歯を鳴らしている。その動きは一層狂気を帯びていた。
「あれー? ダーレーダー、邪魔する奴は!」
爬虫類野郎の声が響く。俺は喉の奥から絞り出すように叫んでいた。
「お前! これが終わってもそこを動くなよ! ぎったぎたに切り裂いてやる!」
「オー怖い怖い」という、間の抜けた嘲笑が返ってくる。
グールはじりじりと円を描くように、俺の隙を伺う。
俺はマグナフォルテを正眼に構えた。その切っ先は、夜闇の中で微かに震えている。
「ためらうな。もう彼は戻らない」
背後から、低く落ち着いた声が掛かる。
初めて聞く声だ。
だが、その声の主は、俺の一瞬のためらいを的確に察し、非情な真実を突きつけてきた。
俺は頭を振る。
そう、全てを救うことなどできない。目の前のグールは、もはや生きた人間ではない。
──悪いな、嫌な思いさせて。もう終わりにしよう。
俺はもう一度、マグナフォルテを強く握り締めた。柄を握る指先に力を込め、決意を固める。
俺の気配を察し、グールが跳ねるようにして突っ込んでくる。
俺は体を横にずらし、グールの体を受け止めるようにマグナフォルテを水平に振り抜いた。
ガァッ!
体を受け止めた瞬間、マグナフォルテの炎が噴き上がる。
その炎は、いつもの灼熱の赤ではなく、まるで氷のように冷たく、どこか悲しい青い炎だった。
青い炎はグールの全身を包み込み、急速に燃え広がる。辺りには焦げ付くような硫黄の匂いと、微かな甘い匂いが混ざり合った。
ガクリと、奴は膝を地に付いた。
一瞬、焼き尽くされるグールの姿が、元の青年の姿に戻ったように見えた。
彼は、こちらをチラリと見て、最期の瞬間、確かに口元に安堵にも似た微笑みを浮かべていた。
そして、青い炎と共に灰と化し、夜空へと立ち昇っていった。
俺は静かに振り返る。
車の脇に立ち尽くす、男たち二人の方へ。
背後の援護者の存在を感じたのか、二人は黒い車から少し離れた位置で佇んでいた。
男たちは、俺とグールの一連の戦闘に気圧されていたが、隙を見て慌てて車に乗り込もうとドアに手をかける。だが、それを銃声が許さなかった。
パン!パン!パン!パン!
立て続けに響く発砲音。金属が砕け散る乾いた音。
弾丸がドアノブを砕き、続いてフロントガラスに放射状のヒビが入り、後輪のタイヤの一つから盛大に空気の抜ける音がする。完璧な牽制射撃だ。
「どこへ行く気ですか? 用があったんでしょう」
俺はマグナフォルテを血振りの要領で振り抜き、一歩一歩近づく。マグナフォルテの青い残炎が、暗闇の中、俺の表情を青白く照らしていた。
男たちは、背中を見せたまま、両手を上げ抵抗の意思を完全に失っている。
俺は彼らの背後、わずか数歩の距離で足を止める。
そして、マグナフォルテをゆっくりと振り上げる。
「なあ、モノを知らない中年勇者に、一から教えてくれないか? お前ら、ダ、レ、ダ」
俺はそのまま、質問への返答を促すように、マグナフォルテの切っ先を、車のフロントのグリルに突き立てた。
ジィィィ……!
車の鉄板が瞬時に炎に焼かれ、高熱で溶ける音が響く。その熱風と焦げた匂いが、恐怖で立ち尽くす男たちを襲った。
男たちの股間からは、微かに湯気が立ち上っていた。いやなアンモニア臭までしてくる。
その時、発砲音と金属の溶解音に気づいたのか、屋敷から皆がわらわらと飛び出してきた。バーベキューの喧騒が一気にシリアスな現場に変わる。
俺がマグナフォルテを顕現させている状況、そして地面に残されたグールとの戦闘の痕跡を見て、ただ事ではないと感じたのだろう。
ルーリは反射的に『ルーガライガ』を構え、俺と男たちに視線を向けながら叫ぶ。
「あなたたち! 今すぐヤマさんから離れなさい!」
──いやいや、近づいてんの俺ですが。
ビール缶を片手に持ったガースが寄ってくる。
彼は、途中、グールとの戦いで焼け焦げ、地面が歪んだアスファルトを見て、少しだけ目つきを変えた。
「あーなんだ。そのー、なんか手ぇ貸すか」
いつものように耳をほじりながら聞いてくる。
「いや、大丈夫。今終わったとこだから。ルーリもありがと。大丈夫だからルーガライガはしまってくれ」
彼女は、俺と男たち、そして焼け焦げた車を見比べ、フーと安堵の息を吐くと、ルーガライガを光の粒にして消した。
そして、アンジュなんか、まだ右手に肉を盛った小皿、左手に割りばしを持ったままだ。口元にはソースまで付いている。
「なに? なんかあったの?」
──だってさ。しまらない……。
俺は、助けてくれた人の姿を探した。
しかし、街灯の明かりが点々と灯す場所以外は暗闇に包まれ、その姿を探すことはできなかった。
ただ、秋の虫たちが泣いている声が聞こえるだけだった。




