第八十七話 月が綺麗ですね
ゆっくりと、俺は車へと歩いていく。
エンジンは止まっている。
ガラスには濃いスモークフィルムが貼られているのか、車内に人がいるのかさえ分からない。
車まで、あと五メートル。
手は汗でびっしょりだ。
さっきから耳元で心臓が跳ねているみたいに、鼓動がうるさい。
砂利を踏む自分の足音が、やけに耳につく。
今更ながら、屋敷に走って戻り、皆を呼びに行かなかったことを激しく後悔している。
なんなら今すぐにでも、「ギャー!」と叫んで逃げ帰りたい気分だ。
震える足を前に出す。
残り、三メートル。
そして次の一歩を踏み出そうとした、その時だった。
ブォォン!
いきなり車のエンジンが唸りを上げ、ハイビームのヘッドライトが俺の全身を照らし出した。
「うわっ!」
あまりの眩しさに、腕で両目を覆う。
ガチャリ、とドアが開く音。
車から二人の人物が降り立ち、じっとこちらを窺っている気配がした。
「だ、誰だ!」
声をかけるつもりなんてなかった。
恐怖で、勝手に声が出ただけだ。
俺はジリジリと後ずさり、距離を取ろうとする。
だが、俺が一歩下がると、影も一歩、前に出てくる。
しばらくして目が慣れてきた。
恐る恐る前を見る。
そこには、スーツ姿の男が二人いた。
一人は、ずんぐりとした体躯。
無表情のまま、手にバールのようなものをぶら下げている。
もう一人は、長髪の男だった。
どこか爬虫類じみた顔つき。
薄く大きな唇を、耳元まで吊り上げている。
今にも、「ヒヒヒヒ!」と下卑た笑い声を上げそうだ。
武器になるようなものを何一つ持ってきていないことに気づき、俺は自分の軽率さを呪った。
──マグナフォルテを呼ぶか?
一瞬、その考えがよぎる。
だが、これから起こることが戦いなのか、話し合いなのか、それとも単なる社交辞令なのか……。
何が起こるか分からないうちに、マグナフォルテを召喚するわけにはいかない。
そんな俺の迷いを見透かすように、爬虫類顔の男が声をかけてきた。
「こんばんは。今日は、月が綺麗ですね」
──まさかの世間話!?
そんなはずはない。
男の腰、スーツの隙間から覗くそれは、刀の柄に違いなかった。
一般人が刀を携えているわけがない。
黙り込む俺に、男は首を傾げ、しびれを切らしたように続ける。
「あなた、山川新次郎さんかな?」
「…………」
答えるつもりもないし、義理もない。
念のため、心の奥でマグナフォルテに呼びかける。
右手が、じわりと熱を帯びた。
いつでもいける。
爬虫類顔の男は再び首を傾げ、かすれた声で言う。
「帰還勇者といえど、実力は並大抵じゃあるまい。念には念を入れときますか」
「それがいい」
もう一人が短く頷いた。
爬虫類顔の男がキーを押す。
ガコン、と重い音。
車の後部ドアが跳ね上がった。
「正直キモいんだよ、コイツ。元勇者様が何とかしてくれると助かるんだがな」
跳ね上がったドアに、爪の長く伸びた手がかかる。
くすんで節くれ立ったその手は、嫌なぬめりを帯びていた。
縁を掴むと、車体がぐらりと傾く。
次の瞬間、そいつの上半身が、ぬっと現れる。
長髪の若者……?
いや、老人か?
銀色の瞳。
薄い瞼。
口の端が、ありえないほど耳元まで裂けている。
──見覚えがある。この質感。
オークランドベルで見た。
グールだ。
「グール……!?」
「ご名答!! さすが、くたびれてても元勇者ってか?」
男二人は慌てたように道を開け、車の陰に隠れる。
転がるように道へ降り、グールはゆっくり立ち上がった。
両手をだらりと下げ、背を丸め、顔だけこちらを向ける。
月明かりが銀の瞳に反射し、俺を射抜く。
ニチャリ、と笑う唇から、よだれが糸を引いて落ちた。
汚れたネルシャツ。
裾が擦り切れたチノパン。
グール。
元は、人間だったはずだ。
だが、もはや人の面影は何も残っていない。
「止まれ! そこで止まってくれ!」
一歩、二歩。
後ずさりながら叫ぶ。
「あー、そいつさ、変わりもんでね。人の言葉、通じないよ。
それに、ひどく狂暴だ。あんま喋りかけないほうがいい。……食われるから」
グールはハアハアと荒い息を吐き、体を揺らしながら立っている。
俺は目を離さず、背後で喋る爬虫類野郎に問う。
「お前ら、誰だ! 魔王の手先か?」
「魔王? 何だいそれ。俺たちは、れっきとした人間さ」
軽く笑う声。
「魔王なんていない。強いて言うなら、『魔王』はあんたらだ。
妙な力で工場を壊し、ショッピングセンターで大暴れする」
「それをやったのはIT社長とピエロだ!」
「さあな。……誰が、それを信じる?」
その瞬間。
「グギャー!!」
グールが突進してきた。
「マグナフォルテ!」
右手に顕現した炎の剣を、横に薙ぐ。
──だが。
寸前で奴は跳び上がり、剣をかわす。
くたびれたチノパンの足が、俺の顔面を蹴り上げた。
ドゴッ!
額を強打され、俺は後方へ吹き飛ばされた。




