第四話 ソニア
「一か月後でも無理です! それに、俺みたいなのが今更戻っても、迷惑なだけですよ」
俺の言葉に、カチンときたのか、アンジュがテーブルを叩いて息巻いた。
「何言ってんのよ! あなたは勇者なの! 世界を救ってくれた英雄なのよ! みんな大喜びに決まってるでしょ!」
バンバンとテーブルを叩きながらさらにヒートアップ。
「パーティのみんなだって絶対喜ぶわ! 私の世界の住人を、薄情者みたいに言わないで!」
その剣幕に、俺は思わず「はぁ」と気の抜けた返事しかできなかった。
「……それにさ。この世界だって、あと一か月持つかどうか」
アンジュがボソリと呟いた。
「……今なんて?」
「いや、その……」
視線を逸らし、手をもじもじさせるアンジュ。
「『一か月持つか』って言いましたよね!? どういう意味ですか!」
俺が身を乗り出すと、彼女は観念したように口を開いた。
「いや、だからー、こっちの魔王がさー」
「この世界にも魔王がいるんですか!?」
「そりゃいるわよ。神がいるなら魔王もいるでしょ。光あれば闇ありってやつ」
うまいこと言った、みたいなドヤ顔をされても困る。
「そんな話、ニュースでも何でも聞いたことないですよ」
「あー、こっちの人間は知らないんだ。なんか、情報が隠蔽されてるみたいね。トラッグリアは私が神託でバーンと宣言したから、みんな知ってたけど」
とにっこり笑うアンジュ。
──いや、それ迂闊すぎでしょ!
「で、魔王は確かにいる、と」
「いるいる」
「じゃあ、勇者は? そういう役目の人はいるんですか?」
「いるよー、勇者」
──いる? この世界に、勇者が?
「聞いたことないですけど……」
「そりゃ内緒だからねー。ほら、トラッグリアは私が全部ばらしちゃったから」
褒めて褒めて! みたいな顔でこっちを見ないでほしい。
「で、その勇者は今、何をしてるんですか?」
「んー、頑張ってはいるみたいだけどねぇ。あんまり上手くいってないみたい。可哀想にねぇ」
店員が持ってきた芋焼酎のグラスを、「はーい、どうも!」と慣れた様子で受け取るアンジュ。
「おい! 芋焼酎なんか飲んでる場合か!」
思わず立ち上がる俺。居酒屋の客たちが一斉にこちらを見る。
「ちょっとシン、座りなさいよ。みんな見てるじゃない」
アンジュは相変わらずのんきに手をヒラヒラと振る。
──この平和な日常が、あと一か月で滅ぶかもしれない?
俺は力なく、ぺたんと椅子に座り込む。
ただ、目の前で美味そうに焼酎をすする女神を、呆然と見つめることしかできなかった。
「勇者がいるなら、アンジュは何でこんなところで酒なんか飲んでるんですか! 勇者を助けるのが女神の仕事でしょう!」
俺の言葉に、アンジュはキッと俺を睨み返した。
「あたしはあんたの担当なの! だから、その体たらくを見てられなくて、わざわざ会いに来てやったんでしょ!」
「じゃあ、こっちの勇者にも担当の女神がいるんですか?」
俺がぐいっと身を乗り出すと、「うわ、暑苦しいな。急に熱血漢ぶっちゃって」とアンジュは心底面倒くさそうに顔をしかめる。
「いるわよ、そりゃ。異世界から人間を召喚するのよ? 女神がいなきゃどうすんの」
「その勇者も、異世界から?」
俺の質問に、アンジュはコップをドンとテーブルに置き、俺を見据えた。
「さっきも言ったでしょ! 勇者は次元の壁を越えて初めてその力を得るの! だから、勇者はいつだって召喚される側なのよ!」
まったく、年取って耳まで悪くなったわけ? と言いたげな顔で、彼女はまた酒をあおった。
「その勇者と女神は、今、何をしてるんですか!」
アンジュは「うっさいなぁ」と耳をほじりながらコップを置く。
「じゃ、直接聞いてみれば? 勇者を呼ぶのは無理だけど、担当の女神は知り合いだから呼べるわよ」
そう言って、懐から何やらを取り出した。
「それ……スマホ、ですか?」
「イイでしょー。こっちの世界の真似して作ったの! その名も『アンジュフォン』! 通称、A-PHONE!」
なんか商標権ギリギリアウトな気がする。
「あーもしもし? ソニア? 元気? 今さー、うちの元勇者と飲んでんだけど、一緒にどう? ……そうそう、あのシンよ! ……うん、わかった。マップ送るわね」
慣れた手つきで画面をタップする。
「すぐ来るって! いやー、人気者だねぇ、シンは。あ、元シンか」
──そこはもう、シンでいいでしょ。
それから本当にすぐ、店に一人の女性が現れた。
アンジュと似たビジネススーツに身を包んだ、知的な雰囲気の美人だった。
艶やかな長い銀髪は、肩のあたりで品よく一つにまとめられ、サイドに流れている。アンジュが『ゴージャス』なら、彼女は『クールビューティー』という言葉がしっくりくる。
ただ、一点。
完璧に見えるその白い顔には、痛々しいほど黒々としたクマが刻まれていた。まるで、長い間まともに眠れていないような……。
俺は嫌な予感がした。この人が、苦戦している勇者を支える女神なのか?
「アンジュ先輩! お久しぶりです!」
にこやかに挨拶した彼女は、あたりをキョロキョロと見回し、不思議そうに首を傾げる。
「それで、伝説の勇者シンさんはどちらに?」
アンジュはコップを傾けながら、顎で俺をしゃくってみせた。
俺は仕方なく、おずおずと会釈する。
「ど、どうも。はじめまして、シンです」
「え?」
彼女は俺の顔とアンジュの顔を、交互に見比べる。
「……シンです」
俺がもう一度名乗ると、彼女は心底不思議そうな顔で、はっきりとこう言った。
「誰、このおっさん」
ブホッ!!
隣で、アンジュが盛大に芋焼酎を噴き出した。