第百十四話 黒目玉
【勇者ルーリ】
荒野を駆ける。
すべての景色が一瞬にして後ろへと消え去っていく。
身体を叩く風の圧力が心地いい。
いまの私は、かつてないほど「自由」だ。
──感じる。
前方。
空間に、微かな「ひずみ」のような何かが存在している。
それは饐えた腐臭を放ちながら、今この瞬間も脈打つように増殖を続けていた。
「見えた!!」
視界の先に、ほんの小さな黒い点が現れる。
私はさらにスピードを上げ、弾丸のように突き進んだ。
空中に浮かぶ黒ずみは、接近するにつれて徐々にその異形を現していく。
「黒い球体? ……風船なの?」
ついこぼれた独り言に、耳元のムッシュが即座に応えた。
『あんなのが風船だとしたら、夢も希望もないね。もっと「性質」の悪いものだよ』
宙に浮かぶ球体は、近づくにつれてその醜悪な細部を剥き出しにしていった。
「なにあれ……っ!?」
思わず足にブレーキをかける。
視界の先、黒い霞のようなものが淀んでいる。
その中心に鎮座していたのは、ぶよぶよと不規則に波打つ黒い塊だった。
球体の中央には、赤く血走った巨大な眼玉が一つ。
表面からは、節くれだった無数の腕が飛び出しており、周囲に漂う霞を掴んでは強引に本体へと取り込んでいる。
「……気持ち悪い」
私は息を呑み、近くにあった大きな岩陰に身を潜めた。
遠目に見ても、その表面は妙に生々しく、粘着質な油のようなものでぬめっている。
蠢く触手は人間の手のようでもあり、あるいは節足動物の足のようにも見える。
見ているだけで、生理的な吐き気がこみ上げてきた。
「バケモノ……」
『化け物。ま、そうだね。そりゃ言い得て妙だ。あれは人の憎悪や恐怖が具現化した姿だろうね。いやあ、人間って怖いよねー』
「ムッシュが言わないでよ!」
その化け物はひどく醜悪で、見ているだけで嫌悪感が湧き上がってくる。
だけどなぜか、目を離すことができない。
岩陰に隠れている私の頭上を、黄色く光る球がプカプカと漂い、黒い塊へと近づいていく。
「あれは?」
『たぶん、ユーザーかな。つまりは「シルベ」を利用している人が吐露した言葉、だろうね』
「言葉?」
『言葉というか……想い、かな』
「“想い”なんて、AIのくせにロマンチックね」
『見解の相違だね。僕に言わせれば、想いなんて不明瞭なものより、言葉の方がよっぽどロマンチックさ。で、ほら、あれを見て』
プカプカと浮いていた光が、まるで磁石に吸い寄せられるように「目玉野郎」へと近づいていく。
『悪意や憎悪は、引きつける力が強いからね……』
目玉がギョロリと光を見つけると、ボヒュッ、と湿った音を立てて、球体の表面から新たな手が生えた。
それがするすると伸びていき、光の弾を鷲掴みにすると、ひゅっと体内へと取り込んでしまった。
「吸収された……」
『吸収されたね……』
目玉野郎は、そのブヨブヨとした表面をブルブルと震わせ、一回り大きく膨らむ。
『ああやって増殖していくようだね』
「……中で光ってる」
取り込まれた光が、怪物の体内でぐにぐにと動いているのがわかる。
それは次第に赤く発光し、さらにどす黒く変色していった。
『いわゆる“炎上”ってやつだね』
「うまいこと言ってるつもり?」
『いやいや、マジですよ。人のちょっとした言葉がきっかけとなって、恐怖が恐怖を煽っていく。まさに不合理で非論理的な現象だね』
「……じゃあ、あれを斬る!」
『待って待って! 悪意を斬ったって意味ないってば。あいつはまたすぐに増殖を始めるだけだもん』
「じゃあ、どうすればいいのよ……」
『正直、答えはないと思うよ。これは人間が持つ本質をうまく利用したシステムなんだ』
「入ってみる」
『はい!?』
「あの中に入ってみるわ」
『待って待って! 入るって、どこに!? あそこは人の憎悪や恐怖の塊なんだよ?』
「だからこそ、その中に入ってみるの」
「ルーガライガ!」と叫ぶと、紫電を纏った剣が右手に顕現した。
『その剣、凄いね。この空間でも普通に現れるなんて』
「私の頼りになる相棒よ」
ブン、と片手で剣を振り下ろす。
私は、ルーガライガが描く紫電の軌跡を従え、黒目玉に向かって走り出した。
奴の巨大な眼球が、こちらをギョロリと捉える。
直後、表面から無数の手足が、私を絡め取ろうと一斉に伸びてきた。
「それに捕まる気はないわよ!」
ルーガライガで、迫りくる手を次々と払いのける。
そのたびに触手は崩壊し、ドロリとした不快な液体を撒き散らした。
『あの液体には触れないように!』
「何か問題でも?」
『いや、気持ち悪いからさ』
「でしょうね!」
次々と伸びる手を断ち切りながら、奴の真下へとたどり着く。
私は剣を前に突き出し、さっきのジャンプと同じ要領で地面を蹴った。
身体が空へぐんと引っ張り上げられ、同時に、すくい上げるような軌道で剣を振る。
球体から切り取られた黒い肉が、霧散していった。
──よし! 効いてる!!
空中で身体を反転させ、ひねりを加える。
そのまま奴の頭頂部へと着地した。
ヌメりとした嫌な感触が足裏から伝わってくる。
構わず、私はルーガライガをその中心へと深く突き立てた。
──紫電開放!!
黒目玉の全身を、強烈な紫の閃光が飲み込んでいった。




