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第百十話 勇者は前を向け


【勇者ルーリ】


「──今、外で何が起きているのか。あなたはご存じなのですか?」


 私が真っ直ぐに問いかけると、須藤はゆっくりと卓上テーブルに腰を掛け、重い口を開いた。


「悪意の増殖……ですよ」


 私の隣で、和泉さんが「そんな」と小さく呟き、口元を両手で覆うのが見えた。


 須藤は、憐れむような、あるいは突き放すような冷めた視線を和泉さんに一瞬だけ向け、それから言葉を継いだ。


「人との関係をより強固にする感情とは何か。あなたには分かりますか?」


「それは……」


 私が答えようとした瞬間、彼は私の言葉を遮るように先んじて答えを投げつけた。


「──『悪意』ですよ」


 そう言って、彼は自嘲するように、くくっと肩を揺らして笑った。


「悪意。一言で言ってしまえばそうなります。妬み、嫉み、相手より少しでも幸せでいたいと望む浅ましい心。あるいは、自分より恵まれている相手を不幸に引きずり下ろしたいという暗い情念。ほんのわずかな、誰もが持っているおりのような想い……。だが、それが塊となり、うねりとなって社会に広がれば、手に負えない憎しみの潮流となる」


「……それを引き起こし、人々を洗脳するのが『シルベ』なのですか?」


 九頭竜さんが、呆れたような、それでいてどこか寒気を覚えたような声で呟く。


「洗脳? そんな大層な手間をかける必要なんてありませんよ。だって、そんなものは誰もが最初から、心の奥底に飼っているのですから。……『シルベ』は、ほんの少しだけ、その背中を優しく押してやるだけでいいんです」


 そう語る須藤は、どこか遠くを見つめながら、ぽつりと皮肉を零した。


「──コミュニケーションツール、とはよく言ったものです。まさに、毒を回し合うためのね」


 空調の音と、サーバーが吐き出す呻きのようなファンの音だけが、しばらくの間、支配的な沈黙と共に部屋を満たした。


 須藤が語った「悪意の真実」は、それほどまでに重く、救いのないものだった。


 だが、その澱んだ沈黙を破ったのは、意外な人物だった。


「……なんだか、言ってることがよくわかんねーな」


 ガースさんだ。彼は右手の太い指で耳の穴をごしごしと掻き、ひどく退屈そうに、あるいは疲れ果てたように溜息をついた。


 皆の視線が彼に集まると、ガースさんは「なんだよ」と少し照れたように鼻を鳴らして笑う。


「だってそうだろ? こいつが言ってるように、悪意こそが人を結ぶもんだってんなら、なんでわざわざ、こんな小難しいおもちゃを使ってまで撒き散らす必要があるんだ?」


 あまりに素朴な問い。

 けれどそれは、彼らしい、真っ直ぐで汚れのない想いだった。


「人の心が、泥臭くて醜いもんを飼ってることなんざ、今さら誰かに教わらなくても、この世界の連中ならみんな知ってることだよ。こんなおもちゃに背中を押されなくたってな」


 ガースさんは一歩前に出ると、言葉を続けた。


「人の本心には憎悪が宿っている。そりゃそうだ、否定しねえよ。それでもよ……きっと明日は今日より良くなるって信じて、必死に前を向いて踏ん張ってんだ。あんたらは、それが気に食わねえから、これを使って惑わそうとした。ただの嫌がらせだろ、そんなもん」


 そして彼は眉根を下げ、心配そうに、けれど力強い口調で締めくくった。


「あんたさ。そんな泥沼の中に自分の娘がいることに、心底絶望してんだろ? ──だったら、救ってやれよ。そいつが『親父』の仕事ってもんだろ」


 ガースさんの言葉は、この寒々とした部屋の温度を微かに上げた。そんな気がした。


 須藤は目を見開き、言葉を失ったようにガースさんを見つめていた。


『マスター。香苗の学校で、再びシルベが『能動的支配』のプログラムを再開しました』


 沈黙の中、プロト01と呼ばれたAIが、冷徹な事実を告げた。


 その言葉を聞いた瞬間、須藤の表情に激しい動揺が走る。


「何が起きているのですか!」


 私が詰め寄ると、彼は視線を泳がせながらも、震える声で説明を始めた。


「あなたたちの仲間が、洗脳状態にある生徒たちを眠らせることで、一時的に事態を収束させたようだ」


 ──ヤマさんたち! 間に合ったんだ!


「だが、それを今『シルベ』が……能動的支配のプログラムによって、強制的に初期化、上書きしようとしている」


 それはつまり、学校にいるヤマさんたちが、再び、そしてこれまで以上のピンチに陥っていることを示していた。


「その『能動的支配』のプログラムってのは、一体なんなんだ!」


 九頭竜さんが詰め寄るように須藤を怒鳴りつける。


「知らん! それが私にもわからないんだ! あの矢阿部が持ってきた怪しげなプログラム……いや、プログラムなんて呼べる代物じゃない。あれは、もっと禍々しい……そう、まるで呪いのような!」


「それはどこにあるのですか!」


 私が迫ると、彼はガラス越しに広がるサーバー室へ視線を投げた。


「もうすでに『シルベ』に拡張パックとしてパッチされている。もはや分離は不可能だ。何しろ、それが正体不明のプログラムなのか、あるいは別の何かなのかすら判別できないんだからな!」


 彼の悲鳴が、無機質な部屋にこだまする。


 と同時に、プロト01が警告を発した。


『マスター。意識を乗っ取られ、棒立ちの状態となっていた社員たちが、今この部屋の前に集まってきています。……二十秒後に、この部屋の施錠は破られるでしょう』


「棒立ちの社員……?」


 九頭竜さんが眉を潜めた瞬間、すかさずソニアが叫んだ。


「グールね。気配がプンプンするわ!」


 ──グール。アナウスとの戦いの時にいた、あの化け物。

 変質させられ、理性を失った肉の塊となってしまった人たち。


「とりあえず、サーバー室の中へ!!」


 須藤が小部屋の奥にある扉を開け、サーバー室へと入っていった。


 その間にも、外からは扉を叩く鈍い音がひっきりなしに聞こえ始める。


 九頭竜さんとガースさんが、部屋にあった棚や机を動かして扉を塞ごうとするが、この小部屋にある備品だけでは、とても防ぎきれるとは思えなかった。


「ルーリ! お前は早くあっちの部屋へ行け!」


 ガースさんが怒鳴るように叫んだ。


「お前は、前を向いて突き進め! ここは俺たちが食い止めてやる!」


 そう言って、九頭竜さんとガースさんが、今にも破られそうな扉を肩で押さえながら、不敵に笑った。


「でも……!」


 ドォン、ドォンと扉を叩く衝撃がどんどん大きくなっていく。


「でもじゃない! 言っただろ! 勇者は前を向け! 俺たちはお前を信じて、命を預けてんだからな!」


 ガースさんと九頭竜さんが、最後に見せるかのような晴れやかな笑顔で頷いた。


 私は、奥歯を噛み締め、「お願いします!」と頭を下げた。

 そして、踵を返してサーバー室へと飛び込む。


 ──必ず止めてみせる。この歪んだ、呪いのプログラムを!



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