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第百七話 勝者なき戦い


【勇者ルーリ】


 ──須藤。

 その名前に聞き覚えがあり、記憶の引き出しを片端から開けて、すぐに答えに辿り着いた。


 須藤香苗。

 何のことはない、ついさっき学校班が救ったばかりの女子生徒の名前だ。


 気づいた瞬間、パーティの皆が私を見ていた。

 おそらく、考えていることは同じなのだろう。


 ──この人が、あの子のお父さんなの? 


 聞いてみるべきか?


 私が迷っているうちに、彼の方から事務的に話しかけてきた。


「何か、『シルベ』についてのご質問があるとお伺いしましたが」


 まるで、この世のあらゆる物事に関心がないような、空っぽな瞳で彼は話す。

 普通の男性なら、ソニアや和泉ちゃんを前にすれば、その美貌や愛らしさに多少なりとも反応を示すものだけど……彼の視線からは、そういった人間らしい感情がすべて抜け落ちてしまっているような印象を受けた。


 私は、咳払いを一つ。


「──オークランドベル社のICチップにまつわる噂は、ご存じですか?」


 一瞬、須藤と矢阿部の目に動揺が走った……気がした。


「そのICチップには、人心を惑わす特定の周波数帯のノイズが発生していました。それを長時間浴び続けることで、人は本能的な恐れや凶暴性を刺激され、いわゆる攻撃的人格に変容すると言われています」


 オークランドベル相模原工場での火災事故。

 あの後、大々的にニュースになったが、それはあくまで「工場内の管理不手際による事故」として処理され、不都合な事実はすべて隠蔽された。


 そう、隠蔽はされた。

 けれど、その後も不確かな噂がまことしやかに囁かれ続け、その筋の人間の間では有名な「陰謀論」として語り継がれている。


 須藤と矢阿部は短く目配せを交わした。

 そして私に向き直ると、矢阿部が唇の端を吊り上げて口を開いた。


「そのお話は聞いたことがあります。まあ、ありふれた都市伝説の一つとしてですが」


 ククク、と喉を鳴らして含み笑いをする矢阿部。


「おっと、これは失礼。東龍院の研究者である……ええと」


「山川です。山川ルーリと申します。ご挨拶が遅れ、申し訳ありません」


「ルーリさん。お若いのに東龍院付きの研究者とは、実に優秀なんですな。しかし、オークランドベルの件はあくまで管理ミスによる不幸な事故ですよ。私、亡くなった穴臼社長とはお会いしたことがあるんですが、いやはや、惜しい人を亡くしました。この国……いや、世界にとっても大きな損失だと思っています」


 悲しげに目を伏せる矢阿部。

 その白々しい演技を引き継ぐように、今度は須藤が淡々と語りだした。


「おっしゃりたいことは分かりますが、いささか現実離れした空想のように思いますね。私は、可聴帯域外の音によって人心を操ることは不可能だと考えております。一種の精神障害や負荷を与えることはできても、それを行動にまで及ぼすなんて……そんなのは、少々おかしい」


 須藤は、まるで感情を削ぎ落とした機械のように言葉を重ねる。


「ましてや、それを『シルベ』のようなコミュニケーションツールと結びつけるのは、空想が過ぎます。もし、あなたの言うことが真実だとするなら、人は元来その程度の刺激で狂う動物である、と言わざるを得ませんな」


 須藤と矢阿部は、顔を見合わせて薄く笑った。


 その、人を見下したような仕草が、猛烈に癇に障る。


 話が平行線だ。

 ならば、別の角度から探るしかない。


 私は苛立ちを抑え、質問を変えた。


「では話を変えますが、『シルベ』に搭載されているAIの開発は、どちらで行われたのですか?」


「ちょっとお待ちください。なんだか、だんだん取り調べを受けているような気分になってきましてね。いくら東龍院家からのオファーとはいえ、理由もわからずお答えするには少々抵抗が……」


「でしょうね」


 九頭竜さんが、重々しく頷いた。


「では、腹を割って話しましょう。我々『可変不可逆研究所』では、情報工学と人間の親和性、そしてその影響力について、常日頃から強い関心を持って取り組んでおります。中でも、人間に悪影響を与える情報の伝播については注視しているのですが……こんな統計をご存知ですか?」


 九頭竜さんが持参したノートPCを開き、画面を彼らに向けた。


 それは、先日ジイジが調べてきた『シルベ』の普及率と、地域ごとの犯罪件数の増加を比較した推移グラフだ。

 そこには、『シルベ』の利用者が増えるのと完璧にシンクロするように、軽犯罪や暴行事件が急増している様子が克明に記されていた。


「……それが、何か?」


 須藤が、何食わぬ顔で聞き返してくる。


 九頭竜さんは面食らったように目を見開いた。


「何か、ではありません。この相関関係を見れば、疑念を抱くのは当然でしょう」


 九頭竜さんが熱を込めて解説を続ける間も、矢阿部はニヤニヤとした笑みを顔に貼り付けていた。

 彼は一瞬だけグラフに目をやったが、最初から興味などないという態度を崩さない。


 それでも九頭竜さんは言葉を重ねた。

 しかし、それを遮るように矢阿部が冷たく言い放つ。


「あなた方は、交通事故が増えたからといって、世界中の車を処分しろと言うのですか?」


「それとこれとは話が違います! 車はあくまで『道具』です。しかし『シルベ』は人を狂わせる『兵器』になるかもしれない。その違いが分からないのですか?」


「いや、同じですよ。それに、そのグラフにしたって、たまたま『シルベ』の普及時期と重なっただけで、因果関係を証明するものではありませんよね?」


 あざ笑うように腕を組む矢阿部。


「正直に言わせていただいていいですか? 皆さまが取り組まれている『人の凶暴性』や『利己的な行為』の抑制について……私から言わせれば、それこそが、人間が本来持っている“本能”みたいなものじゃないでしょうかねぇ」


 そして、矢阿部は挑発するように身を乗り出した。


「私から見ると、あなた方は結局、ひどく虚しいことをなさっているように見えますよ。だって……それこそが『人』という存在の正体なのですから」


 部屋全体を覆う、得も言われぬ悪意。


 その真っ黒な言葉の渦に巻かれ、私はまるで、自分たちが途方もない独りよがりを押し通そうとしているのではないかとさえ思えてしまった。


 どこまでも深く、暗い深淵の底を覗き込むような感覚。

 それが部屋の中をどんどん侵食していくのを感じた。


 ──パンッ!


 不意に鳴り響いたその音が、私を現実に引き戻した。


 それが須藤の叩いた手の音だと気づくのに、数秒の時間を要した。


「……とりあえず、シルベの『心臓部』を見ていただきましょうか。いかがです? まあ、見ても面白いものではありませんが」


 そう言って、須藤が唐突に席を立った。


「矢阿部センター長。ここからは私がご案内させていただきますので」


 彼はそう言い残すと、振り返りもせず一人で部屋を出ていく。


「それでは、ごゆっくり」


 背後でヒラヒラと手を振る矢阿部の視線を感じながら、私たちは急ぎ足で須藤の背中を追った。



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