第一話 消えたい秋の空
新連載!本日、二話同時公開です。楽しんでいただければ嬉しいです。
どこまでも高く澄み渡る秋の青空が、やけに目に染みる。
代々木公園の奥まったベンチ。トイレのそばで、人通りも少ない。
会社を飛び出してから、もう一時間はこうして空を眺めている。
冷たい風が汗の引いた首筋を撫でていく。
四十に手が届こうというおっさんが、平日の昼間から何をやっているのか。そう思うと、澄み切った青空の色がじわりと滲んだ。
空を眺めていれば嫌なことも忘れられる──なんて、嘘だ。忘れられるものか。
頭の中に、聞きたくもなかった声が何度も反響する。
会社に入って十数年。なのに、いまだミスばかり。情けなさすぎる。
うちの会社は給料は安いが、決してブラックじゃない。ほんとに「普通の会社」だ。
ダメなのは、俺の方だ。
やる気を出せば空回りし、気を抜けばミスをする。もはや周りが気を使ってくれるのが、かえって辛い。
「山川さん、ファイトです!」
「大丈夫っすよ、俺フォローするんで!」
後輩たちの励ましが、今は刃物みたいに突き刺さる。
だって俺は──彼らの本音を聞いてしまったからだ。
年のせいか最近増えたトイレ休憩。その帰り、給湯室で耳にした会話。
「加藤さん、あのおっさん何とかしてよ。仕事できないうえに邪魔までするなんて最悪だろ」
「高坂君だって昨日のアポ、遅刻してたでしょ。……まあ、山川さんのフォローに回されるよりはマシだけど」
「キッツー。加藤さん、可愛い顔して言うことエグいわ」
……あの瞬間、血の気が引いて頭が真っ白になった。
気がつけば、会社を飛び出していた。
そして一時間。俺はここで空を眺めている。
学生時代は夢があった。なんでもできると思っていた。
仲間と「つまんない大人になるくらいなら生きる意味ない」なんて青臭いことを言い合ってたっけ。
それが今じゃ──つまらないどころか、何もできないおっさんだ。
「どこで間違ったのかな……。いっそ消えてなくなりたい」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
「どこで間違った、ですって? 本気で言ってるの、あんた!」
突然の声に顔を上げる。
そこに立っていたのは──息を呑むほどの美人。
陽光を反射する金色の髪、吸い込まれそうな青い瞳。日本人離れした顔立ちなのに、なぜか懐かしさすら覚える。
そんな現実離れした美女がタイトスカートのスーツを着こなし、俺を睨みつけていた。
「これはシンが自分で選んだ道でしょ! あれだけ私が止めたのに!」
そう言い放つと、彼女はゴージャスなウェーブのかかった長い金髪を、苛立たしげに手で払いのけ、どかりと俺の隣に腰を下ろした。
「ほら」
差し出されたのは、キンキンに冷えた缶コーヒー。
「昔、シンが『これが美味いんだ』って言うから飲んでみたけど……苦いだけじゃない」
そう言って脚を組み、フンと鼻を鳴らした。
シン……?
俺の名前は山川新次郎。確かに「シン」は入ってるけど、そんな呼ばれ方されたことはない。
そもそも、こんな絶世の美女と会った記憶なんか……あるはずがない。
「……あの、どちら様ですか?」
「アンジュよ。なに! もしかして忘れちゃったの? ……まあ、そうよね。忘れるようにしたのは私だし」
さらっと言う彼女。
「いえ、その……大変失礼いたしました! きっとどこかでお会いしたのだと……」
まずい、取引先の誰かだろうか。高坂君の担当先にこんな綺麗な人がいたか?
いや、加藤さんの知り合い? そうか! 会社の上役でこんな人──いないいない。
俺の貧弱な脳をフル回転させるが、まったく記憶にない。
必死にごまかし笑いを浮かべる俺を、彼女は不機嫌そうにじっと見つめてくる。
「この顔を見ても、まだピンとこない?」
──指名手配犯みたいなこと言うな、この人……
睨みつけられたまま数十秒。観念した俺は、正直に言った。
「すみません……情けないですが、最近物忘れが激しくて。本当に申し訳ありません」
居住まいを正し、深く、深く頭を下げる。
そんな俺の姿を見て、彼女はついに堪えきれないといった様子で、ゴージャスな金髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「あー、もうっ!」
そして、叫んだ。
「なんであたしのシンが、こんな冴えないおっさんになってんのよぉ!」