第3話 追い詰められた獣
それからの十分は、まるでフライパンの上で炙られるベーコンの心地だった。
砂時計の砂が落ちる音が耳に響き、脂汗がポタポタと羊皮紙に滴る。羽根ペンを動かし続けているが、自分が何を書いているのか分からなかった。
――なんだ、これは?
――何なんだ、これは!
――こいつら、一体どういうつもりだ!
彼女には、ラーク達の真意が測れなかった。“異世界人”の存在を知っていて、それを探っているのは間違いない。あの試験用紙は、明らかにそのための罠だった。
問題は、彼女がリリィではないと見抜いた後、どう出るかだ。
彼女はこの世界に来てまだ日が浅く、“異世界人”がどのように認識され、扱われているのかを知らない。
もし、ラーク達が異端審問官だったら?
村の大人たちの話では、光明神の教団には“そういう連中”がいて、人々からひどく恐れられているという事は知っている。
前の世界の宗教を基準に考えるなら――
彼女は魔女として火あぶりにされるだろう。棒の先にくくりつけられ、業火に焼かれ、家族にも累が及ぶ。
くそ、顔を上げて司祭たちの顔を見たい。そこに何か答えがあるかもしれない。
だが、それこそ相手の思うつぼだ。さっきの試験用紙は、まさにそんな反応を引き出すための釣り針なのだから。
こいつらの頭の中を覗ければ……。彼女には、その力がある。
神から授かった恩寵の副産物――相手の才能や背景を、履歴書のように読み取るスキルだ。
ただし、発動にはキーワードを口にする必要がある。
顔も見ずに、気取られずに、それが言えるか……。
彼女は顔を横に向けた。
太陽は西の地平線に沈みかけ、部屋にはすでに照明魔法が灯っていた。
壁に揺れる影を手がかりに、司祭たちの様子を探ろうとしてーー
窓から室内を覗き込んでいる、リリィの父と目があった。
父親はぎこちなく顔を引きつらせ、すぐに頭を下げた。
その瞬間、前世の記憶がまた甦る。
今度は、死ぬ間際の記憶だった。
ーーー
あの日は忙しかった。
ボスの兄貴分を家族ごと皆殺しにするのは、簡単だった。
面倒だったのは、敵のカルテルの仕業に見せかける偽装工作の方だった。
撃たれた傷にガーゼを貼り、消炎剤、鎮痛剤、自分でも良く覚えていない薬をがぶ飲みして、素っ裸のまま、大鉈を振るった。
死体を解体するのに一時間。
内臓と生首で部屋を飾りつけるのに三十分。いつ敵の手下が来るか分からない中での作業だったせいで、ひどく疲れた。
へとへとになって帰ってきた彼女を、ボスが両手を広げて抱き締めた。
葉巻の匂いと、ぶよぶよした頬の感触が気色悪くて、思わず刺し殺しそうになった。
あの日……彼女は多くのミスを犯した。
普段、こっちの顔をろくに見ず、話しかけても来ない相手が熱烈に歓迎してきたことを疑わなかったことが、間違いの一つ目。
ナイフであのブタ野郎の太鼓腹と大腸をかき回してやらなかったのが、間違いの二つ目だった。
兄貴分が死に、ライバルが消え、縄張りが倍に増えたボスは上機嫌だった。晩飯を奢ると言い出し、高級な店に行くから身なりを整えろと命じた。
薬と疲れで朦朧とする頭のまま、風呂を借り、用意されたドレスに着替えた。
この時、服と身体に隠した武器の大半を置いていったのが、間違いの三つ目。
高級車で連れていかれたレストランは、絵本で見た王宮みたい大きくて華やかだった。
シャンデリアの光のシャワーに目が眩み、贅沢と金の匂いに嗅覚を殺され、手を引かれるままに中に入った。
ちょうど今日、逃走経路や隠れ場所を確保せずに、面接用の部屋の中に入ったように……。
四つ目の間違いだ。
極めつけに、レストランのテーブルで、ボスは爆弾みたいなニュースを打ち明けた。今度の手柄で彼女を昇進させ、他の幹部みたいに縄張りを持たせてくれると言うのだ。
このレストランもお前のものだ、とボスは言った。
その一言で、残っていた最後の警戒心も吹き飛んだ。
幸福感に痺れた頭で、彼女は出された料理を口にした。舌が爆発するかと思うほど美味しかった。
顔を犬みたいに皿に突っ込んで、夢中で食べた。
給仕の顔も、ボスの顔も確認せず、誰が作ったのかも分からない食い物を……。
最後にして、最大の、致命的なミスだった。
スープを飲み干し、オードブルを平らげ、メインディッシュに入ろうとした時に、血と死の味が喉の奥から込み上げてきた。
椅子から転がり落ち、床の上でのたうち回る彼女を見下ろして、ボスが勝ち誇ったように言った。
「イカれたメス犬が!兄貴を殺してただで済むと思ったか!」
周りのテーブルの客が、料理を運んでいた給仕が、次々に武器を取り出して彼女を囲んだ。
そこで初めて、ボスにハメられたことに気づいた。
用意周到な罠だった。
だけど、ボスも一つだけミスを犯した。勝ち誇るのが早すぎた。
あの日、彼女は痛み止めや他のクスリを、それに酒をしこたま飲んでいた。
そのうちの何かが、必殺の毒薬を中和したのだ。
彼女は跳び上がると、テーブルのフォークを掴み、ボスの目につき刺し、目玉をえぐり出して口の中に突っ込んでやった。
銃声と悲鳴が一斉に沸き起こった。
ーーー
思えばあの日のボスは、最初から怯えた獣のような目をしていた。
――窓越しに目が合ったリリィの父親と、まったく同じ目だ。
もはや退路はない。覚悟は決まった。
「……できました!」
彼女は答案用紙に筆を止め、顔を上げた。
「え、もう? まだ時間が半分も残ってるよ?」
ラークが目を丸くした。彼女は先ほどの動揺を微塵も感じさせない落ち着いた表情で、頷いた。
「簡単な課題でしたから」
「さすがだね。じゃあ、答案をこちらに……」
彼女は立ち上がり、答案用紙を手渡すふりをして、わざとバランスを崩した。肘を砂時計にぶつけ、机から落とす。
ガラスが砕ける音とともに、砂が床に広がった。
「ご、ごめんなさい!」
「待て! 危ないから触らないで」
ガラスの欠片に手を伸ばすふりをすると、ラークが慌ててそれを制した。
全員の視線が自分から逸れた瞬間を見計らい、彼女は囁きよりも小さな声で呟いた。
「情報盗視」
空中に、地球で使った液晶タブレットのような半透明の四角い画面が浮かんだ。
この魔法を対象に重ねれば、名前から身体的特徴、能力、来歴まで、嘘偽りのない情報が読み取れる。
ラークの本当の職位と目的を探ろうとして、彼女は凍りついた。
画面の向こうで、ラークがこちらをじっと見つめ返していた。
――まずい! バレた!
画面を閉じるより早く、鋭い声が部屋に響いた。
「術式干渉!」
次の瞬間、脳に指を突き込まれたような傷みとともに、魔法の画面が数百の破片となって砕け散った。
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