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第1話 リリィと言う名の小女

「リリィ、もうこのへんにしたらどうだい? 今日は朝からずっと働き詰めだったろう?」


父の声に、彼女は畑を耕す手を止めた。

顔を上げると、太陽はもう西の空に傾き、鍬を握る腕は土まみれ。体は汗でびっしょりだった。

けれど、疲れは感じなかった。まだまだ動けそうな気がした。


「大丈夫よ」

顔をぬぐって、にっこり笑う。

「まだ終わってないし、もうちょっとだから!」

「でも、あなたはまだ十歳よ」母親の声は日差しのように暖かい。「無理はしちゃ駄目。……ほら、お菓子を焼いたわ。お茶にしましょうよ」


母の背中の子守帯から、弟のコーピンがむっちりした手を彼女に伸ばしている。


「あやや! やややあっ!」

「ふふっ、お腹がすいたんだね。……じゃあ、少しだけ休もうか」


リリィは鍬を下ろし、母と並んでマットの上に茶碗や皿を並べた。たちまち昼下がりの空気に、香ばしい茶と焼き菓子の甘い匂いが広がる。

時は春の半ば。草木は冬の喪服を脱ぎ捨て、競うように艶やかな花を咲かせていた。


いたずら好きな弟のコーピンが、淹れたてのお茶に手を伸ばそうとするのを、リリィはそっと腕に引き寄せる。

両親は寄り添いながら、目を細めて子どもたちを温かく見守っていた。


幸せを絵に描いたような風景。

リリィは林檎の花の香りを胸いっぱいに吸い込み、

――この時が、ずっと続けばいいのに、と願った。


「ありがとう、リリィ。朝から畑仕事をした後に、コーピンの世話までしてくれて……」

母が少し戸惑った声で言った。

「それにしても……まるで人が変わったみたい。働き者になったのね」


その言葉に、リリィはふと息をのんだ。

内心の動揺を悟られまいと、弟とじゃれ合うふりをして視線をそらす。


「大したことじゃないよ」

そう言って笑いながら、コーピンのほっぺに軽くキスをする。


「風邪で死にかけて、やっと気づいたの。お母さんとお父さんが、どれだけ私を愛してくれてたか。

素敵なものに囲まれてたのに、ずっとそれをぞんざいに扱ってたって……」


言葉を区切って、リリィは空を見上げた。


「だから、アマータ様にお願いしたの。もし病気を乗り越えられたら、すごく良い子になって、お母さんたちのお手伝いをいっぱいするとって。そしたら神様が、お願いを叶えてくれたのよ」

「……そう」


両親は、ぎこちなく目を見合わせた。

それを見て、リリィは小さく苦笑する。子煩悩な父母が戸惑うのも無理はない。

生意気で怠け者だった娘が、たった二ヶ月前の大病を境に、急に別人のように働き者に変わったのだから。


――そう、リリィは変わった。

けれど、それは熱で脳みそを茹でられたせいじゃない。

『彼女』が、この身体に入ったせいなのだ。


彼女はリリィではない。

この世界の人間ですらない。

別の次元――地球という星で生まれ、非業の死を遂げて、全てが失われたと思った時に神に出会い、二度目のチャンスを与えられた、異世界の魂なのだ。


本来の住人たましいを押し退けて身体を乗っ取ったことに、彼女は罪悪感など微塵も覚えていなかった。

なぜなら、彼女はリリィが嫌いだったからだ。


力強く、黙々と働く父親。

優しくて、料理が上手な母親。

信じられないほど愛らしい弟。

戦も争いもない、静かで平和な村。

背後から刺してくることも、こちらを殺そうとすることもない、優しい友達。


リリィは、彼女が血の一滴まで絞ってでも手に入れたかったものを、すべて――最初から持っていた。

それなのに、何一つ大切にしていなかった。


愛されることを当然と思い、

幸せからはわざわざ目を背け、

夢見るのは、来るはずのない王子様や、見たこともない都会の幻ばかり。

その傲慢さが、許せなかった。

――リリィが、憎かった。


だからこの身体を奪い取った後、彼女が最初にしたのは、「この幸せに見合う人間になること」だった。

畑仕事も、家畜の世話も、家事手伝いも、コーピンのおしめ洗いも――全然嫌じゃなかった。

それらは、彼女がずっと夢見ていたことだったから。


一つひとつ、地に足をつけて手を動かして何かを成し遂げるたびに、確信が深まった。

この身体に相応しい主は、やはり『アタシ』なのだと。

かつては、頭の奥で耳鳴りのようにうるさく鳴り響いていたリリィの声も、いまではすっかり小さくなった。


あと少しで完全聞こえなくなるだろう。この身体が隅々まで、自分のものになるのは時間の問題だ。


「もうすぐだよ、コーピン……」

くすぐるように赤ん坊の耳にささやく。

「もうすぐ、アタシたちは“本物の”家族になれるんだよ」


スカートの裾を払い、抱っこをねだる弟の口に焼き菓子をそっと押し込み、母の腕に抱かせた。


「お休みはこれでおしまい! お母さん、今日の晩ごはんは私に任せて! 試したいレシピがあるの!」

「それなんだが……」


父は、指先に残った菓子の欠片をじっと見つめながら言った。


「晩ごはんは、また今度にしてくれ。……お前に会いたいって、人たちが来てるんだ」


彼女は瞬きをして父親を見た。この小さな村で、彼がそんなもったいぶった口調で話すような人物に、心当たりはなかった。


「実はな。王都の大聖堂から使者が来たとき、教父様が、お前の学校の成績のことをべた褒めしてくれてな。その話がとんとん拍子に“上”まで伝わって……今日、神学院から司祭様と助任司祭様が来て、お前を面接することになったんだよ」

「――嘘! 本当に!?」


驚きで、息が止まるかと思った。

王都の新学院は、平民でも高等教育を受けられる、ほぼ唯一の道だ。

彼女も、何時かそこに潜り込もうと、十年越しの計画を立てていたが ――まさか、こんなに早く機会が巡ってくるなんて!


「本当はもっと早くお前に知らせて、勉強させてやれば良かったんだが……教父様のホラ吹き癖は知ってるだろ?がっかりさせたくなくて黙っていたら、つい忘れちまったんだ……」


すまんなぁ、と父親はうなだれた。彼女は慰めるように、父の大きな身体を抱きしめ、絞り上げた。


「大丈夫だよ!私、賢いもん!」父の顔を見上げ、にっこり笑って言った。「私、絶対に受かるよ。いっぱい勉強し、出世して、そしてたくさん、たくさんお金を稼いでお父さん、お母さんを助けるの。コーピン、お前も王さまのいる都へ行けるかもしれないよ!」


ふと、父を抱きしめる腕に違和感を覚えたが、抱き返してくれる温もりに包まれて、その感覚はすぐに溶けていった。


「ああ……頑張っておいで」

父は彼女の耳元にそっと囁く。

「私たちは皆、お前を信じているよ……」



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― 新着の感想 ―
生まれながら何でも持っている人間には、 多少なりとも嫉妬を抱くものですね。 文章力も高く、物語の進むテンポも良いです。 面白かったので、ブクマさせて頂きました。
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