第59話 薔薇
自分でも驚くくらいに涙が止まらなかった。
ほんの一時でも、ロズのことを忘れたという事実そのものが、ミシェルの心を打ちのめした。いくらそれが、ロズの手によるものだと分かっていても。
「ううぅ~」
ミシェルがめちゃくちゃに顔を拭っているのを、ロズはとても満足したような顔で見ている。遠くの王宮関係者席でティムが天を仰いでいるのも見えた。神官長は近くでおろおろしていて、もはやしっちゃかめっちゃかだ。
だが、いつまでもそうしている訳にも行かなかった。
「ちょっと、なんなの? あたしの儀式はどうなったの?」
放置されていたメリザンドが、壇上で不機嫌な声を上げている。自分が注目されていないということが、許せないようだった。
本来なら、ここで伴侶役が石の花を咲かせて、ロズノアテムを呼び出す。けれどメリザンドには、その資格がない。
どうするのだろう、とロズを見上げると、すうっと色の抜け落ちた目でメリザンドを見ていた。
そこに、怒りとか、憎しみといった感情は一切ない。ただただ、透き通った上質なガラスが、微かな揺らぎを湛えていた。
「ミシェル」
「なに?」
「ちょっとごめんね」
そう言うや否や、ロズはミシェルを軽々と横抱きにして歩き出した。驚いて両手を縮めると、石の蕾を持っているように言われる。慌てて言われた通りにした。
ミシェルを抱えたまま登壇したロズに、メリザンドは声を荒げた。
「それはあたしの侍女よ。なんでここに持って来るの!?」
「お前の侍女じゃない。もう僕のものだ」
ロズは、神殿に集まった人々に向かって、堂々と語りかけた。
「我が名は、時の神ロズノアテム」
決して声を張り上げているわけではないのに、ロズの声は遥か彼方まで易々と響き渡る。
少年姿の時、彼は名乗った名前で認識されるようになっている。普段ならば、神官見習いのロズと。
そして今は。
「え、うそ……!?」
メリザンドを筆頭にざわめきが広がっていき、神殿の前に詰め掛けていた人々は、自然と膝をついて頭を垂れた。その動きは、波のように丘の麓まで広がっていく。
「ロズノアテム様……!」
驚いていないのは神官たちで、彼らは予定調和のように揃って視線を下げ、次の言葉を待っていた。
「まずは、こうして時訪祭の日を迎えられたことを、心から祝おう」
神として話すロズは、まるで別人みたいに見えた。淡々としていて、透明だ。
一呼吸分おいて、ロズはメリザンドに体ごと向き直る。メリザンドはパッと頬を上気させて、ふんわりとした髪を手で梳いて整えた。
「しかし今、神聖な祭りに相応しくない者が、この場に紛れ込んでいる」
きっと聞いていた誰もが、ただ一人を思い浮かべたはずだ。しかし当のメリザンドだけは、「それってミシェルのこと?」という顔をしていた。
ロズは神官たちに向けて、顎をしゃくった。
「メリザンド・キャステンと、キャステン公爵を捕らえろ」
「はい!」
「えっ、なにっ、なんで!?」
生き生きとした神官たちが、メリザンドを壇上から引きずり下ろした。その隣に、小太りの公爵も連れて来られる。
二人並んで地面に押さえつけられた姿は、繰り返す時間の中で見たものと同じ。
ただひとつ違うのは、メリザンドにはもう、死んで時間を戻すという手段が使えないことだった。
「メリザンド・キャステン。伴侶役という立場にありながら、大切な祈りの役目を怠った」
「そんな、あたしは!」
「公爵は、神官たちに強く妨害行為を行った。彼らは、伴侶役が間違いを犯さないよう、監督しなければならないのに」
メリザンドは反論しようと声を上げているが、公爵はぶるぶると震えているだけだ。
ロズはガラスの瞳で、彼ら二人を見下ろした。
「僕に対する不敬、許されるとでも思ったのか?」
メリザンドが絶句した。緑色の瞳が激しく揺れ動いて、そして視界にミシェルを捉える。可愛らしい顔が盛大に歪んだ。
「なんで、なんで! あたしじゃなくて、ミシェルが上にいるのッ!」
それを聞いて、ミシェルは少しだけ、鼻の奥がツンとした。
(ああ、お嬢様は、理解できないんだ)
自分がやったこと。やらなかったこと。それがどんな意味を持つのか、ちっとも分かっていない。
ただ、自分の欲のままに生きている。欲しい物を手に取って、その時の気分で振り回す。
伴侶役の祈りがどれほど大切だったかなんて、知ろうとしたこともなかったのだろう。
「お前たち二人の行いで、時間は一度壊れた」
「それがなに!?」
「……はぁ。ここにいるミシェルは、身を挺して時間を修復してくれた。彼女のお陰で、世界は崩壊せずに済んでいる」
誰の中にも、壊れた時間の記憶はない。だが、ロズは端から、人間たちを納得させようとは考えていないようだった。
「僕は、ミシェルを選んだ」
ミシェルを抱く手に、強い力が籠もる。
「僕が選んだ真実の伴侶として、ミシェルは永遠に僕のものだ」
「なっ、なん……!」
メリザンドはまず、真っ白に血の気を引かせてから、直後に首まで真っ赤に染め上げて暴れ狂った。神官の一人が吹き飛ばされるくらいの、尋常ではない荒れ方だった。
それはひょっとすると、ミシェルの裏切りを知った時よりも、強く激しい怒りだった。
「違う! 違う、違うよ! 伴侶はあたし! ミシェルはあたしの物! 全部あたしのなの! そこに立つのも、ロズノアテム様も、あたしの物なのにっ!」
まったくもって理解できないけれど、メリザンドにも譲れないものがあるらしい。でもそれは、認められない。
ロズノアテムの伴侶として、ミシェルは彼女を認めてはいけない。
「ロズ、」
ミシェルの声はガサガサだ。それを聞いたロズが、優しい手つきで喉を一撫でしてくれた。黒い花びらがひとひらだけ落ちて、気づけば喉の微かな痛みが無くなっている。
時間を一部だけ早めて、発声器官を癒してくれたようだ。
小さく咳払いをして、ちゃんと声が出ることを確認する。
「ロズ、下ろして」
「どうしたの?」
「いいから」
少し不服そうにしていたけれど、ロズは要望通りにしてくれた。
そんな彼の眼前に、握りしめていた石の蕾を掲げる。
「時の伴侶、ミシェルがロズノアテムに願います」
メリザンドの考えが変わらないのは、もう分かっている。彼女の心根は、生まれた時から歪んでいて、今さら矯正など不可能だ。
だから、粉々に打ち砕く。
「どうか、私に姿を見せて。そして、愛してると言って」
神様をしていたロズが、目をまん丸くした。ミシェルの知っている彼だ。
おかしそうに笑ったロズは、愛おしそうにミシェルの頬を包み込む。
「そういうことなら、お安い御用」
石の蕾が、音もなく色づき、花開いた。零れんばかりに咲き誇る、艶やかな黒薔薇。
それと同時に、少年の形をしていたロズが、花びらを裏返したみたいにその姿を変えた。
丸みを帯びた輪郭が、固く精悍な色を宿す。手のひらが大きくなり、腕が太くなって、ミシェルを閉じ込めるみたいに捕まえた。髪が伸び、背も高くなって、夢の中で会った青年の形がこの世に顕れる。
時の神ロズノアテムが、ミシェルをひょいと片腕に抱え上げた。
せっかく下ろしてもらったというのに。
「これでいいかい、僕の伴侶」
「愛してる、は?」
「もちろん、愛してるよミシェル」
「私も、愛してるわ、ロズ」
まるで舞台の上の戯曲。見せつけるための愛の言葉。
それでもちゃんと気持ちを込めて、ロズの唇にそっと口づけをする。少しだけ、血の味がした。
メリザンドが、言葉にならない奇怪な叫び声を上げた。気が狂ってしまったんじゃないかと思うくらい。
ミシェルは、かつての主人を高みから見下ろした。
今なら、彼女に向けるべき言葉が分かる。
この感情の名前は、恐怖でも、嫌悪でもない。
「お嬢様、可哀想」
ふつっと、メリザンドは黙り込んだ。ミシェルを見上げてくる瞳は、生まれたての赤ん坊のようだった。
「可哀想な人。愛することも、愛されることも知らないの。ちっとも成長できなくて、ずっと子供のままで」
この世のすべてが自分のものだと思い込んで、取り上げられたら泣き喚いて。
その歪んだ魂を、誰も正そうとはしなかった。きっとそれが、メリザンドにとって唯一の不運だった。
呆けてしまったメリザンドは、神官たちが手を放しても、もう暴れたりしなかった。
「……キャステン家の処分は、今後王家に任せることにする。僕は、時の神としての役目を果たそう」
ロズはミシェルの手から石の薔薇を抜き取って、ふうっと息を吹きかけた。
きらきらと光る花びらが、空に舞い上がっていく。
風が吹いた。体を竦ませる冷たい風ではない。暖かい、髪を優しく攫う春の風だ。
神殿をぐるりと囲む庭、そこかしこに植えられた薔薇の木に、ぽつぽつと、可愛らしい彩りが増えた。花壇に植えられた他の草木も、一斉に花を咲かせ始める。
神が春を呼ぶ時訪祭。ずっと、この時を待っていた。
「ねえミシェル、この花も見て」
夢中で春の訪れを眺めていると、ロズに呼ばれた。
すとんと下ろされたミシェルは、なんだろうと首を傾げる。
高い背を屈め、ロズは少しだけ息を詰めて、ミシェルの首を大きな手で掴むように覆った。
「……君に、約束の贈り物だよ」
懐から取り出されたのは、黒い薔薇が編み込まれたレース飾りだった。少し小ぶりなバラの花が、九つ。
「大事にしてね」
すりすりと首を撫でられた後、黒薔薇のレースは微かに震える手で巻きつけられた。顎の下で黒いリボンをぎゅっと結ぶ。
ミシェルの細い首に、誂えたみたいにぴったりと収まった、黒薔薇の首飾り。
「……嬉しい。ありがとう、ロズ」
腹の底から喉の奥まで、幸せな気持ちでぱんぱんになってしまって、それ以上の言葉が出てこなかった。
代わりに、なんだか泣きそうな、濁った瞳をしているロズに、頑張って背伸びをしてもう一度キスをする。
「ずっとずっと、永遠に大好き。いつまでも一緒だよ」
「……僕も」
次は、その首飾りに似合う服を選ぼうねと、ロズはやっぱりどろりとした目で笑った。




