第57話 白紙
走り抜けた先が明るく輝いていたから、もう大丈夫なのだと思った。
いつもの星屑は足元に見えるけれど、頭上は夜明けのように明るい。
そこにぽつんと佇むロズがいたから、ミシェルは飛び跳ねて近づいた。
何故だか少年の姿をしているロズは、ミシェルが目の前に立っても、俯いたまま何も言わなかった。
「ロズ、何をしてるの?」
「……世界を壊してる」
ちょっとだけね、と付け足した言葉は、なんだか言い訳じみている。彼はこの世界そのものなのだから、そんな風に言わなくてもいいのに、と思った。
「そうなんだ」
そう返事をすると、ロズはのろのろと顔を上げた。ミシェルはびっくりした。
「ひどい顔してる」
「……誰のせいだと」
いつもロズは、眠そうな、飄々とした空気を纏って、何でもないみたいな顔をしていたのに。
今の彼は、倒れた木の大きなうろみたいだった。
中になんにもなくて、真っ暗で。叩いてみたらきっと、虚ろな音がよく響く。
赤い瞳は濁り切っている。どろりと鈍く光る様は、この身から流れ出た血と、少し似ている。
「どうして、あんなこと」
ぐしゃぐしゃに歪んだ顔は、迷子になった子供のよう。
「ロズを、助けるため」
「ミシェルが死んだら、何も意味はない」
「でも、約束した」
「そうだね。……神との約束だ。だから儀式は間違いなく成功した」
ずっとずっと昏い目をしているロズに、ミシェルは微笑んだ。
「ロズ、私がいなくなったら、ちゃんと悲しんでくれた」
次にびっくりして目をまん丸にするのは、ロズの方だった。
「……もー。なんでそんな、可愛いこと言うの」
「だって、嬉しかったから」
ちょっとだけ身を屈めて、下から覗き込むように視線を合わせると、ロズはようやく笑ってくれた。
「ほんと……、馬鹿な子」
ミシェルに向けられる、瞳の奥のどろどろとした執着は消えないけれど。
ぎゅうっと痛いくらいの力で抱き締められて、ミシェルもしっかりと腕を回して抱き返した。
「……君のことを忘れてしまうのが、本当は、すごく辛かった」
「ロズ?」
ぽとぽとと落ちてきた言葉は、酷く掠れて聞き取りづらい。
「早く思い出したいって、ずっと思ってた。なのに、あれは酷いよ。許さないからね」
「うふふ。ごめんね」
「また笑って。本当に怒ってるんだから」
だとしたら、ロズは怒るのがものすごく下手だ。
こんな風に腕の中で愛を囁かれてるのに、喜ばないはずがない。
「だからちょっとだけ、君に仕返し」
「しかえし?」
意地悪な声でそう言ったロズは、星屑の渦に手を突っ込んで、ちゃぷちゃぷとかき混ぜた。何かを調整しているみたいに見えた。
頭上がさっきよりも眩しくなった。穴が開いているんだな、と思う。その穴がどんどん、大きくなっている。
「今、時間を戻してるんだ」
「どうして?」
「君を生き返らせるためだよ、お馬鹿さん」
混ぜたその手のひらに星を掬い取って、ロズはじっと見つめている。かと思えば、それをぎゅっと握り潰してしまった。
「何度も繰り返したところを無かったことにして、僕が封印された日の時訪祭をやり直す」
もう壊れちゃってるし、と言いながら、またロズは星を掬い上げた。
よく見ればその星たちにはヒビが入っていて、ロズが強く握り込むと粉々に砕けてしまう。星の欠片は、全部彼のポケットに収められていった。
たまに、ヒビが入っているのに潰さない星があって、それはロズが大切そうに選り分け、宙に浮かべていた。
「でも……」
ミシェルはそれを、呆然と見ていた。
「そうしたら私、ロズのこと……」
「うん、忘れちゃうね」
あの壊れた時間の中にしか、ロズと重ねた記憶はない。
「い、嫌」
激しく首を振った。
忘れられるのは構わなかった。ロズの役に立てるのなら、それでいいと本気で思っていたから。
でも、彼を忘れることだけは、耐え難い。
「嫌だ、ロズ」
ロズの腕に縋りついて、揺さぶる。
「あなたを忘れたくない。そんなの……」
考えたこともなかった。ミシェルの中からロズの存在が消えてしまう。今さらそんな未来などありえないのに。
こんなにも大切なのに。
ミシェルの全身、皮膚一枚めくったその内側、隅々にまで満ちたこの想いを失ったら、もう到底立ち上がることなどできない。
けれどロズを忘れてしまったら、そんな喪失感すら、感じられなくなる。
「生きていけない……」
ぼろぼろと落ちる涙を、ロズの指先が受け止めた。
泣くミシェルを、ロズは頬を柔らかく染めて陶然と見ている。さっきまで、あんなに鬱々としていたのに。
「知ってるよ。だから言ったでしょ。仕返し」
「やだ、やめてよ」
「やめない。……それに、これしかないんだ。君も、時間も、元通りにするには」
また一段と、頭上が明るくなった。
「封印そのものをなかったことにしなきゃ。でないと、ミシェルの犠牲が帳消しにできない」
神を喚ぶための生贄となったミシェルを、その枷から解放するために。
ロズはミシェルの背を支えていた手を、そっと放した。明るい方へと体が浮き上がっていって、ミシェルは慌てて腕を伸ばした。
「ロズ!」
「君はもう行かないと。いつまでもここにはいられないよ」
「嫌だ、離れたくない……!」
「大丈夫」
ミシェルが降らせる涙の雨を浴びながら、ロズはとても綺麗に笑った。
「いつか再び出会う、その過去まで。――さようなら」




