第55話 幸福
「『星がめぐるのはなぜ?』」
そろそろ時訪祭が目前に迫っているはずだった。メリザンドは変わらず、ミシェルを鞭で叩きに来る。だから、ロズへの伝言はうまくいったのだと思う。
フットマンには、ミシェルの部屋にある手鏡を、ロズの元まで届けてくれるように頼んだ。ティムとシモンに会うためには、あの手鏡を使うのが一番早い。
ミシェルの部屋は、メリザンドの寝室の中だ。だから、あのフットマンにはかなり無茶をお願いしてしまった。
「『僕が息をしているから』」
暗殺計画は止まった。なら、次だ。
メリザンドを誘導して、儀式を成功させなければいけない。
(策は、ある)
それが成功するかどうかは、やってみなければ不明だ。メリザンドが、ミシェルの思う通りに動いてくれるか。
「『月がのぼるのはなぜ?』」
彼女のことは、なんでも知っていると思っていた。侍女であった頃、誰よりも近い場所にいるのだと自負していた。
そんなのは、ただの錯覚で、幻でしかなかった。
メリザンドを理解できる人間など存在しない。彼女はどこまでも、自分一人だけの世界で生きている。
それでも、メリザンド・キャステンと対峙できるのは、ミシェルだけだとも思う。
「『君のとなりに、僕がいるから』」
歌い終わる前に、寒い地下牢に硬質なヒールの足音が響く。
今日の見張りは、急いでミシェルの毛布を回収して、知らんぷりを決め込んだ。
「……あたしがいないと、随分と元気なんだね」
メリザンドは既に不機嫌だった。置きっぱなしにしてある桶を掴んで、鉄格子の向こうから水をぶちまけた。
ずっと地下に置いてある水は、氷のように冷たい。だが、今更どうとも思わなかった。
「あたしには何も話さないくせに!」
メリザンドが鉄格子を蹴りつける度、ガンガンと耳障りな音が地下に響く。
ミシェルは無言のまま、唇の端を吊り上げた。
「っなによ! 生意気な顔してっ!」
桶を投げつけてきたが、中身は空だ。格子に阻まれて跳ね返り、床に転がった桶を、メリザンドは憎悪すら籠った視線で追いかけた。
さすがの彼女も、鞭では効果が無いことを学習したのだろう。手に血管が浮き出る程、鞭の持ち手をきつく握り締めている。けれど牢に入って、ミシェルを鞭打とうとはしない。
途方に暮れている。ミシェルを責める以外にどうしていいか分からず、ただ立ち尽くすしかない。
観察する。予想する。彼女が何を求めているか。
これまでに何年も、やってきたことだ。
「……時訪祭は、明日?」
声に笑いを含ませた。メリザンドが逆上するように。
「そう! そうだよ! あたしは伴侶として祭りに出ないといけないの!」
無茶苦茶に振り回される鞭から、見張りが体を縮こまらせて逃げる。
「でも、花は咲かない」
とうとうメリザンドは、金切り声を上げて鞭を投げ捨てた。肩で息をしながら、ミシェルを睨みつける。
見張りはすっかり怯え切っていた。
「ねえ。ねえミシェル」
ころりと表情を変えたメリザンドは、猫撫で声で語りかけてくる。
「どうやって花を咲かせるのか。それさえ分かればいいの」
優しげな態度で話しかければ、なんでも言うことを聞く。ミシェルは、なんとも扱いやすい道具だったことだろう。
だがもう、ミシェルには通用しない。
「一年の間、毎日祈る」
「そういうことじゃない!!」
祈りを怠りさえしなければ、こんなことにはならなかった。メリザンドは望み通り、時訪祭で伴侶役として立てたのに。
メリザンドは、それを理解しているのだろうか。
「ミシェルあんたは、どうやってあたしの立場を奪ったの!?」
「……あはは」
なんて愚かなのだろう。自分の行いが分かっていないメリザンドも、彼女に長年尽くしていたミシェル自身も。
声を上げて笑うと、メリザンドは怒りで顔を真っ赤にした。
「私には、花なんて必要ない」
「なんでよ!」
「私が花そのものだから」
勝ち誇ったように胸を張る。
ミシェルはロズノアテム本人に選ばれた。時の伴侶は、世界の時を守るために力の媒介となる。
儀式で使う石の花は、時の神から伴侶役へと力を受け渡すための道具。
どちらも、力の器となることに違いはない。
「……あたしは神の伴侶になれないって、そう言いたいわけ? 自慢だけして、あたしを馬鹿にしたの!?」
もはやメリザンドの顔に、元の可愛らしさなどひと欠片もない。ふわふわの髪を掻き乱し、歯を剥き出して唸る様は、まるで飢えた獣のようだった。
「だって、目の前にロズノアテムがいるのに、気が付きもしなかった」
「……なんですって?」
「花を持って来た、若い神官。そんなことも、分からなかった?」
「……なによっ、何よ何よ!」
彼女はくるりと踵を返し、落ちた鞭を拾いもせずに、叫び散らしながら地下牢を後にした。
(……お嬢様は、最初の時訪祭で、石の花を食べた)
それも、ロズの力を限界まで吸い取った花を。
だからメリザンドの中には、失われた時の神の力がある。儀式に足りなかったものはそれだ。
メリザンドが死ぬ度に、封じ込められた力が少しだけ漏れて、時間を巻き戻していた。消える間近だったロズの、「やり直さなきゃ」という意思に沿って。そして、行き場をなくした力の欠片が、教会の壁で花の結晶として咲いていた。
ミシェルが儀式を行うだけでは足りなかった。メリザンドも、参加しなければならなかったのだ。
このままではミシェルは、地下牢から出られない。メリザンド自身が、そうするように仕向ける必要があった。
きっと、うまくいく。
ミシェルは冷たい床に丸くなった。毛布はもう、いらなかった。
時訪祭の日の朝。鉄格子の前に、湯気の立つスープが置かれていた。フットマンはおらず、がたがたと震えるメイドの見張りが、こちらに背を向けて座っていた。
ミシェルは微笑んで、そのスープを手元に引き寄せ、口を付けた。
はっと目が覚めた。起き上がろうとしたミシェルは、体がほとんど動かないことに気付く。
両手両足をきつく縛られ、猿ぐつわを噛まされて、床に転がされていた。視界に入るのは堅牢な石組みの、少し湿った天井。薄暗い隅の方には苔が生え、空気全体がどことなくかび臭い。見慣れた屋敷の地下牢だ。
どうにか視線を巡らせれば、鉄格子の扉が開いている。その向こうに、メリザンドがいた。
(お嬢様……)
メリザンドは片手に無骨な斧を引きずって、牢に入って来る。ふわふわとした美しい髪が、酷く場違いに見えた。
「本当によく効く薬! 目覚める時間もばっちりだね!」
明るく弾む声。
(これは、お嬢様が自分でやったのね)
それならば、いい。
体の力を抜いたミシェルを、メリザンドが見下ろす。
「ねえ、ミシェル。あなたはね、舞台上の小道具なの」
にっこりと笑って、キャステン公爵家の令嬢はそう言った。
「あたしは主役。誰も目が離せない、舞台を独り占めするような、華やかな主役。それがあたしなの!」
この後どうなるかは、予想がついている。
願うことは、ただ一つ。
(どうか、どうか。この首一つで、あなたの望みが叶うなら、それだけで)
死んだっていい。忘れられてもいい。どんな形でもいいから、役に立てることがこんなにも嬉しい。
「ただの道具でしかないあなたが、あたしのために死ねるのは、とっても、とっても、光栄なことなんだよ?」
ふらふらとした手つきで斧を振り上げるメリザンドを、ミシェルは目を細めて見上げた。
「だから、ね? あたしのために、死んでね」
無防備に晒された首に、斧が振り下ろされる。
その瞬間のミシェルは、確かに、心から満ち足りた微笑みを浮かべていた。
この人のためなら死んでもいいと、そう思える相手がいるのは、とても幸福なことだと思う。
明日は昼過ぎ頃から夕方にかけて、最終回まで一気に投稿します。
クライマックスをぜひ楽しんでください。




