第53話 地下
「はじまりは はなさくとき」
骨まで染み入るような寒さが、地下牢に満ちている。ミシェルが牢に入れられてから、恐らく何日か経っていた。
しわがれた歌声と一緒に、白い息が吐き出された。
「おわりなきたび ほしがめぐるひびを」
石組みの床に直接座るのは辛い。けれど牢の中には、寒さを凌ぐための物などない。手を擦り合わせ、体を撫でさすって暖を取るしかなかった。
ミシェルはできるだけ体を小さくして、黴臭い空気をゆっくりと吸い込んだ。
「きらめきをながめて うたうのは」
この牢から出なければいけない。
そのためには、どうにかメリザンドを言いくるめるしかなかった。
だが、素直に出してくれと言ったところで、彼女がそれを許すはずはない。
「いくひさしく つづくいのり」
牢の前には見張りがいる。交代で来る誰もが牢に背を向けて、椅子に座っていた。決してこちらを見ようとしないのは、命令されているからか、それともミシェルを見たくないからか。
鍵が開きさえすれば、こっそり屋敷の中を移動することは簡単だ。幼い頃から、ミシェルはそうやって、人の目から逃れて生きてきた。
だが流石に、目の前で見張っている人間から逃げることはできない。
「いつかうまれた くろいばらの」
彼らはミシェルに同情している。だが、協力を得ることは難しい。使用人たちは一様に、メリザンドを恐れている。
もしミシェルに親切にしたことがバレたら、メリザンドは容赦なく罰を下す。もしかしたら、同じ牢に入れられてしまうかもしれない。
そうはなりたくないと、思うのは当然のことだ。
「はなびらが よるにながれた」
そして、彼らがミシェルに手を貸そうとしない理由は、もう一つある。
階段を降りる足音が聞こえてきて、見張りの背中がみるみる緊張した。
曲がり角の向こうから、ドレスの裾が覗く。弾むような足取りで、メリザンドが歩いてきた。
いつも通りにしっかりと着飾って、メリザンドはにこやかに笑う。
「さあミシェル。そろそろ話す気になった?」
メリザンドは一日一回、牢に来る。そして、ミシェルがどうやって神の伴侶になったのかを聞き出そうとする。
そのやり方は様々だ。冷水を浴びせられることもあれば、きゃんきゃんと喚かれるだけの時もある。
今日のメリザンドは、手に短い鞭を持っていた。
早々に暴力に走るとは分かっていた。メリザンドは堪え性が無い。思い通りにならないことが、我慢ならない。
何もかも予想通り。分かっていることなら、何があっても耐えられる。
牢の鍵を開けて、メリザンドはミシェルに近づいてくる。何の前触れもなく、鞭が振り下ろされた。
鋭い熱が左肩に走る。
「……」
「ねえミシェル、簡単なことでしょ? どうやって伴侶に選ばれたの?」
にこにこと笑っていたメリザンドの表情が一変する。
「話せって言ってるの!」
空気を切り裂く音と共に、二度三度と鞭で打たれる。
それでも、ミシェルは沈黙したまま動かなかった。
事態が打開できるまで、何かを話すつもりは一切なかった。
「なによ! あたしのこと馬鹿にしてるの!?」
その後は、癇癪を起こしたメリザンドにひたすら鞭打たれる時間だった。
体を丸めてじっと耐えていると、メリザンドの体力が尽きたらしい。案外早くに終わった。
「ムカつく! 絶対に聞き出してやるんだから!」
キャンキャンと喚きながら、メリザンドは最後に力任せに鞭を振るう。それはミシェルに当たらず、離れた場所の床をバシンと打った。
「っあ゛ぁ! もう!」
苛立ち混じりに、鉄格子にもデタラメに鞭を打ち付け、メリザンドは大股で牢を出ていく。
見張りが慌てたように、開いたままの牢を閉めた。
ミシェルはゆっくりと身体を起こし、鞭が当たった二の腕を見た。赤く腫れているが、そこまで酷い傷ではない。打たれている時も、見た目ほど痛くはなかった。
幼い頃、実父に鞭を振るわれていたときの方が、よほど酷かった。
「あの……、ミシェルさん」
誰かに聞かれることを恐れるような、密やかなささやき声が落とされた。
見張りの使用人が、牢の前にしゃがみ込んでミシェルを見ていた。
それは、ミシェルを牢に連行した、あの時に謝罪した使用人だった。確か、フットマンだったはずだ。
「傷は、大丈夫ですか」
「……はい」
ミシェルが頷くと、フットマンは大きく息を呑んだ。
「……ごめんなさい」
「あやまらないでください」
「でも……」
こんなに酷いことを、と唇を噛む。
まさか気遣ってもらえるとは思わなかったから、ミシェルは少しだけ笑った。
「おじょうさまは、拷問のやりかたなんて、しらないから」
それに非力だ。細い手で、ひょろひょろと振られる鞭なんて、ミシェルにはどうということもない。
鞭以外の何かが出てくることもないだろう。誰かが入れ知恵しない限り、メリザンドにその手の知識はないからだ。
「な、何か、手助けできることはありますか」
フットマンが必死に言い募ってくる。なんとも滑稽なことだ。
手助けなんて。
「いりません」
「どうして!」
「だって、にがしては、くれないんでしょう?」
それができないなら、意味はない。
フットマンは何かを言おうとして口を開いたが、言葉が出てこなかったのか、小さく呻いた後に俯いた。
ミシェルはまた膝を抱え、体を前後に揺らしながら歌い始めた。
「つきがわらいかける
あなたへ ねむるわたしへ」
機会が来るまで、ただ待てばいい。何もしなければ、メリザンドは殺されて時間が戻る。何度もやり直せるのは、ミシェルも同じだ。
「『ほしがめぐるのはなぜ?』」
『ぼくがいきをしているから』」
どうかうまくいきますようにと、祈りを捧げる。
その相手は、もちろん決まっていた。
「『つきがのぼるのはなぜ?』」
『きみのとなりに、ぼくがいるから』」
会いたいなと、思った。
(ロズに会いたい)
寒さと痛みに耐え、小声で歌い続けるミシェルから、フットマンは目を逸らした。




