第49話 開始
夜が明けたばかりの空には、澄み切った淡い色が広がっていた。
吸い込んだ息が喉の奥を刺す。ミシェルは霜の降りた下草を踏んで、裏庭の隅を歩いた。
「ロズ、おはよう」
花壇で寝ているロズの傍にしゃがんで、声をかける。ロズは小さく唸って、寝返りを打った。起きて祭りの準備を手伝ってほしいのだが。
ふと横を見ると、神殿の外壁に黒薔薇が咲いている。
時の神ロズノアテムの象徴である、黒薔薇。花の数は八つ。
これまでに八回、時間が戻っている。けれど、ミシェルが覚えているのは七回だけだ。
最初に何があったのか、まだ分かっていない。何がきっかけで時間が壊れてしまったのか。
伴侶役であるはずのメリザンドが、祈りを放棄していた。それが何らかの形で関わっているのは、間違いないはずなのだが。
「んぁー……。おはよう、ミシェル……」
茂みの中から、もごもごと声がする。にゅっと伸びてきた手を引っ張ると、寝ぼけ眼のロズが起き上がって来た。
黒髪についた葉っぱを払う。ロズの口から、「ありがとう」と欠伸が同時に出た。
「いよいよだね」
緊張してる? と揶揄うような言葉と一緒に、ロズの手がミシェルの頬を撫でた。唇を引き結んで、小さく頷く。
――今日は時訪祭だ。
ティムとシモンに謁見した数日後、ミシェルはメリザンドに手紙を出した。殺害を目論んでいた貴族たちが、立て続けに計画を取りやめた、と。
そこに至る経緯などは書かなかった。調査の結果分かったという体で、暗殺の危険が無くなったことだけを伝えた。
それ以来メリザンドは、ミシェルへの興味を失くしたのか、接触しようとしなくなった。
祈りのために毎日神殿には来ているが、すぐに帰ってしまう。廊下などですれ違っても、ミシェルに声を掛けてくることもない。
きっと、もう用無しなのだろう。そのことに、ミシェルは少なからず安心していた。
しかし、平穏な日々もここまでだ。今日、ミシェルがロズノアテムの伴侶として儀式を行えば、メリザンドは裏切りを知ることになる。彼女が癇癪を起こすのは目に見えていた。
今日の祭りには、ティムとシモンも参加することになっている。儀式でロズの封印を解いた後に、キャステン家の爵位を剥奪するためだ。
今のキャステン家に、神の伴侶を務める資格はないと、サクスピエンティムの名で民衆に知らしめる。その辺りの準備は、王家がすべて行っていると聞いている。
ミシェルはとにかく、ロズの封印を解くことだけ考えるように言われた。
一番大切な役目だ。それができなければ、なにも始まらない。
ロズが本懐を遂げること。それこそが、今のミシェルの望みだ。だが、キャステンが没落していくことに、何も感じないと言えば嘘になる。
今となっては、あの家での思い出は、すべて恐怖に塗りつぶされてしまった。けれど当時は、確かに幸せを感じていたはずなのだ。
「……メリザンドが来たよ」
ロズの声で、ミシェルは思考の海から引き戻された。
神殿の前庭で、メリザンドの到着を待っているところだった。
時の神殿の神官たちだけでなく、シモンも特別に用意された椅子に座って待機している。王宮騎士を後ろに従え、凛として佇む様は、八歳の子供とは思えないほど大人びていた。
ミシェルは今日のために用意された、新しい神官服を身に纏っていた。『前』に訪れた服屋で、ロズが頼んでおいてくれたらしい。
従来のものと少し違っていて、ローブの裾はドレスのスカートのように広がっているし、施された刺繍は黒一色だ。恐らくロズが指定したのだろう。
ミシェルは神官ではないが、この神殿の一員なのだと言ってもらえたようで、嬉しかった。
薔薇の枝で覆われた門の向こうからは、神の降臨を一目見ようと詰め掛けた人々のざわめきが聞こえてくる。
それらに背を押されるように、門前で馬車から降りたメリザンドが堂々と歩いてきた。その後ろを、豊かな腹を揺らしながらキャステン公爵が付いてくる。
メリザンドはいつもの華やかなドレスではなく、伴侶役のための純白のローブを着ていた。彼女がちっとも好まない、簡素な装いだ。
けれどそんなことも気にならないのか、メリザンドは満面の笑みを浮かべていた。
「メリザンドお嬢様」
神官長が頭を下げるのに合わせて、神官たちもそれに倣う。
「やっとあたしが、ロズノアテム様の伴侶として認められるのね!」
顎を高く逸らして言い放たれた言葉に、ミシェルはぴくりと肩を揺らした。
(それは、違う)
神官長は普段の穏やかさをどこかに消し去って、厳かな表情でメリザンドを見返した。
「それを、今から試すのです」
メリザンドはそのまま、前庭に設置された壇に上がる。人々のざわめきが、少し小さくなった。不安の滲んだ緊張感が、どことなく漂っている気がする。
ロズが進み出た。その手には、祈りの間から持ち出された石の蕾が握られている。
毎日祈りを捧げ続けると、神像が持つ蕾が花を咲かせるようになる。そうなれば、祈りが足りた証拠だ。
この花を咲かせることで、時訪祭の儀式が始まる。
壇上に立ったロズから石の蕾を渡されて、メリザンドは一瞬だけきょとんとした顔をした。毎年この儀式には、キャステン家の人間として参加しているから、何をするかは分かっているはずなのに。
「さあ、祈りを。真に伴侶であるならば、その花が咲くはずです」
神官長に促されたメリザンドは蕾を見て、それから目の前に立つロズを見た。
蕾をぎゅっと握りしめ、メリザンドは目を閉じる。しばらく。
何も起こらない。
当然だ。だってメリザンドは、日々の祈りを怠っていたのだから。
「おかしなことです。花が咲かない」
神官長の言葉に、メリザンドはぱっと目を見開いた。蕾が変わらずに閉じていることを確認して、次に視線を向けたのは、丘に詰めかけている民衆だった。
(……ここで気にするのが、そっちなのね)
人々から猜疑の目で見られていることに気づいたメリザンドが、けたたましい金切り声を上げる。
「そんな訳ない! あたしが神の伴侶なの! いつもは咲いてたんだから!」
「そう言われましても、いまここで花が咲かないことには、どうしようもありません」
淡々とした神官長の返事に、メリザンドはその場で地団駄を踏む。清楚な装いが乱れて、見る影もなかった。
誰もメリザンドを助けようとしない。ただ冷たく口を閉ざして、彼女の一挙手一投足を観察している。娘に甘いキャステン公爵でさえ、青褪めた顔で黙りこくっている。
そして、ミシェルも。
慌ただしく周囲を見渡していたメリザンドは、「あっ」と声を上げた。
「ミシェル! なんとかしてっ!」
随分と久しぶりに、メリザンドがミシェルのことを、まっすぐ見つめていた。
それはきっと、魔法の言葉だったに違いない。
メリザンドにとって、ミシェルは『使い勝手の良い道具』だった。一言、「なんとかして」と言えば、すべて解決したのだから。
夜中にこっそりお菓子を食べることから、パーティー当日に装いを変えることや、暗殺の阻止まで。
だから、花が咲かないと分かった時、メリザンドがそう言うことは分かっていた。
呼ばれたミシェルは壇に近づく。見上げると、陽の光が顔に当たって眩しかった。
メリザンドへの忠誠をなくしてから、ずっと怖かった。
彼女自身への恐怖もある。けれどミシェルが一番恐れたのは、ロズを選ぶと決めた心が、メリザンドを前にした時に揺らぐことだった。
キャステンの屋敷にいた頃と同じようにメリザンドを見上げて、確信する。
(もう、怖くない)
「ミシェル」
ロズがごく自然な仕草で、手を差し出した。ミシェルも躊躇わずに自分のそれを重ねる。
メリザンドの横に並ぶと、石の蕾を押し付けられた。これがどんなに大事なことか、彼女は何も分かっていない。
両手で蕾を捧げ持つと、無機質な石の塊に、血が通うように色が付いた。真っ黒な花びらが、静かに開いていく。
それを見たロズが、微かに笑って頷いた。
「……ほら! ほら、咲いた! これでいいんでしょ!」
メリザンドが勝ち誇ったように叫ぶ。
その瞬間、メリザンドは王宮騎士に、壇上から引きずり降ろされた。
ここまでのすべてが、予定通りだった。




