第48話 書庫
「朝からロズが不気味なくらいにご機嫌なんですが、ミシェルは何か知っていますか?」
書庫の拭き掃除をしながら、神官長が恐る恐る尋ねてきた。
ロズの機嫌が良い理由なんて、ミシェルが知る限りでは一つだけだ。思わず笑みを浮かべると、神官長は「もういいです、なんとなく分かりました」と質問を終わらせた。
「仲が良いのは構いませんが、あまり参拝者に見える所でくっつかないでくださいね。特に子供の前では」
「……? はい」
言われずとも、人前で行儀の悪い振る舞いはしない。ロズだって、仕事中はちゃんと弁えてくれるのだ。意外なことに。
そのロズはといえば、またもや睡眠不足で倒れた。確か、『前』もこのくらいの時期に一度倒れている。今は庭で寝ているはずだ。
謁見時のティム曰く、「人の身体を作った時に、魂の睡眠不足が反映された」のだそうだ。寝ていないという認識が影響しているらしい。
何か封印の影響がある訳ではないとのことで、その点は安心だ。
外は寒いからという理由で、ミシェルは付き添いを断られた。本当なら傍にいたかったが、「風邪を引かないか心配になって、寝るどころじゃない」とロズに言われてしまえば、仕方がない。
暇を持て余し、書庫の整理をしていた神官長を手伝いにきたのだった。
担当していた棚を乾拭きで仕上げて、出していた本を戻していく。その時、一冊の本が目に留まった。
『生贄の歴史』と題された、見覚えのある本。
「これ……」
メリザンドが読んでいた本だ。何度も死に戻る間に、いつの間にか手元に置くようになっていた。本など普段は読まない人だから、珍しいと思ったのを覚えている。
「ミシェル、どうしましたか?」
少し離れた所にいた神官長が、雑巾を置いて寄ってきた。
ミシェルが手にしている本を見て、不思議そうに息を吐く。
「あまり楽しい本ではなかったと思いますが、気になりますか? 読みたいなら、部屋に持って行ってもいいですよ」
「あ、えっと」
本そのものに興味がある訳ではない。
「おじょうさまが、よんでいて」
「そうなのですか。……あの方は何を考えているのでしょうね」
神官長の表情と声色に、僅かな嫌悪感が滲んでいた。
まさか彼がそんな風に、負の感情を剥き出しにするとは思わず、ミシェルは本を胸に抱えて瞬きを繰り返した。
「おや、驚かせてしまいましたか。すみません」
「い、いえ……」
「メリザンドお嬢様のことは、私も、他の神官たちも、伴侶役として認めてなどいないのですよ」
ここだけの秘密ですよ、と茶目っ気たっぷりに、神官長が人差し指を立てる。
「あの方は、神の伴侶になどまったく相応しくない」
それはそうだろうと、今のミシェルには分かる。
ロズノアテムに捧げる大切な祈りすら人に丸投げするような心持ちで、世界の時を守る伴侶役など務まるはずがなかった。
「何より、ロズがメリザンドお嬢様を嫌っています。そのような方を、認められる訳がないでしょう?」
「神官長様……」
ミシェルは静かに息を呑んだ。
神官長はこれまで、何一つ疑問を挟むことなく、ミシェルたちに散々協力してくれた。メリザンドに逆らうようなことも含め。
本当なら、時の伴侶役には従わないといけない立場であるはずなのに。
「あの……、ロズのこと……」
もしかして神官長は、ロズの正体を知っているのだろうか。
ロズ本人から正式な名乗りを聞かなければ、彼が時の神ロズノアテムであると認識することはできない。
これまでの神官長は、何も知らない様子だった。それでも、ロズのことを特別に思っている。最初からそうだった。ここにいる神官たちは、みな。
「何か、知っている、んですか」
神官長はいつもと変わらない、穏やかな表情で首を振った。
「いいえ、何も。ロズとミシェルが何をしようとしているのか、お嬢様が何をしたのかも」
「じゃあ……」
「ですが、ロズが言うことには従います」
訳が分からない。それが顔に出ていたのか、神官長は小さく笑った。
「我々にとって、彼は神官見習いのロズです」
その通りだ。だって、ロズがそう名乗っている。
「私がこの神殿に来てすぐの頃、先輩の神官から聞いた話があります。その先輩が若い頃、よく仕事をサボり、庭で居眠りをする、ロズという少年の見習いがいた、と」
神官長は、棚に並んだ本の背表紙を撫でた。まるで過去の記憶を、優しくなぞるように。
「なんとも不思議なことがある、と思いました。だってその時にも、ロズという少年が神殿に居たのですから」
「……」
「代々、この神殿に伝わる話だそうです。時の神官は、『神官見習いのロズ』の話を聞かされる」
そして、気づくことになるのだ。
「きっと、彼は特別なのです。我々が知らずとも、分からずとも、それだけは確かです」
神官たちはロズを特別視する。その正体に辿り着けなくとも、仕える神に由来する存在として、心の奥底で敬意を払う。
「ミシェル、あなたも特別な方です。神に拾われ、そして、ロズが大切にしている。だからこそ」
だから彼らは、ミシェルにも親切だった。『前』ですら、メリザンドに好意的な元侍女を、暖かく迎え入れてくれた。
ミシェルは、ずっとロズに守られていた。
「……ロズに、お礼を言わないと」
「ええ、そうですね。でもミシェル、これだけは覚えておいてください」
神官長は少し腰を屈めてミシェルと視線を合わせ、柔らかい口調で言った。
「あなたが普通の女の子であったとしても、私はミシェルが幸せになることを、心から願っていますよ」
「……はい。ありがとう、ございます」
体ごと浮いてしまいそうなふわふわした心を、ミシェルは手にしたままだった『生贄の歴史』ごと、ぎゅっときつく抱きしめた。
夜、燭台に火を灯して、ミシェルは書庫から借りてきた本を開いた。
メリザンドがずっと読んでいた、『生贄の歴史』。内容が気になった。
表題のおどろおどろしさとは違って、中身は神々との関わり方について丁寧に纏めた歴史書だ。気まぐれな神に、どうやって願いを聞き届けてもらうか、人々の苦労が記されている。
神はすぐそこにいるけれど、分かりやすく姿を見せるとは限らない。高位の神ほど、人類からは遠い場所にいる。
だから、供物を捧げて呼び出す。作物、家畜、――人間。
供物を受け取った神が、その力を振るうことはままあった。特に人間の生贄は、神を呼び出す確実な手段のひとつであった。人々の願いとは違う結果になることも、多かったようだが。
頁をめくりながら、ミシェルは思いを馳せた。
神であってもできないことはある。そのことに苦悩していたティムを、ミシェルは知ったばかりだ。
ロズだって、どんなに飄々としていても、やろうとしているのは己の役目を果たすことだ。この世界の時間を守る。
そんな風に優しく、誠実な神々が、人の命を対価に願いを捧げられたなら。姿を現さずにはいられないだろう。例えそれが間違いだったとしても。
最初に生贄を捧げると決めた人は、どんな気持ちだったのだろうか。
(……そうまでしても、叶えたい願いがあったのかな)
全知の神殿に詰めかけて、ひたすらに祈っていた国民たち。顔を隠してまで、熱心に通っていた貴族。
ミシェルには、彼らの気持ちはまだ、理解できそうになかった。




