第38話 手当
「ロズ……」
今にも消え入りそうな声で名前を呼ばれ、ロズは緩む唇をそのままに振り返った。
血の気の無い真っ白な頬をしたミシェルが、ワンピースの裾をきつく握りしめて立ち尽くしている。
「ロズもですが、とにかくコラリー様をお屋敷までお連れしましょう」という神官の言葉で、ロズたちは王都にあるモラン男爵邸に来ていた。
一番状態が酷いのはコラリーで、屋敷に着いた時には意識がなかった。彼女を庇っていた使用人もそれなりに鞭打たれていたが、動けない程ではないようだった。
出迎えた夫人が卒倒する一幕もありつつ、二人がそれぞれ運ばれていった後。ロズたちはコラリーを助けた恩人として、豪華な客間に通された。
同行していた神官は、状況説明のためにモラン男爵の元へ呼ばれている。客間にいるのは、ロズとミシェルだけだ。
「てあてを……」
そう言うミシェルの青い瞳は、焦点を失ったようにがたがたと揺れている。そんな風に動揺する理由は、もう分かっている。
「ミシェルがやってくれるの? じゃあお願い」
ロズは躊躇なく神官服を脱いだ。ミシェルがびっくりしたように顔を隠そうとしたが、その前に背を向ける。
自分では見えないが、背中は赤く腫れているはずだ。メリザンドの力は弱く、服の上からだったこともあって、そう酷くはないだろう。
痛みはあったが、男の御者に何度も打たれていたコラリーほどではない。
だが、庇われたミシェルからしてみれば、ロズが怪我をしたという事実そのものが心を蝕むはずだ。
今、彼女の心を占めているのは、ロズの怪我か、メリザンドへの恐怖か、はたまた過去の苦しみか。はたしてどれだろうか。
背中を見せたまま待っていると、静かな水音がした。ミシェルが布巾を濡らしている。ひりひりする背中の傷に濡れ布巾を当てられると、気持ちがいい。
遠慮がちに触れるミシェルの指は、布巾に負けず劣らず冷たかった。
「……ごめんなさい」
平たく押し潰されたような声。
「わたしの、せいで」
今にも泣き出しそうなのに、その一線を越えないのは、どうせつまらないことを気にして気持ちを抑え込んでいるのだろう。
馬鹿な娘。愚かな娘。
それでこそ、ロズの選んだ伴侶だ。
ミシェルに向き直ると、彼女はびくっと震えて布巾を取り落とした。
王城前からこの屋敷に着くまでずっと、ミシェルはロズの手を握って離さなかった。普段は自分から触れてきたりしないのに。
「どうして謝るの?」
衝動のままに微笑んでみせると、ミシェルの瞳の震えが一層酷くなった。
「わたしが……、お嬢様を、……止めようと、したから……」
ミシェルは、あまり内心を語らない。
感情が薄いというよりは、感情というものに自覚がない。それを表す言葉も知らない。今までの環境が、きっとそうさせている。
だからこそ、コラリーを助けるために飛び出した、その行動が意外だった。
それも、メリザンドへの恐怖はまだ強くこびりついているというのに。
追いかけるのが出遅れ、ミシェルが危うく鞭打たれそうになったのは、ロズの失態だ。だが、そのお陰で良いものも見れた。
(ミシェルって、僕が傷ついたらあんな顔をするんだ)
もうずっと、頬が緩んで仕方がない。思い出すほどに、胸がきゅんきゅんと締め付けられる。
元から大きな目が、零れ落ちそうなほどに見開かれていた。わなわなと震える唇が、声も出せずにロズの名前を呼ぶのを見た時の、かわいそうな様といったら!
ちょっと癖になってしまいそうだ。進んで痛い思いをするつもりは無いけれど。
ロズが黙って見つめているだけなのを、どう受け取ったのか。ミシェルはますます息を詰まらせて俯いた。
この蒼白な顔が見えないのはいただけない。ロズは両手を差し伸べて、彼女の顎をそっと掬い上げた。
「ミシェル」
至近距離で視線を合わせれば、細く白い喉元から「ひくっ」と音が鳴る。
「どうしてあの時、飛び出したの?」
うっすらと濡れた睫毛がふるふると揺れている。
「僕の言いつけを無視してさ」
すっかり怯えきったミシェルの目に、にんまりと笑うロズが映り込んでいた。
「……ぁ」
ミシェルは何度か口をパクパクさせた後、喘ぐようにか細い声を絞り出した。
「コラリー、さまが、……ころされると」
「まあ、あのままだったら、死んでたかもね」
「わたしの、せいで……」
さっきもその言葉を聞いた。ロズの怪我は、確かに彼女のせいかもしれない。
けれど、コラリーがメリザンドに狙われることと、ミシェルに何の関係があるというのか。よく理解できずに目を瞬かせると、ミシェルはさらに声を掠れさせた。もう、ほとんど聞き取れないくらい、微かな声だ。
「おじょうさまを、ころすひとたち。……しらべたのは、わたし」
ああ、と、ロズはようやく得心した。
メリザンドの元にいた時、ミシェルは主人のために情報収集をしていた。何度も殺されては過去に戻るメリザンドに、実行犯たちの情報を渡していた。
その犯人の中には、恐らくコラリーも含まれていたのだろう。
「ぜんぶ……、わたしが、わるいの」
そうやって自分を責めるのは、メリザンドに刷り込まれた価値観か。それは純粋に不愉快だ。
(僕のミシェルに、あいつの影が見える)
それは許せない。ミシェルの心を動かすのは、ロズだけでいい。
ロズだけが、いい。
だから、固く強張るミシェルの背中に腕を回して、そっと抱き寄せた。細かく震えているのを無視して、ゆっくりと頭を撫でる。そのまま後頭部をぐっと押さえつけた。
剥き出しの肩口に、ミシェルの吐息がかかる。
「悪い子だね、ミシェル」
吹き込むように耳元でそう囁けば、ミシェルはびくりと顔を上げようとした。それを許さず、押さえる手に力を込める。
冷えた頬にするりと自分の頬を合わせて、ロズはもう一度囁いた。
「悪い子だ」
「ろ、ず」
「僕じゃなくて、メリザンドなんかに言われたことを、ずっと気にしてるなんて」
「……ぇ」
ミシェルが戸惑った声を上げた。
「僕が怪我をしたのも、コラリーが殺されかけたのも、別にミシェルのせいじゃないのに」
「そんな、こと」
「どうして? だって、やったのはメリザンドでしょ」
そんな簡単なことも分からないくらい、ミシェルはメリザンドに囚われている。
早く、早くそんなしがらみは捨て去って、ロズだけのものになって欲しいのに。
「あそこでコラリーを殺す必要なんてなかったし、ミシェルを殴ろうとしたのも八つ当たりみたいなものだった。そうでしょ?」
「う、ん」
「ミシェルは自分で考えて行動しただけ。……それだけだよ」
ミシェルのまろい頭から背中にかけて、ゆっくりと撫でてやる。それまで行き場を失くして彷徨っていた小さな手が、おずおずと、ロズの体に回された。
「あの女に言われたことなんて、全部忘れて」
「……うん」
「僕の言うことだけ信じて」
「うん」
「よしよし。良い子だね」
いつしかロズに縋りつくようにしているミシェルに、ロズは、笑みを深めた。




