第32話 文字
今日は朝から炊き出しの準備で大忙しだった。
とはいっても、ロズはほとんど何もしていない。少し荷運びを手伝ったくらいだ。
前日に神官たちが総出で磨いた大鍋は、今は神殿の正面で火にかけられている。いくつもある鍋の番をしているのはミシェルで、ロズはその後ろをついて回っていた。
夏場はこうやって火の世話をするのも重労働だろうが、冬の今はあまり苦にならない。大変そうなのは、使用する食材や水、薪を何度も往復して運んでいる神官たちだ。
ミシェルは申し訳なさそうにしていたが、病み上がりで痩せこけている彼女に力仕事をさせる訳がない。
時の神殿には、国中から供物として様々な物が集まる。特に、貴族たちはこぞって自分たちの権威を示したがり、高価な貴金属や大量の食材が届くのが常だった。
神官たちだけでは処理しきれないそれらは、様々な方法で民に広く分け与えられる。今日はそのために行われる炊き出しの日だ。
「ロズ、こっち」
「薪を足すの?」
「うん」
ミシェルに呼ばれたので、積んであった薪を抱えて近寄る。
ありがとう、と微笑んだミシェルは、火の加減を見ながら鍋をかき混ぜている。中で煮えているのは麦粥だった。
言われた通りに薪を火に放り込み、後はミシェルの手元をじっと眺める。そろそろ準備も終わるだろう。
神官長がやってきて、それぞれの鍋を確認している。
「良さそうなので、皆を呼びましょうか。ミシェル、器によそうのを手伝ってください」
「はい」
神官長は、ロズにはなんの仕事も寄越さなかった。どうせ何もしないと思っているのだろう。よく分かっている。
神官たちが門扉を開き、待っていた人々が入って来る。それぞれに明るい表情で、大きな混乱もなく鍋を覗き込み、列を作っている。
ロズノアテムの神殿で行われる炊き出しは、頻度が高い。だから、食料を奪い合うような事態は滅多に起こらない。
それでも、食事を求めてやってくる人の数は、先代の頃よりも多いように見えた。
ロズは積まれた薪の上に腰を下ろして、働くミシェルの様子を眺めていることにした。
「ミシェルさ……、いえ、ミシェルはもう馴染んでいますね」
炊き出しに並ぶ人の列が、目に見えて少なくなった頃。神官長がロズの隣に立って、口を開いた。
「そうだね」
それはきっと、『前』の経験があるからだ、とは言えない。
神殿に来てすぐ、ミシェルは神官長に、敬称を使わないように頼んでいた。落ち着かないからと。
寝込んでいる間に服を新調しておいたら、慣れた手つきで新しい服を手に取った。初めて食堂で食事をした時、当然のようにロズの隣に腰を下ろした。
ミシェルにとっては、今ここで過ごす時間は、『前』の延長線上にあるのだろう。
「午後にはメリザンドお嬢様がいらっしゃるので、ミシェルの手紙はその時に渡しますね」
ロズは神官長を横目で見上げた。
昨日、メリザンドに第三王子への取り次ぎを頼むと決めた後。ミシェルはその夜のうちに、手紙を書き上げていた。
「頼むね。……まあ、上手くいくかは分かんないけど」
むしろ、メリザンドを怒らせる可能性の方が高いのではないかと、ロズは気が気ではない。ミシェルがどうにか力になりたいと望むから、渋々許可しただけだ。
ただ話を聞いただけでも、メリザンドがいかにミシェルのことを人と思っていないか、よく分かる。ミシェルが自分の意思を表に出しただけで折檻するような女だ。
今回のことも、「ミシェル(人形)が勝手に動いた」と受け取られたら、どうなるか。
絶対に二人を対面させてはならないと、ロズはぎゅっと顔をしかめた。
「炊き出しが終わるまでは、絶対にお嬢様は来ませんから。そんなに身構えずとも、まだ大丈夫ですよ」
人の出入りは落ち着いてきたものの、神殿に向かって丘を登る人影は絶える気配がない。これなら、メリザンドはまだまだやって来ないだろう。
先代はこういった慈善活動にも熱心だったなと、ロズは何となく思い出した。
「……ところで、ミシェルはあそこで何を?」
炊き出しの列から離れた所に視線を向けて、神官長はやや困惑した声を出した。
「ああ」
さっきからずっと見守っていたロズは、口の端に薄く笑みを浮かべた。
「子供に絡まれてる」
炊き出しを行っている、神殿前の広場。その端で、ミシェルが大勢の子供たちに纏わりつかれていた。
親が列に並んでいる間、手持無沙汰となった子供たちが、新顔のミシェルに興味を持ったのだ。
あまりにもちょっかいをかけてくる子供が多いため、ミシェルは配膳の手伝いを諦めて、火から離れた場所で相手をすることにしたようだった。
「でもねぇ。子守りに全然慣れてなくて、ずーっとああやってオロオロしてるんだよ」
やんちゃ盛りの子供たちは、好き勝手に別々のことを話しかけ、あちらこちらから服を引っ張り、かと思えば突然喧嘩を始めたりと、ひたすらミシェルを戸惑わせている。
時々、途方に暮れた目をしたミシェルが、助けを求めるようにロズを見てくる。その度に、ロズは笑顔で手を振り返していた。
「いや、そこは助けてあげなさい」
「えー」
困り果てているミシェルを眺めるのが楽しいのに。
だいたい、ロズが間に入ったところで、どうにかなるとも思えない。
呆れた顔をしていた神官長だが、その意見には反論できなかったのだろう。ううん、と唸ってから黙り込んでしまった。
そんなやりとりをしている間にも、ミシェルは子供たちに引っ張られてしゃがみこみ、渡された枝木で地面に何かを書かされている。
何をしているのだろう、と耳を澄ませると、どうやら文字を教えているらしかった。
この国に限らず、文字の読み書きができる平民は少ない。炊き出しに連れて来られるような子供に、字を読める者はほぼいないはずだ。
地面に文字が増えるたび、子供たちは歓声を上げている。ミシェルはやや居心地が悪そうだ。
その空気を誤魔化したかったのか、「文字は」と、ミシェルは珍しく自分から話し始めた。
「知識の神が、うまれてはじめて創り、人にあたえてくださったもの」
普段のように言葉を探して淀むこともなく、ただし舌足らずな話し方は変わらずに、ミシェルは子供たちを前に語る。
「知識のはじまりだから、文字を、さいしょに学ぶ」
意外なことに、子供たちはミシェルの授業を、身を乗り出して聞いていた。
「神は、知識はふさわしいものに、あたえるべきだと、おっしゃった」
ミシェルは子供たちに名前を聞き、地面に書いてやっている。すっかり懐かれて、鍋の前に並んでいる親も微笑ましそうだ。
随分と平和だなあ、とロズが欠伸を漏らした時だった。
「今のは……」
神官長が驚いたように声を上げた。
「何?」
何か、おかしなことでもあっただろうか。もしやメリザンドが来てしまったかと立ち上がりかけたロズに、神官長はゆるく首を振った。
「いえ、大丈夫です。私が驚いたのは……、今ミシェルが話していたのが、貴族が最初に受ける教育の内容だったからですよ」
「……どういうこと?」
ロズは眉をひそめた。
ミシェルが子供たちに話していたのは、文字の成り立ちだ。知識の神が創り、人々に広めた。それは事実だから、特になんとも思わなかった。
しかし、神官長は言う。
「知識は相応しい者に与えるべきである。だから、高貴な血筋の者こそが知識を持つべきである。……そんな風に、教えられるんですよ」
「そんな意味の言葉だっけ」
ロズは、古い古い記憶を辿る。知識の神が、人々に自分の知識を分け与えるときに、いつも言っていた。
(そう、確か……、知識を持つに相応しいのは、学びたいと心から思う者だ、とかなんとか)
しかし、今では貴族たちが身分を誇示するために、かの神の言葉は歪められているらしい。
(まあ、人間が愚かなのは今に始まったことじゃないか)
そして、それを気にするのはロズの役目ではない。
それよりも、今はミシェルのことだ。
「とても綺麗な字を書くから、不思議だとは思っていたんですよ。いくらお嬢様の侍女とはいえ、ミシェルが公爵家で、まともに教育を受けられたのかと」
「……確かに?」
そこまで考えが及んでいなかった。
幼い頃、ボロボロの姿で神殿近くに倒れていたミシェル。そこから公爵家に引き取られたが、彼女の後見人になるはずだった先代はすぐに亡くなってしまった。
だから、ミシェルを気にかけて教育を施してくれる人物など、キャステン家にはいないはずなのだ。
それなのに、ミシェルは当然のように文字を読み書きし、国の歴史といった教養にも明るい。
「ミシェルが、貴族の出身だってこと? でも……」
この神殿で、ミシェルを拾ったのはロズだ。
だから、あの時のミシェルがとても貴族には見えなかったことを、よく知っている。骨の浮き出た体に、サイズの合っていないワンピースを着て、全体的に薄汚れていた。古い痣の上に新しい傷があったのは、継続して暴力を受け続けていた証拠だ。
しかし、神官長は眉をひそめたままだった。
「もしや、ベイロン子爵家の令嬢では……」
「ベイロン?」
何やら心当たりがあるらしい。
「数年前に取り潰しになった家ですよ。その前から資金的に困窮していたのですが、他国の貴族に一人娘を売り飛ばそうとしたんです」
エンテ神聖国では、人身売買は禁止されている。それはこの国を作った時に、サクスピエンティムが定めた決まりの一つだ。
神による法であるため、刑罰は殺人等とも並ぶ重さで、場合によっては処刑もありうる。家の取り潰しも当然だろう。
そもそも、一人娘ならば唯一の後継であるはず。金に困っていたからと言って、売ることを考える馬鹿が本当にいるのか。
目を白黒させるロズに、神官長は苦笑いした。
「随分と金に執着していたようで。目先のことしか考えていなかったのでしょう。騎士団が踏み込んだ時、娘は商人に引き渡された後で、夫人が金貨の詰まった袋に頬ずりしていたらしいですから」
「……その娘が、ミシェルだっていうの?」
「分かりませんが、少なくとも名前は同じです」
それに、と神官長は続けた。
「そうだとすれば、いろいろと腑に落ちることもあるのですよ」
親に売り飛ばされた幼い貴族の娘。どこから来たのかすら分からない、身元不明の子供。
二人が同一人物ではないと、言い切ることのできる根拠は、ない。
「ベイロン子爵家の屋敷には、子供部屋が無かったそうです。その代わり、勉強部屋があった。窓に鉄格子の嵌まった小さな部屋で、鞭だけが置かれていた、と」
「……」
「よくよく調べると、馬小屋や屋根裏に、人の寝起きしていた形跡があったようですよ」
ロズは思い出す。
メリザンドについて、ミシェルが語っていたことを。
叩くこともせず、閉じ込めることもせず、殺そうともしない。だから、優しい人だと思ったのだと。
この神殿に来る前のミシェルは、それが当たり前だったのだ。叩かれ、閉じ込められ、命の危機を感じるような日々が。
メリザンドが与える不十分な施しですらも、贅沢と感じるような扱いが。
「……そっか」
それじゃあ、と呟くロズの声は、あくまで淡々としていた。
「確かめてみないとね」




