第22話 崩壊
人目を避けるようにして、情報屋が帰ったあと。祈りの時間からは少し遅れて、メリザンドが神殿にやってきた。
出迎えた神官が隣で何か言いたげにしているが、メリザンドはそのことに気づいていない様子だ。
祈りの間の前で待っていたミシェルは、静かに跪いてメリザンドを迎えた。
「ミシェル! 会いたかったよ!」
にこにこと笑うメリザンドは、変わりなく元気そうで安心する。ミシェルもよく知る、明るい令嬢の姿だ。
やはり、あの悪評は何かの間違いだったのではと、そんな気がしてくる。
足取り軽く駆けてきたメリザンドは、ミシェルの手を取って立たせてくれた。そして、傍にいた神官や使用人たちに頷く。
「下がってて良いよ。あたしはミシェルと話があるから!」
神官は困ったような顔のまま踵を返し、使用人たちは固く引き締めた表情で廊下の端に並んだ。
ミシェルはメリザンドに手を引かれるまま、祈りの間に足を踏み入れた。
ロズノアテムの神像は、いつもと変わらずに石のつぼみを握っている。
メリザンドは神像の前に置かれた椅子に座ると、手のひらを上にして差し出した。
「それじゃあ、お願いしてた調べ物、結果を教えてくれる?」
手を出しているのは、書面で報告しろということだ。発言の許可は出ていない。だからミシェルは、調査結果をまとめた報告書を出した。
メリザンドを待っている間に、もらった調査結果を読んでまとめておいたのだ。あまりに情報が多いと、彼女は読むのを嫌がってしまう。だから、一番危険度の高そうな三家を中心にした報告書を作った。
他の貴族家については、最後にリストとして載せておいた。だがメリザンドはそこまで読まないだろう。
書類を受け取ったメリザンドは、やはりそれを隅々まで読み込むことはしなかった。「ふーん」と呟きながら、ぺらぺらとページをめくっていく。最後のページは見もせずに閉じて、メリザンドはにっこりと笑った。
「ねえミシェル、これだけ?」
え、と声を上げそうになって、慌てて唇を噛んでこらえた。
歌うような口調で、メリザンドは続ける。
「あなたなら、もっと詳細に調べられるでしょ? どうしてこれだけなの?」
それは、確かに今まではそうだった。
メリザンドを狙う家の中から、前回の死因を手がかりに調べるよう依頼すれば、もっと詳しい情報が入手できたのだから。
けれど前回、ミシェルはメリザンドよりも先に死んでしまい、彼女の最期がどんなものだったのかを見ていないのだ。
メリザンドは、ミシェルが同じように記憶を持ったまま、過去に戻っていることを知らない。だからミシェルのことを、優秀だと勘違いしている。
(明かすなら、今では)
これまでは発言を許されていなかったから、伝えることができなかった。でも今なら。
メリザンドの侍女を解雇された今のミシェルなら、もっと効率よくメリザンドを手伝える。
調べた情報も、直接的に役立てることができる。世間に広まっている悪評だって、二人でなら覆せるかもしれない。
ミシェルはごくりと唾を飲み込んだ。
緊張に乾く唇を湿らせて、ゆっくりと口を開く。
「あ、あの、お嬢様」
メリザンドが目を丸くする。
「私、お嬢様に――、っ!」
顔の左側に強烈な衝撃が走って、ミシェルは倒れ込んだ。
何が起きたのか分からず、頬を押さえて床を見つめ、何度も瞬きを繰り返す。
よく知っている痛みだ。これは、幼い頃によく受けていたもの。
「ミシェル」
視界に入ってきたのは、メリザンドが着ているドレスの裾だ。
「どうしてそんなに、綺麗な声をしているの?」
ぐいっと髪を引かれて、無理矢理に顔を上げさせられる。鋭い痛みが頭皮に走ったが、漏れかけた呻き声は喉の奥で必死に押し潰した。
メリザンドが、ミシェルの髪を掴んでいる。
「あたし、声を出していいって言った? 言ってないよね? 神殿に来てから、ずっと喋ってたの? じゃないと、そんなに上手く話せないよねぇ。ね、ミシェル。あたしの言いつけを破ったのは、どうして?」
笑っている。いつものように、優しく微笑んでいる。
ミシェルは口をはくはくと動かして、質問に答えようとした。
「それは、」
「喋っていいなんて言ってない!」
右の頬を平手で打たれた。
メリザンドの手は少し赤くなっただけなのに、ミシェルの両頬はじんじんと痛む。口の中が切れたようで、生臭い血の味がゆっくりと広がっていくのが分かった。
人の殴り方を、知っている手だ。
「ミシェル、あなたがこんなに悪い子だなんて思わなかった」
耳元で、メリザンドがねっとりと囁く。
「あたしの言うとおりに動かない道具なんて、いらないの。分かる? 教えてあげたよね? ミシェルが悪いの。全部ミシェルが悪いんだよ。だって、あたしに逆らうんだもん」
鷲掴みにされた髪が、ぎしぎしと軋む。
「ミシェルはあたしのお友達。気持ちとか、言葉とか、必要ないの。そんな簡単なことも、分かってなかったの?」
明るく快活で、心優しい令嬢。そのはずだった。
目の前にヒビが入って、ガラガラと音を立てて崩れていく。信じたいと思ったものがすべて、壁に描かれただけの虚構でしかなかったのだと。
(いや……、嫌だ。そんなの、信じたく、ない)
メリザンドはこんな酷いことをしない。こんな酷いことを言わない。
ミシェルの知る主人は、優しい少女なのだ。
説明すれば分かってくれる。
まだ言葉は拙いけれど。自分の気持ちを説明するのは難しいけれど。
それでも口が強張ることなく動いたのは、きっと、ロズとの練習の賜物だった。
「お嬢様に、大好きって、言いたくて」
最初はロズに言われて、渋々従った。メリザンドを裏切っているようで心苦しかったが、逆らえる立場でもない。
けれど、言葉を使うことを覚えて、気持ちを伝える事を知ってからは、ずっと頭の片隅で思っていた。
メリザンドに、この忠誠を、心からの親愛を、まっすぐに示したいと。
話すことに対して、忌避感はまだ少しだけ残っている。だがこの思いは、間違いなくミシェル自身のものだった。
「は? 気持ち悪い。そんなの必要ないって言ってるでしょ!」
それを、メリザンドは一蹴した。
掴まれていた髪がパッと解放される。床に逆戻りしたミシェルはすぐに体を起こそうとしたが、上から頭を強く押さえつけられた。
「ミシェル、今回は許してあげるけど、次はないからね? あたしの命令を無視するミシェルが悪いんだから」
ガン、ガン、と頭に衝撃が走る。ドレスの揺れ方で、何度も踏みつけられているのだと分かった。
「そのまま這いつくばってて。いつもみたいにお祈りしなさい。あたしの代わりにね」
頭上から降ってくる声と足を、ミシェルはぼんやりと受け止めていた。
お祈り。
ミシェルはいつも、メリザンドに連れられて祈りの間に入っていた。
「一緒にお祈りしていいよ」と言われて、椅子に座るメリザンドの隣で跪き、ミシェルも祈った。
時を司る神、ロズノアテム。ミシェルは伴侶役ではないから、時の神に何を祈ればいいか分からない。だから、ただ感謝を捧げていた。
「幸福な時間を、ありがとうございます」と。
「まったく、こんなことしなくても、今まで、使いやすかったのに! やっぱり、屋敷に閉じ込めて、おかなきゃ!」
メリザンドの声に、苛立たしげな響きはない。どこまでも困ったような、途方に暮れたような声だ。
少しだけ顔を傾けて、なんとか彼女の顔を見ようとした。
今、どんな顔をしているのか、見たかった。
「ちょっと、ミシェルいるー!?」
激しく扉を叩く音。聞こえたのはロズの声だ。
「調理場のかまどが火を噴いたんだけど! どうしたらいい!?」
メリザンドの足が止まった。
「……飽きた。もう帰るから、ちゃんとお祈りしといて。あと、調べ物はもっと詳しくしておくこと。明日までにね」
ドレスの裾が離れる。ヒールの硬質な音が遠ざかっていくのとは反対に、慌ただしい足音と衣擦れが近づいてきた。
「ミシェル! 大丈夫!?」
「……ロズ」
ゆっくりと起き上がる。床の上に座り込むと、今までに見たことがないくらいに焦った顔のロズが、目の前に膝をついていた。
「ごめん、すぐに助けられなくて。殴られたのを見てすぐ来ようと思ったんだけど、監視部屋から抜け出すのに時間がかかって」
「……かんしべや?」
「ここ、外から監視できるようになってるんだ。伴侶役が役目を果たしているか確認するために。今の公爵が出入り口をレンガで埋めたせいで、使えないんだけど。壁に穴を開けて潜り込んだら、思いのほかその穴が小さくて、出るのに時間がかかっちゃったんだ」
いつもより、よく喋るなと思った。
ロズは早口で喋りながら、そっとミシェルの顔に手を添えてあちこち確認している。
「血が酷いからすぐに止血しよう。頬も冷やさないと。道具を取ってくるから待ってて。あんまり動かないようにね」
「だいじょうぶよ」
「全然、大丈夫じゃないから!」
ロズがとうとう声を荒げたが、そんなに言わなくてもこれくらいなら大丈夫だ。
「……頭は、きずが浅くても、たくさん血がでる。おじょうさまは、そんなに力がつよくない。見た目ほどじゃ、ない」
自分でも頭を触ってみたが、やはり酷い傷ではなさそうだ。
ロズは少しの間だけ口を噤んで、ミシェルの頬を撫でた。
「慣れてるみたいだね」
「まあ……」
「そうやって誤魔化すのは、君にしては珍しい」
ミシェルは思わず笑ってしまった。そんなの当然だ。ロズと出会う前はろくに話したことがないのだから、何かを誤魔化すなんて初めてに決まっていた。
吊り上げた唇の上に、ぽろりと雫が伝う。
「ロズ、わたし、どうしたらいいの?」
頬を伝う涙に、血が混じる。拭うと、手の甲に赤い筋がついた。
「お嬢様に、言われたことを、すればいい? ここでお祈りして、もう一度しらべてもらう? おじょうさまを、殺そうとする人たちのこと……」
ミシェルの忠誠は本物だったはずだ。メリザンドの侍女として、これまで命令に背いたことなどなかった。
それなのに、今はこんなにも、途方に暮れている。
「ミシェル」
「分からないの、ロズ。ほんとうに……、わからないの……」
見上げると、ロズの赤い瞳が揺れた。
何かを噛み締めるようにぎゅっと眉を寄せた後、ロズは白い神官服が血で汚れるのも構わず、ミシェルの頭ごと抱えるように腕を回した。
「……ミシェル、僕の話、聞いてくれる?」
先に、傷の手当てをしてからね。
優しく降ってくるロズの声はまさに、ミシェルにとっては救いの声だった。




