乳母のクロ
オリは魔法使いである。でも、魔法の業を軽々しく使うことには気が進まない。それは、こうしてデンバー中の騎士に追われるようになっても、オリの中の境界線は何ひとつ変わっていなかった。
だが、今回は少し状況が違った。いったい、どこの魔族の落とし物かは知らないが、オリの魔力を吸いに現れた子供の性女がオリの手元にいたのだ。おそらくは、騎士連中も王の貞操を奪って呪いをかけた犯人として、この小さな魔族を追っていたに違いない。
魔族の魔力、そこから生み出される比類なき魔法の威力は、魔王の名を知る者ならば誰でも知っているはずだろう。
このいやらしい修道服を着た卑猥な子供を盾にすれば、たとえオリがエルフ直伝の上級魔法を撃ち放ったとしても認知はされず、すべては魔族の仕業となってオリの名前は残らない。
オリがエルフの知識を受け継いでいることは知られた話だけれど、それを公衆に晒したというウワサだけでもモモエの逆鱗に触れることになるし、さらに上のエルフたちが本気で殺しにかかってくる。
魔法業界というのは、そういう面倒な世界なのだった。
「むー・・・」
一瞬、という表現すら遅く感じられる速さで魔法を行使し、オリは騎士の包囲という災難から難を逃れた。
具体的には、ぴょんと建物の屋根の上まで移動しただけなのだが。綺麗な手の肉球を汚して壁を上ったわけでも、獣人の筋力やエルフの軽やかな身のこなしで跳んだわけでもない。もったらとして間抜けにも猫背を見せたら、弓がなくとも剣を投げつけられるし、そうやって身体を張った汗臭いやり方はオリの流儀ではないのだ。
ただ単に下から上へ移動した。魔法学に疎い素人に言葉で伝えるのは至難だけれど、魔法は人を消し炭にしたり、城を爆発させたりするだけのものではない。子供向けの絵本にもあるホウキの魔女がやってのけるように、あらゆる不可能を可能にする潜在的な可能性を魔法は常に秘めており、その引き出し方をこれまで誰も知らなかっただけのこと。
突然にオリの毛玉姿が消失して混乱する騎士団を下に見ながら、オリは誰かの家の煙突に猫背をもたれ、ローブの懐からスキットルを取り出して鼻づらの先で舐めて飲む。本物のオレンジジュースはとっくに切らしていたから、中身はここらで買ったマズい果汁水だったが、それでもないよりはマシであろう。
屋根の上は遮るものがないもんで夜風が毛皮に沁みるけれど、悪くない気分である。そうして性懲りもなく飲んだくれていると、オリの魔法に巻き込んでしまった魔族の子供が修道服の切れ目から、また小さくて細い生足を晒してオリの鼻づらをじーっと見つめていた。
「あげないよ?」
オリはとっさに手に持っていたものを隠したが、その子供はオリを見るのをやめない。これが人間なら五才かそこらに見えるけれど、人の皮をかぶった内側は紛れもない魔族である。それを証明するかのように、子供が全身をこわばらせて力んだ次の瞬間、小振りながらも悪魔のそれを想起させる一対の翼が背中から生えて出た。
まだ物理的に飛ぶのは無理らしいが、この高所にあっても何を恐れることもなく器用に均衡を取りつつ寄ってきて、猫背を見せたオリのシッポを川の靴で思いきり踏んづけたのだ。
「にゃ・・・」
オリという毛玉姿を相手にしても動じない子供離れした度胸と、ぐりぐりとして他人のシッポを擦り潰す容赦ない加虐心は魔族そのもの。オリも死なない身の上になったら、これぐらい堂々と世の中を生きられるようになるのかと想像してみたが、その前にシッポをちぎられそうだったのもあり、オリは観念して果汁水が入ったスキットルを明け渡した。
「ふう、ふう」
なけなしの果汁水まで奪われたオリは、目の前の憎たらしい魔族の子供が夢中で飲み干している間に、踏みつけられていシッポの無事を確かめた。
修道服に合わせて履く性女の靴は、オリの毛並みと同じ光沢のある良い革質の高級品というのもあって頑丈であり、危うく本当にシッポを潰されるところだった。こんなことを平気でする魔族の心のように泥だらけとなって肉の座り心地も変形してしまっていたが、なんとか元気に繋がっている。
その安堵もつかの間、一気に飲み散らかした子供はオリの胸に飛び込んできて、エルフの誰かさんみたいに毛をむしり取りながら、オリという男の乳に喰らいついた。
「ほげ・・・」
これはもう本当に腹を空かしていたのだろう。魔族にも育ち盛りはあるはずだけれど、ちゅうちゅうとしてオリの魔力を吸い取るのは、辺りに騎士の姿が見えなくなっても永遠に続いていた。
この様子では、母親から引き離されたのも相当に早かったに違いない。子供が母親に依存するのは母乳という養分を得るだけでなく、未熟で弱い自分を無条件に保護して愛情を注いでくれる母性を得るためでもある。
それが不本意な形で無理矢理に終わってしまい、この子供は影も形も似ていないオリという毛玉を母親に見立て、魔力と毛皮の温もりを得たのだ。
魔族もエルフも女しか生まれない特殊な種族柄、同時に天性の魔法使いでもある。母親から魔力を奪う子供は忌み嫌われ、さすがに獣人には劣るが、山ほど子供を作る割には子育てという文化を持たない。
エルフには、それを専門とする機関と要員がいて子供を引き受けるらしいが、魔族が子供を育てるというのは聞いたことがなかった。
母親に冷たくされて口減らしに放り出されたというのはオリも同じだが。食物連鎖の頂点に女が立ち、男と子供は等しく迫害されるのが大魔法時代である。いくら不老不死といっても喰わなければ腹は減るだろうし、この子供を見ていると、なんだか他人事とは思えない。
そういうわけで、オリは柄にもなく修道服姿の子供にシッポを握らせ、騎士に見つからないよう路地裏を通ってデンバーを出ようとした。
こうなってしまった以上、王もオリたちとは取引しないということだろう。淫紋それ自体は大した呪いでもないし、そのうち、少しは使える魔法使いが通りかかって治してくれる。このまま、この国に留まっていたら捕まって殺されるかもしれないし、さっさと他の町に逃げて飲みなおすにかぎるのだ。
褒美は惜しいが、張本人のモモエも消えたわけで何の義理もない。そろそろ、王都の壁の門が見えてきたと思った矢先、ひとりの騎士が追いついてきた。
「クロ殿」
母親譲りで顔も良いし、細身ながらも頑丈で美味そうな身体をしているのだけれど、どこか頼りないのは種親の血が悪いのだろう。騎士という融通の利かない役職に縛られて公私共に甲冑姿というのもあり、のんびり歩いてきたオリたちを捕まえる前に、ほとんど体力を消耗しきってしまったようだった。
ひとりだけ、その他大勢とは違う道理で動いているのならば、こんなときぐらい身軽な服装で来たって罰は当たらないと思うのだが。
この国では多く見かける玉袋付きの女、あるいは女の顔をした男のひとりであるシャルンは哀れな同類であり、何を隠そうガルーダの息子なのだ。こんな遅くに程よい煮込み加減のニオイも漂ってきたことだし、オリはくんくんと鼻づらを効かせながら、そこのシャルンと良い具合に飼い慣らした魔族の子供を連れてニオイの元に向かった。




