美血のクロ
ところが、物事はそう単純でもなかった。モモエは自分の鼻水でべとべとにしたオリのシッポを握りしめながら、ぐいっと力任せに引っ張って引き寄せ、年季の入った泣き芝居を続けて囁いたのだ。
夫のオリが騙されるのだから、このモモエがふてぶてしいかぎりの喰えないエルフ娘だと知らない者たちは、ころっとして裏をかかれることになる。
オリもこの手で何度、モモエのいいように操られたか分からない。もしかしたら、さっきの話も最初からモモエの作り話だったのだろうか。
あり得ることだ。エルフ族は昔から信念を持ってウソを吐き続けてきた。モモエの言うことが何ひとつ信用に値しないのは、それによって誰よりも不利益を被り続けてきたオリが証明するところ。
モモエがろくでもない女だというのは言うまでもないけれど、このエルフが相手だと、どうしてこうもオリは弱いのか。
モモエ云々を通り越して、オリにはそれが何よりも悩ましく腹立たしいかぎりであった。
「魔族よ」
ただ、モモエがたしかにそう言ったのを頭の上の獣耳で聞いた途端、オリははっとして猫背をぴんと伸ばした。
全身の毛がごうごうと音を立てて波打つ。それから、耳も立てて周囲の音を感じ、メスの股ぐらとオレンジを舐め比べるためだけに使われるざらついた長いイヌの舌で鼻づらの先を濡らし、くんくんと魔力のニオイを嗅ぎ分けようとする。
だが、この騒がしい人間たちの群れ、そこかしこに充満する酒やつまみの肉料理、泥酔した人間娘どもの小便や嘔吐物の悪臭に紛れてしまい、魔力だけを嗅ぎ取って魔族を探し出すのは困難であった。
まるで図られたような演出だった。この混雑の中で魔族に襲われたら、ひとたまりもないであろう。
はるか昔に魔王と世界を滅ぼしかけた種族とはいえ、ぱっと見の外見は人間の女と大して変わらないということは、オリたちをここにつかわせたリリスを見れば分かる。
全くもって油断していた。魔族にとって男を襲って魔力を得るのは、赤い血の動物が喰ったり飲んだりするのと同じことであり、それは生きるために腹を満たす行為なのだ。
一国の王の高貴な魔力を喰らって終わるという保証はないし、また腹が空けば、もぞもぞと這い出してきて獲物を探すのだろう。
魔族だって生き物なら味にはこだわる。若くて成熟していて歯ごたえのある屈強な獣人のオスなんかは、特に美味そうに見えてしまうのだ。
そうして選ばれた今夜の生贄がオリというだけのことだった。
「あいたっ」
女ほどではないが、毛玉姿は男でもかなり大きいから足元がおろそかになる。
ちょうど、その無防備な弱点を狙い打つように、何者かの鋭い一撃がオリの太ももに突き刺さり、肉を破って内側に侵入した。
ちゅうちゅうと生き物の鼓動を感じる強烈な吸血で魔力を奪われ、足をばたつかせて振り払おうにも相手が重すぎた。
おまけに、がっしりと両手と両足を絡ませてしがみつき、よほど腹が減っていたのか、機械仕掛けのような勢いで血を吸い尽くそうとする。
モモエにブーツで蹴られるよりは痛くないが、あんまりにも夢中で血を吸われ続けたらオリも死ぬことになるわけで、よほどデカい虫が取りついたのだろうと思って見てみれば、黒い布切れをかぶった子供がへばりついていた。
「ずいぶん大きい虫ね」
エルフにとっては人間も魔族も虫と同じなんだろうけれど、よく見れば、オリの血を吸う子供が身につけているのは、リリスと同じ教会の性女が着用する修道服である。
魔族といえば教会、教会といえば修道服であり、性職者らしい妖艶で挑戦的で露出が多くなるように設計されている。子供用とはいえ、これも足のラインに沿って切れ目が施され、か細い子供の白い生足がのぞいていた。
ひとまず、オリは肉ごと喰いちぎられてしまわないよう注意しながら、そっと子供を掴んで引き剥がして抱きかかえる。
すでにモモエは短剣を引き抜いて始末する気でいたが、どっちみち、この子供が魔族なら何をしようと死なないし、下手に刺激すれば幼いが故に暴発する危険もあるのだ。
これがデンバーの王を襲った魔族であれば、一件落着に近付くわけだし、魔族のことは魔族というわけでリリスに引き取ってもらうのが最善であった。
「さっきまで喰おうとしてた割には、ずいぶん懐いてるわね。あんたの子?」
モモエがそう聞くと、魔族の子供はぎゅうとオリの胸元を掴んだ。つまり、そういうことらしい。別に心当たりがないわけじゃないけれど、この子供はオリが種親のようだった。
「なら、母親はあの女よね」
「どの女?」
「言わせないでよ。ムカつく」
そうは言ってもオリはエルフじゃないのだ。ちゃんと言葉にしてもらわないと、伝わるものも伝わらない。いまのままでも十分に悩ましい状況だというのに、どこの子宮から出てきたかも知れぬ魔族の子供の母親探しをする余裕などなかった。
しかし、いまもオリの毛深い腕の中で暴れて血を吸おうとする子供が今回の仕事に一枚、あるいは二枚も三枚も噛みついて首を突っ込んでいるのは確実らしい。
ふと見れば、そこかしこから完全武装の騎士が何十人、ぞろぞろと街の路地を縫うようにして現れ、オリたちを逃がさんと包囲した。
抜剣した鋼鉄の刃の先がオリの毛玉姿に向けられる。
こういう暴力沙汰はエルフの分野だろうと思って振り返ると、またもはじめからいなかったかのようにモモエは消えており、怪しい魔族の子供を持った毛玉のオリだけが取り残されていたのだ。
騎士に追いかけまわされる覚えはあるが、これはやはり、モモエの吹っかけた無茶な要求を受け入れられないとして向こうが決断した結果なのだろうか。現れた騎士たちの中に、シャルンの姿は見えないようだし、何が何だかオリにはさっぱり分からない。
そもそも、これは何もかもオリを抜きにして行われている陰謀と駆け引き。オリは常に巻き込まれているだけの無力な毛玉であり、正直に言えば、すべてを放り出して逃げたところで誰にも責められない。責められる謂れがないのである。
でも、オリが何を言おうと、どれだけ真摯に無罪潔白を懇切丁寧に説明したところで聞く耳を持ってくれた相手は、ひとりしかいない。
その師匠が死んでしまった以上、オリが鼻づらから語る言葉は誰の耳にも届かず、決して受け入られることはないのだ。
だから、オリも誰の言うことを聞く筋合いもないのだった。




